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2019年03月11日

3月11日



3月11日は日本人、特に東北出身の人達には忘れられない日です。そしてそれは、福島生まれの僕にとっても大きな意味をもちます。僕はこの日に起こった東日本大震災を境に、人生が180度変わりました。もちろんこれは、東北に住んでいた全ての人に当てはまることですが、僕がトルコに行ったのは、この震災がキッカケと言っても過言ではないのです。それくらい僕の人生において忘れることができない日なんです。

あの日、僕は宮城県の仙台市にいました。用事があって仙台に来ていて、それが終わってお気に入りのバウムクーヘンを買うためいつものケーキ屋にて列に並んでいました。なんの変哲もない、いつも通りの日常でしたが、どのバウムクーヘンを買うか悩んでいた次の瞬間 「グラリ」

「何かいつもの地震と違う」

そう思った僕は、すぐさま出口に向かって歩き出しましたが、その数秒後に大きな音とともに激しい揺れが始まりました。出口に向かうまでに、商品棚のお酒や飲み物が一斉に落ちて割れるほど揺れ、やっとのことで地上に出ると僕は衝撃を受けました。それは1分だったか5分だったか、一切止むことがないように思えるくらい長い時間に思えるほどで、周りの建物は揺れ、高層ビルは"しなって"いるかのように見えました。その影響であたりには轟音が鳴り響いていました。僕の他にも地上に人はいましたが、全員何が起こったのか分からないような状態で同じく呆然と立ち尽くしています。

しばらくして揺れが収まると、みんな我に返ったように一斉に電話をかけ始めます。僕もちょうどその日は仙台市内に父と弟が来ていたので、連絡を取ろうとしますが繋がりません。仕方がないので父の勤め先まで歩こうとしましたが、この時突然雪が降り始めてきました。ここ数日は天気も良く、春のような気温だったので薄着で来ていたので、突然の寒さに耐えられず、仕方なく仙台駅内に戻ります。
周りはパニックで、いたるところから煙が立ち上がり、ところどころ道路が隆起していて道行く人々は右往左往しています。僕もどうしたらよいか分からず、やることといえばしきりに電話をかけることしかありませんが、運よく30分後くらいにやっとのことで父に電話がつながり、すでに弟とは合流していたようなので一緒に家へと急ぎます。

仙台市内から僕の家までは、当時は高速道路などなく、国道6号線(通称ロッコク)を車で約2時間かかります。しかし、道路が隆起していたり、途中津波に侵食されて通れなくなっていたりといくつものアクシデントが発生し、大きく遠回りしなければならなくなります。しかも途中ラジオで、ウチから200mほどしか離れていない近所の老人ホームが流されたというニュースが聞こえてきたため、僕らは焦ります。何せウチから海までは約2キロほど離れており、過去に一度も津波が来たことなんてなかったので、これを聞いたときはいったい何が起こっているのか、もうパニック状態でした。

やっとの思いで家の近くまで来ると、またしても信じられない光景が目に入ります。畑のいたるところに、あるはずのない漁船が散乱していたのです。異世界に迷い込んでしまったような異常な光景が広がっていました。
正直もうダメだと思いました。ここまで津波が来ているなんて想像すらしていなかったので、家も倒壊しているのを覚悟しました。

そして家に到着したのは、地震から約7時間後の午後10時です。

そこには瓦礫の山が広がっていました・・・

初めは暗くてよく分かりませんでしたが、目を凝らすと明らかに不自然な塊が山になっているのに気づきます。
どうやら津波は、ちょうど僕の家で止まったようです。

家の庭には、海から流されてきた瓦礫と、この時は気づきませんでしたが死体も一緒に流されてきていたのです。もの凄く気分が悪くなりました。

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※これは実家から歩いて5分ほどの場所から撮った当時の写真です。

今朝まで普通に生活していた環境が、たったの数時間で変わってしまったのを見て、ショックなんて言葉では言い表せないような感覚に陥りました。唯一の救いは、家族には何もなかったことです。津波発生と同時に町内にサイレンが鳴り響き、家に押し寄せる前に逃げたそうです。
が、当然家には住めなくなってしまったので、市内の親せきの家にとりあえず避難することになりました。
とりあえず全員無事だったとのことで一安心したのも束の間、もっと最悪の出来事が発生します。



この時は本当に全員が耳を疑いました。ここから原発までは約30Kmしかなく、放射線の影響が広がるのは明確です。それと同時に外が騒がしくなってきました。
同じように放射線の影響を恐れた住民が、一斉に市外に避難し始めたのです。
自分たちもこうしてはいられないと、最低限の荷物だけ持って着の身着のまま車に乗り込みます。僕ら一同は、福島市にいる親戚の家を目指すことになりました。

親戚の家に到着し、とりあえず一休みできましたが、やはり人数も多く、長くはお世話になれないということで、僕らは直ぐに福島市内にある避難所に移ることになります。そこは市街から少し離れた体育館で、既に大勢の同じように避難してきた人達で溢れていました。
入所の手続きのため、入り口に向かうと、防護服を着た数人の検査員が、新しく来た人達の放射線量を一人一人量ります。この時はまるで自分が「人間じゃない何か」になってしまったような気分でした。

そこから避難所生活が始まりましたが、僕が経験したなかでも特にひどい思い出です。

「昼夜相次ぐ余震で建物がひどく揺れ、轟音が響く」
「夜中に具合が悪くなって運ばれる老人達」
「親が見つからなくて夜中に泣き叫ぶ子供」

極めつけはその場にいる全員の地震速報アラームが、余震が起こる度に一斉に鳴り響くことです。ただでさえ心臓に悪いあの音が、数百台一斉に鳴るところを想像してください。恐怖でしかありません。

そんな生活が2週間ほど続きましたが、そんな状態でも時々実家に帰って少しずつ掃除をし、ようやく住める状態にまで回復しました。自衛隊の方々のおかげで、家の周りの瓦礫もほとんど撤去されており、電気はなくとも我が家で過ごすことの喜びを再び味わうことができたのは嬉しいことでした。こんなにも家族がいることののありがたさや、一緒に食事ができるという喜びは後にも先にもないでしょう。

そんな状態が更に一週間ほど過ぎたある時、運命のトルコ滞在プログラムを見つけます。これについては、別なブログにて説明してあるので読んでいただければと思います。

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※2018年に撮った同じ場所の写真

あれから8年が経ちました。今でも僕はあの日のことを忘れません。というより、忘れることなんてできないです。何年経っても、3月11日の14:46分が近づくと気分が悪くなって感傷的になります。

でも、この震災後に一つだけ学んだことがあります。

それは「諦めなければきっと次に進む扉が見つかる」ということです。

これはトルコにある諺から学んだ部分が大きいのですが、地震の後に自分が歩んできた道を振り返ると、正にそうだとしか思えないんです。時に人生は、自分の力ではどうにもならないことが起きます。そこで運よく助かっても、目の前には何もなくなっているかもしれません。でもそこで諦めてずっと同じ場所に留まっていたら、何も起きないんです。だから動き続けるしかない。動いて動いて、そうすればきっと別な扉が見つかるんです。

こんな震災は二度と起きてほしくないです。日本だけではなく、世界中で起きないことを祈ります。僕らができることは、常日頃から「明日は何が起こるか分からない」と少なくとも頭の片隅には置いておくことなのかもしれません。


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エミル
福島県生まれ。2011年の東日本大震災後、運命のトルコに移住。そこでタレント生活を送り、トルコ人女性と結婚。2017年に家族を連れて日本に本帰国。現在日本に本当のトルコの魅力を伝えるため奮闘中。
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