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2019年10月12日
宮地嶽神社 総本宮【福岡県福津市】
宮地嶽神社 総本宮【福岡県福津市】
全国にある宮地嶽神社の総本宮です。
この鳥居は宮地岳を向いている様に見えます。
この御神体山が最初の信仰の対象だったのかもしれません。
山頂には古宮跡があるそうです。
この宮地嶽神社には三つの“ 日本一 ”があります。
日本一?@
重さ450kgの銅製の大鈴
日本一?A
直径2.2mの大太鼓。
日本一?B
直径2.6メートル、長さ11メートル、
重さ3トンの注連縄。
創建は、約1700年前。
御祭神
息長足比売命(神功皇后)
(おきながたらしひめのみこと)
勝村大神(かつむらのおおかみ)
勝頼大神(かつよりのおおかみ)
神功皇后は三韓遠征の途路、
宮地嶽山頂より大海を臨んで、天つ神に祈願し、船出した。
その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として
奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、
宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)
としてお祀りしました。
しかし、古文書や古い縁起によると、
この宮地嶽神社の祭神は、
中殿に阿部丞相(宮地嶽大明神)、
左に藤高麿(勝村大明神)、右に藤助麿(勝頼大明神)となっています。
この三神は神功皇后の韓国を討った時の功績があった神だそうです。
祭神、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは、
神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の
「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。
また阿部丞相(じょうしょう)とは、
武内宿禰のことだと言われています。
撫で牛
奥之宮八社
一番社・七福神社
弁財天
七福神をまつり、
様々なご利益を受ける事が出来るそうです。
二番社・稲荷神社
五穀豊穣、腕前上達、商売繁盛
三番社・不動神社
不動神社(丸塚古墳)
六世紀末から七世紀始めの円墳、直径は34メートル、
日本最大級の横穴式石室は、全長23m、
高さ幅とも5mを超す大きな石を
積み重ねて作られています。
左右に遺体が置かれ、被葬者については、
磐井氏の関係の墓と言われています。
古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉や
ガラス板など、およそ300点が発見され、
そのうち十数点は、国宝に指定され、
地下の正倉院とも呼ばれています。
四番社・万地蔵尊
子供達の守り神
五番社・恋の宮
「淡島神社」と「濡髪大明神」
女性特有の体の病や恋愛
陰陽石
六番社・三宝荒神
かまど、火除けの神様
七番社・水神社(龍神)
八番社・薬師神社
あらゆる病難から救う神様
2016年に嵐がJALのCMに出演して以来、
CMロケ地として話題になりました。
光の道が見れるのは、2月と10月の
それぞれ一週間程度と非常に短い期間です。
2019年秋は「光の道」の見頃に合わせて、
10月12日〜10月25日頃「夕陽の祭り」が執り行われます。
鎮座地
福岡県福津市宮司元町
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全国にある宮地嶽神社の総本宮です。
この鳥居は宮地岳を向いている様に見えます。
この御神体山が最初の信仰の対象だったのかもしれません。
山頂には古宮跡があるそうです。
この宮地嶽神社には三つの“ 日本一 ”があります。
日本一?@
重さ450kgの銅製の大鈴
日本一?A
直径2.2mの大太鼓。
日本一?B
直径2.6メートル、長さ11メートル、
重さ3トンの注連縄。
創建は、約1700年前。
御祭神
息長足比売命(神功皇后)
(おきながたらしひめのみこと)
勝村大神(かつむらのおおかみ)
勝頼大神(かつよりのおおかみ)
神功皇后は三韓遠征の途路、
宮地嶽山頂より大海を臨んで、天つ神に祈願し、船出した。
その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として
奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、
宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)
