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2019年07月09日
老松宮(牽牛社)
老松宮(牽牛社)
天の川大橋
宝満川
七夕神社から宝満川をはさむ対岸にかつて
「牽牛社」が建立されていました。
牽牛・織女が天の川に隔てられ、
年に一度だけ7月7日の夜に出会うという故事にちなんで
七夕神社の対になるものとして建立されたと思われ、
西暦1200年〜1300年の鎌倉時代の建立説もあります。
この牽牛社は、水害と周辺の圃場整備のため
大正12年にここ老松宮に移され、合祀されました。
御祭神 :菅原神(菅原道真)、犬飼神が合祀されてます。
七夕神社にまつられている織女神
この老松宮には織女神と相思の仲の「犬飼神」の木像が祀られています。
「犬飼神」は、高さ、41cm、横幅24.5cmの彩色された人物像