としてお祀りしました。
しかし、古文書や古い縁起によると、
この宮地嶽神社の祭神は、
中殿に阿部丞相(宮地嶽大明神)、
左に藤高麿(勝村大明神)、右に藤助麿(勝頼大明神)となっています。
この三神は神功皇后の韓国を討った時の功績があった神だそうです。
祭神、藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは、
神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の
「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。
また阿部丞相(じょうしょう)とは、
武内宿禰のことだと言われています。
撫で牛
奥之宮八社
一番社・七福神社
弁財天
七福神をまつり、
様々なご利益を受ける事が出来るそうです。
二番社・稲荷神社
五穀豊穣、腕前上達、商売繁盛
三番社・不動神社
不動神社(丸塚古墳)
六世紀末から七世紀始めの円墳、直径は34メートル、
日本最大級の横穴式石室は、全長23m、
高さ幅とも5mを超す大きな石を
積み重ねて作られています。
左右に遺体が置かれ、被葬者については、
磐井氏の関係の墓と言われています。
古墳からは、馬具、刀装具、緑に輝く瑠璃玉や
ガラス板など、およそ300点が発見され、
そのうち十数点は、国宝に指定され、
地下の正倉院とも呼ばれています。
四番社・万地蔵尊
子供達の守り神
五番社・恋の宮
「淡島神社」と「濡髪大明神」
女性特有の体の病や恋愛
陰陽石
六番社・三宝荒神
かまど、火除けの神様
七番社・水神社(龍神)
八番社・薬師神社
あらゆる病難から救う神様
2016年に嵐がJALのCMに出演して以来、
CMロケ地として話題になりました。
光の道が見れるのは、2月と10月の
それぞれ一週間程度と非常に短い期間です。
2019年秋は「光の道」の見頃に合わせて、
10月12日〜10月25日頃「夕陽の祭り」が執り行われます。
鎮座地
福岡県福津市宮司元町
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2019年08月08日
もう一つの伊勢天照御祖神社 【福岡県久留米市】
高良大社の末社 伊勢天照御祖神社
伊勢天照御祖神社は、高良大社の参道沿いに
鎮座されている高良大社の末社です。
古くは現・御井小学校「伊勢の井」付近にあったが、
元禄年中(1688-1703)この地に遷座されたそうです。
「延喜式神名帳」には、筑後国大小四座のうちの一社で、
いわゆる「式内」の古社です。
天慶7年(944)の『筑後国内神名帳』には、
「正五位下伊勢天照名神」とあり、
桓武天皇の延暦3年(784)9月、
国司藤原易興の受奏によって、
伊勢国山田原(宇治山田、現伊勢市)より遷座、
神貢57束が奉られたと伝えられています。
祭神 :天照大神
八幡宮
天満宮
左右の境内社(八幡宮・天満宮)も、古くから
高良山内に祀られていたものを、ここの遷したそうです。
『延喜式』神名帳は、筑後国三井郡三座のうちに
「伊勢天照国照御祖神社」を記すが、
御井町の高良大社の末社と大石町の
「伊勢天照御祖神社」に比定が分かれました。
大石町の伊勢天照御祖神社
ニギハヤヒノミコトを祀る 伊勢天照御祖神社
鎮座地
福岡県久留米市御井町
伊勢天照御祖神社は、高良大社の参道沿いに
鎮座されている高良大社の末社です。
古くは現・御井小学校「伊勢の井」付近にあったが、
元禄年中(1688-1703)この地に遷座されたそうです。
「延喜式神名帳」には、筑後国大小四座のうちの一社で、
いわゆる「式内」の古社です。
天慶7年(944)の『筑後国内神名帳』には、
「正五位下伊勢天照名神」とあり、
桓武天皇の延暦3年(784)9月、
国司藤原易興の受奏によって、
伊勢国山田原(宇治山田、現伊勢市)より遷座、
神貢57束が奉られたと伝えられています。
祭神 :天照大神
八幡宮
天満宮
左右の境内社(八幡宮・天満宮)も、古くから
高良山内に祀られていたものを、ここの遷したそうです。
『延喜式』神名帳は、筑後国三井郡三座のうちに
「伊勢天照国照御祖神社」を記すが、
御井町の高良大社の末社と大石町の
「伊勢天照御祖神社」に比定が分かれました。
大石町の伊勢天照御祖神社
ニギハヤヒノミコトを祀る 伊勢天照御祖神社
鎮座地
福岡県久留米市御井町
2019年08月07日
高樹神社【福岡県久留米市】
高樹神社【福岡県久留米市】
猿田彦大神
御祭神 は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)。
古くは「高牟礼権現(たかむれごんげん)」と呼ばれた、
高良山の地主神と伝わります。
古事記の冒頭の部分に、天と地が初めて開けた時、
高天の原(たかまのはら)に出現した神の名は、
天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。
この三柱の神はみな独神(ひとりがみ)となって身を隠されました。
この御祭神の高御産巣日神は日本神話の二番目に出現した神です。
拝殿
この神社は、六国史に名の現れる神社で、
「三代実録」元慶2年(878)11月13日の条に
「筑後国高樹神に従五位上を授く」とあり、
やがて正五位下に進んだことが天慶7年(943)の
「筑後国内神名帳」によって知られる。
もともと、現在「高良大社」のある高良山の山上に
鎮座していましたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、
高良の神は、神籠石(こうごいし)を築いて結界を張ったため、
高良山に戻ることができず、現在の場所に鎮座したという
伝説があります。
本殿
高良山の別名を高牟礼山(たかむれやま)と称するのも
この神の名に因むものである。
鎮座地
福岡県久留米市御井町
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猿田彦大神
御祭神 は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)。
古くは「高牟礼権現(たかむれごんげん)」と呼ばれた、
高良山の地主神と伝わります。
古事記の冒頭の部分に、天と地が初めて開けた時、
高天の原(たかまのはら)に出現した神の名は、
天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。
この三柱の神はみな独神(ひとりがみ)となって身を隠されました。
この御祭神の高御産巣日神は日本神話の二番目に出現した神です。
拝殿
この神社は、六国史に名の現れる神社で、
「三代実録」元慶2年(878)11月13日の条に
「筑後国高樹神に従五位上を授く」とあり、
やがて正五位下に進んだことが天慶7年(943)の
「筑後国内神名帳」によって知られる。
もともと、現在「高良大社」のある高良山の山上に
鎮座していましたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、
高良の神は、神籠石(こうごいし)を築いて結界を張ったため、
高良山に戻ることができず、現在の場所に鎮座したという
伝説があります。
本殿
高良山の別名を高牟礼山(たかむれやま)と称するのも
この神の名に因むものである。
鎮座地
福岡県久留米市御井町
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2019年08月06日
高良山の磐座 神功皇后の背比べ石と馬蹄石【福岡県久留米市】
高良山の磐座 背比べ石と馬蹄石【福岡県久留米市】
【背比べ石】
神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、
この石と背丈を比べて吉凶を占われたとの伝説がありますが、
神功皇后が背比べしたのは、筑後の山門県(やまとのあがた)
(現在のみやま市瀬高町辺り)で勢力をもっていた
土蜘蛛の首長、田油津媛(たぶらつひめ)との戦いの時
だという言い伝えもあります。
【馬蹄石】
大石の上に高良の神が神馬の蹄(ひづめ)のあとを
残されたという伝えから、「馬の足形」とも呼びます。
しかし中世の縁起書『高良記』には、この石こそが「神籠石」であり、
「八葉の石畳(現在の神籠石列石)」の起点、終点であると記されている。
神籠石列石
付近の字名も「神籠石」という。
この馬蹄石は古代の磐座の一種で、
馬の足跡のような穴は杯状穴の可能性があります。
古代の人々が、神に祈りをささげた儀式の場だったのかもしれません。
福岡県久留米市御井町
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【背比べ石】
神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、
この石と背丈を比べて吉凶を占われたとの伝説がありますが、
神功皇后が背比べしたのは、筑後の山門県(やまとのあがた)
(現在のみやま市瀬高町辺り)で勢力をもっていた
土蜘蛛の首長、田油津媛(たぶらつひめ)との戦いの時
だという言い伝えもあります。
【馬蹄石】
大石の上に高良の神が神馬の蹄(ひづめ)のあとを
残されたという伝えから、「馬の足形」とも呼びます。
しかし中世の縁起書『高良記』には、この石こそが「神籠石」であり、
「八葉の石畳(現在の神籠石列石)」の起点、終点であると記されている。
神籠石列石
付近の字名も「神籠石」という。
この馬蹄石は古代の磐座の一種で、
馬の足跡のような穴は杯状穴の可能性があります。
古代の人々が、神に祈りをささげた儀式の場だったのかもしれません。
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2019年07月09日
老松宮(牽牛社)
老松宮(牽牛社)
天の川大橋
宝満川
七夕神社から宝満川をはさむ対岸にかつて
「牽牛社」が建立されていました。
牽牛・織女が天の川に隔てられ、
年に一度だけ7月7日の夜に出会うという故事にちなんで
七夕神社の対になるものとして建立されたと思われ、
西暦1200年〜1300年の鎌倉時代の建立説もあります。
この牽牛社は、水害と周辺の圃場整備のため
大正12年にここ老松宮に移され、合祀されました。
御祭神 :菅原神(菅原道真)、犬飼神が合祀されてます。
七夕神社にまつられている織女神
この老松宮には織女神と相思の仲の「犬飼神」の木像が祀られています。
「犬飼神」は、高さ、41cm、横幅24.5cmの彩色された人物像で、
牛とともに立体的に彫られています。
鎮座地
福岡県小郡市稲吉
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天の川大橋
宝満川
七夕神社から宝満川をはさむ対岸にかつて
「牽牛社」が建立されていました。
牽牛・織女が天の川に隔てられ、
年に一度だけ7月7日の夜に出会うという故事にちなんで
七夕神社の対になるものとして建立されたと思われ、
西暦1200年〜1300年の鎌倉時代の建立説もあります。
この牽牛社は、水害と周辺の圃場整備のため
大正12年にここ老松宮に移され、合祀されました。
御祭神 :菅原神(菅原道真)、犬飼神が合祀されてます。
七夕神社にまつられている織女神
この老松宮には織女神と相思の仲の「犬飼神」の木像が祀られています。
「犬飼神」は、高さ、41cm、横幅24.5cmの彩色された人物像で、
牛とともに立体的に彫られています。
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2019年07月08日
ニギハヤヒを祀る 七夕神社(媛社神社)【福岡県小郡市】
ニギハヤヒを祀る 七夕神社(媛社神社)【福岡県小郡市】
七夕神社は、正式名は媛社(ひめこそ)神社といい、
地元では「たなばたさん」とも呼ばれています。
牽 牛
織 姫
一の鳥居には「媛社神社」と書かれています。
二の鳥居の左側には「棚機(たなばた)神社」とあり、
右側には、「磐船神社」とあります。
磐船神社といえば大阪の磐船神社が有名ですね。
ニギハヤヒを祀る物部氏の神社です。
手水舎には、風鈴が飾られてます。
御祭神は、
媛社神(ひめこそしん)と、織女神(しょくじょしん)です。
媛社神は、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)、
織女神は、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)
といわれてます。
万幡豊秋津師比売命の別名
栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)
万幡豊秋津師比売命と天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)
の間に生まれたのが天火明命(饒速日尊)といわれてます。
別の説では、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の子
八王子(実在は五王子)の中の三男(実在では次男)が天忍穂耳命で、
四男(実在では三男)が饒速日尊といわれてます。
かつてこの筑後一帯は物部氏の本拠地で、
北九州の遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。
その中心地が高良大社のある高良山と推定されています。
ここに磐船神社と名付け、
物部氏の祖神である饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)を
祀ったと思われる。
江戸時代になり、ニギハヤヒを祀る神社に織女神が追祀され、
七夕神社として親しまれるようになったのでしょう。
由緒
神社の歴史は古く、和銅6年(713年)に
各国で作るように命じられた風土記(肥前国風土記)の中に
その由来が出てきます。
以来、1,300年にわたって、
地元の氏神として信仰されてきました。
「 肥前国風土記 」より
山道(やまじ)川の西岸に荒ぶる神がいて、
道行く人の半分を殺していまった。
そこで荒ぶる神がどうして祟るのかそのわけを占うと、
「我が社を造って筑前の国 宗像郡の人珂是古(かぜこ)
にわが社を祭らせよ。そうすれば、 凶暴な心はおこすまい。」
という結果がでた。
※珂是古とは、神主として指名を受ける人物。
筑前国 宗像郡の出身で、祭祀に関係を持つ人であれば、
宗像大社と関係のある人物と思われます。
そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、
珂是古はやがて幡(凧)を手に捧げもって祈り、
「神が私の祭祀を望むならば、この幡は風のまにまに
飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」
といいました。
するとその幡は飛んで行き、御原郡の媛社の杜に落ち、
ふたたび飛んで山道川のほとりに戻ってきました。
珂是古はその夜、
機織りの道具に押さえつけられる夢を見ました。
これで神の場所と荒ぶる神が女神であると知り、
さっそく社を建てて祭った。
それから後には路行く人も殺されなくなった。
ここから、杜を姫社といい、いまは郷の名となった。
延喜式 には、
小郡を含む筑後の国の朝廷への献上品は米と織物になっており、
この地方は織物がたいへん盛んであったことがうかがえます。
棚機津女(たなばたつめ)という機織りの女神を信仰していました。
この棚機津女の信仰と7世紀に中国から伝わった
「牽牛・織姫」の物語がひとつになったのが七夕信仰と言われています。
また、宝満川を挟んでこの織姫をまつる七夕神社と相対して老松神社があり、
ここに、大正12年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。
天の川と同じく南北に流れる宝満川と
その両岸にまつられた織姫と牽牛(彦星)は、
天上の物語を地上に配した様になっています。
天満神社
ここは、平成25年に「 恋人の聖地 」に選定され、
縁結びスポットになってます。
七夕神社の夏祭りは、毎年8月7日に開催されています。
鎮座地
福岡県小郡市大崎1番地
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七夕神社は、正式名は媛社(ひめこそ)神社といい、
地元では「たなばたさん」とも呼ばれています。
牽 牛
織 姫
一の鳥居には「媛社神社」と書かれています。
二の鳥居の左側には「棚機(たなばた)神社」とあり、
右側には、「磐船神社」とあります。
磐船神社といえば大阪の磐船神社が有名ですね。
ニギハヤヒを祀る物部氏の神社です。
手水舎には、風鈴が飾られてます。
御祭神は、
媛社神(ひめこそしん)と、織女神(しょくじょしん)です。
媛社神は、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)、
織女神は、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)
といわれてます。
万幡豊秋津師比売命の別名
栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)
万幡豊秋津師比売命と天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)
の間に生まれたのが天火明命(饒速日尊)といわれてます。
別の説では、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の子
八王子(実在は五王子)の中の三男(実在では次男)が天忍穂耳命で、
四男(実在では三男)が饒速日尊といわれてます。
かつてこの筑後一帯は物部氏の本拠地で、
北九州の遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。
その中心地が高良大社のある高良山と推定されています。
ここに磐船神社と名付け、
物部氏の祖神である饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)を
祀ったと思われる。
江戸時代になり、ニギハヤヒを祀る神社に織女神が追祀され、
七夕神社として親しまれるようになったのでしょう。
由緒
神社の歴史は古く、和銅6年(713年)に
各国で作るように命じられた風土記(肥前国風土記)の中に
その由来が出てきます。
以来、1,300年にわたって、
地元の氏神として信仰されてきました。
「 肥前国風土記 」より
山道(やまじ)川の西岸に荒ぶる神がいて、
道行く人の半分を殺していまった。
そこで荒ぶる神がどうして祟るのかそのわけを占うと、
「我が社を造って筑前の国 宗像郡の人珂是古(かぜこ)
にわが社を祭らせよ。そうすれば、 凶暴な心はおこすまい。」
という結果がでた。
※珂是古とは、神主として指名を受ける人物。
筑前国 宗像郡の出身で、祭祀に関係を持つ人であれば、
宗像大社と関係のある人物と思われます。
そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、
珂是古はやがて幡(凧)を手に捧げもって祈り、
「神が私の祭祀を望むならば、この幡は風のまにまに
飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」
といいました。
するとその幡は飛んで行き、御原郡の媛社の杜に落ち、
ふたたび飛んで山道川のほとりに戻ってきました。
珂是古はその夜、
機織りの道具に押さえつけられる夢を見ました。
これで神の場所と荒ぶる神が女神であると知り、
さっそく社を建てて祭った。
それから後には路行く人も殺されなくなった。
ここから、杜を姫社といい、いまは郷の名となった。
延喜式 には、
小郡を含む筑後の国の朝廷への献上品は米と織物になっており、
この地方は織物がたいへん盛んであったことがうかがえます。
棚機津女(たなばたつめ)という機織りの女神を信仰していました。
この棚機津女の信仰と7世紀に中国から伝わった
「牽牛・織姫」の物語がひとつになったのが七夕信仰と言われています。
また、宝満川を挟んでこの織姫をまつる七夕神社と相対して老松神社があり、
ここに、大正12年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。
天の川と同じく南北に流れる宝満川と
その両岸にまつられた織姫と牽牛(彦星)は、
天上の物語を地上に配した様になっています。
天満神社
ここは、平成25年に「 恋人の聖地 」に選定され、
縁結びスポットになってます。
七夕神社の夏祭りは、毎年8月7日に開催されています。
鎮座地
福岡県小郡市大崎1番地
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2019年05月27日
ニギハヤヒノミコトを祀る 伊勢天照御祖神社
福岡県の隠れパワースポット 伊勢天照御祖神社】
この神社に参拝するのは3年ぶり
全国総本宮 水天宮の南、住宅街の細い道を車でうろうろ
記憶をたどってなんとかたどり着いたが・・・
神社の駐車場が満車
なんで?神社に人の気配なし
駐車場の横の公民館で何かやってるみたい
仕方ないので神社近くの空き地に車を止めて参拝しました。
地元では、大石神社と呼ばれ、古くは、
伊勢御前神社、天照御前神社、大石太神宮
などとも称されていたようです。
「延喜式」神名帳に記載されている、
筑後國三井郡三座のうちのひとつ。
国司越前守の何某かが
伊勢大神宮の瑞垣内の小石と古鏡を
ここに祀ったと伝えられている。
御祭神
天照国照彦天火明尊(饒速日命)
祈願神石に願い事を書いて、
神石置き場に納める。
御神木 椋の木(ムクノキ)
本殿
神体は、本殿土間にある巨石で、支石墓の上石
あるいは古墳石室の蓋石かと推測されていますが、
江戸時代の『筑後志』や社伝は、
この霊石が年々肥大するという伝承があります。
また石の大きさは「方九尺」、別に「方三尺」という。
この巨石を祀る伝承が神社発許にひきつがれているとすれば、
祭祀はより古く、巨石は磐座なのかも知れない。
九千坊河童
ふるさとは中央アジア、タクラマカン砂漠を流れるヤルカンド河の源流。
極寒と食糧不足に耐えかねて、部下九千匹をつれて
仁徳天皇の治世の頃に蓬来島(日本)の熊本・八代の浜辺に
辿り着いたそうです。
佐岐神社
大国主神社
恵比須神社
淡島神社
授かり石
御神木 銀杏の木
この神社は、社名と祭神 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
から見て物部氏の日神祭祀に関連していたと思われます。
「先代旧事本紀」・「天孫本紀」において物部氏の祖神饒速日尊は
三二人の従者と二五部の物部軍団を率いて大和国へ降った記述がある。
その物部軍団の本拠地は北九州の
遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。
その中心地が高良大社のある高良山と推定されている。
筑後国は物部族の最初の根拠地にて、
この地方の大社高良山はその宗社と考えられる
このことから高良大社の主祭神・霊照大神(現在は高良玉垂命)
も物部氏の祖神饒速日尊と考えられる。
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この神社に参拝するのは3年ぶり
全国総本宮 水天宮の南、住宅街の細い道を車でうろうろ
記憶をたどってなんとかたどり着いたが・・・
神社の駐車場が満車
なんで?神社に人の気配なし
駐車場の横の公民館で何かやってるみたい
仕方ないので神社近くの空き地に車を止めて参拝しました。
地元では、大石神社と呼ばれ、古くは、
伊勢御前神社、天照御前神社、大石太神宮
などとも称されていたようです。
「延喜式」神名帳に記載されている、
筑後國三井郡三座のうちのひとつ。
国司越前守の何某かが
伊勢大神宮の瑞垣内の小石と古鏡を
ここに祀ったと伝えられている。
御祭神
天照国照彦天火明尊(饒速日命)
祈願神石に願い事を書いて、
神石置き場に納める。
御神木 椋の木(ムクノキ)
本殿
神体は、本殿土間にある巨石で、支石墓の上石
あるいは古墳石室の蓋石かと推測されていますが、
江戸時代の『筑後志』や社伝は、
この霊石が年々肥大するという伝承があります。
また石の大きさは「方九尺」、別に「方三尺」という。
この巨石を祀る伝承が神社発許にひきつがれているとすれば、
祭祀はより古く、巨石は磐座なのかも知れない。
九千坊河童
ふるさとは中央アジア、タクラマカン砂漠を流れるヤルカンド河の源流。
極寒と食糧不足に耐えかねて、部下九千匹をつれて
仁徳天皇の治世の頃に蓬来島(日本)の熊本・八代の浜辺に
辿り着いたそうです。
佐岐神社
大国主神社
恵比須神社
淡島神社
授かり石
御神木 銀杏の木
この神社は、社名と祭神 饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
から見て物部氏の日神祭祀に関連していたと思われます。
「先代旧事本紀」・「天孫本紀」において物部氏の祖神饒速日尊は
三二人の従者と二五部の物部軍団を率いて大和国へ降った記述がある。
その物部軍団の本拠地は北九州の
遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。
その中心地が高良大社のある高良山と推定されている。
筑後国は物部族の最初の根拠地にて、
この地方の大社高良山はその宗社と考えられる
このことから高良大社の主祭神・霊照大神(現在は高良玉垂命)
も物部氏の祖神饒速日尊と考えられる。
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2019年04月02日
筑後国一の宮 高良大社 【謎の祭神 高良玉垂命】
高良大社は、旧国幣大社 延喜式内明神大社
筑後国一の宮・九州総社・鎮西11ヶ国の宗廟とたたえられています。
厄年の厄ばらい・厄除け開運・延命長寿
現代では交通安全のご利益でも名高い。
また芸能の神としての信仰もある。
御祭神
高良玉垂命 (こうらたまたれのみこと)
八幡大神 (はちまんおおかみ)
住吉大神 (すみよしおおかみ)
御鎮座
仁徳天皇55年(367)または78年(390)といわれ、
履中天皇元年(400)にご社殿を建ててお祀りしたとされます。
高良山の出土遺物は太古の時代にまで遡り、
その信仰の古さをみせます。
太古の自然信仰の痕跡、馬蹄石などの磐座群、
神籠石の名称由来ともなった謎の神域の列石。
景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、
神功皇后の山門征討では山麓に陣が敷かれました。
また、磐井の乱では最後の戦いの舞台となり、
南北朝時代には南朝の懐良親王が征西府を置き、
秀吉の九州征伐では本陣とされました。
この山は常に九州の軍事の要衝でした。
この地の高良玉垂神は記紀に載られない
隠された神とされ、
朝廷から正一位を授かった神であるにも関わらず、
未だにその正体は不明とされています。
祭神、高良玉垂命に関しては、
武内宿禰説、藤大臣説、彦火火出見尊説、水沼祖神説、景行天皇説、
物部祖神説、饒速日命説、香春同神説、新羅神説、高麗神説、女神説
など非常に多くの説があり、筑後における古代史の最大の謎と
されています。
高良山は古く、高牟礼山(鷹群、たかむれ)と呼ばれ、
高良山の本来の祭神は「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神)」
であったとされます。
この社の縁起では、高木神はもとは高良山上に在ったが、
玉垂神に山を貸したところ、
玉垂神が結界(神籠石)を張って鎮座したため、
山上に戻れず、麓に鎮座しているとされます。
熊本のパワースポット 国造神社【熊本県阿蘇市】
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筑後国一の宮・九州総社・鎮西11ヶ国の宗廟とたたえられています。
厄年の厄ばらい・厄除け開運・延命長寿
現代では交通安全のご利益でも名高い。
また芸能の神としての信仰もある。
御祭神
高良玉垂命 (こうらたまたれのみこと)
八幡大神 (はちまんおおかみ)
住吉大神 (すみよしおおかみ)
御鎮座
仁徳天皇55年(367)または78年(390)といわれ、
履中天皇元年(400)にご社殿を建ててお祀りしたとされます。
高良山の出土遺物は太古の時代にまで遡り、
その信仰の古さをみせます。
太古の自然信仰の痕跡、馬蹄石などの磐座群、
神籠石の名称由来ともなった謎の神域の列石。
景行天皇の熊襲征伐においては高良行宮が置かれ、
神功皇后の山門征討では山麓に陣が敷かれました。
また、磐井の乱では最後の戦いの舞台となり、
南北朝時代には南朝の懐良親王が征西府を置き、
秀吉の九州征伐では本陣とされました。
この山は常に九州の軍事の要衝でした。
この地の高良玉垂神は記紀に載られない
隠された神とされ、
朝廷から正一位を授かった神であるにも関わらず、
未だにその正体は不明とされています。
祭神、高良玉垂命に関しては、
武内宿禰説、藤大臣説、彦火火出見尊説、水沼祖神説、景行天皇説、
物部祖神説、饒速日命説、香春同神説、新羅神説、高麗神説、女神説
など非常に多くの説があり、筑後における古代史の最大の謎と
されています。
高良山は古く、高牟礼山(鷹群、たかむれ)と呼ばれ、
高良山の本来の祭神は「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神)」
であったとされます。
この社の縁起では、高木神はもとは高良山上に在ったが、
玉垂神に山を貸したところ、
玉垂神が結界(神籠石)を張って鎮座したため、
山上に戻れず、麓に鎮座しているとされます。
熊本のパワースポット 国造神社【熊本県阿蘇市】
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2019年04月01日
高良山愛宕神社【福岡県の神社】
高良大社へ行く道沿いに神社があったので寄ってみました。
鎮香丸稲荷神社 (ちんかまるいなりじんじゃ)
鎮香丸稲荷神社は明治から大正の頃、
狐の穴を燻して壊した者に祟りがあったことから、
「チンカマル堂」を建てて
稲荷神をお祀りしたのが始まりだそうです。
朱塗りの社殿は瓦葺,入母屋造です。
「チンカマル」とは、
本来小さい穴という意味だそうです。
高良山 愛宕神社
愛宕神社は高良大社の数多い末社の一つで、
万治三年(1660)四十九世座主秀賀法印により
隈山に勧請されたのが始めで、五十世座主 寂源僧正は
寛文十年(1670) 現在の地にこれを遷座しました。
御祭神
火迦具土神(ほのかぐつちのかみ)
迦具土神は、ホムスビ神の名で呼ばれている神で、
日本の代表的な火の神として知られています。
伊邪那岐命・伊邪那美命の御子で火を司る神です。
神格:火の神、鍛冶の神、防火の神
神徳: 鎮火、火難除け、 郷土守護、陶器業の守護
鎮座地:福岡県久留米市御井町字礫山
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高良山 愛宕神社【福岡県久留米市】
鎮香丸稲荷神社 (ちんかまるいなりじんじゃ)
鎮香丸稲荷神社は明治から大正の頃、
狐の穴を燻して壊した者に祟りがあったことから、
「チンカマル堂」を建てて
稲荷神をお祀りしたのが始まりだそうです。
朱塗りの社殿は瓦葺,入母屋造です。
「チンカマル」とは、
本来小さい穴という意味だそうです。
高良山 愛宕神社
愛宕神社は高良大社の数多い末社の一つで、
万治三年(1660)四十九世座主秀賀法印により
隈山に勧請されたのが始めで、五十世座主 寂源僧正は
寛文十年(1670) 現在の地にこれを遷座しました。
御祭神
火迦具土神(ほのかぐつちのかみ)
迦具土神は、ホムスビ神の名で呼ばれている神で、
日本の代表的な火の神として知られています。
伊邪那岐命・伊邪那美命の御子で火を司る神です。
神格:火の神、鍛冶の神、防火の神
神徳: 鎮火、火難除け、 郷土守護、陶器業の守護
鎮座地:福岡県久留米市御井町字礫山
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高良山 愛宕神社【福岡県久留米市】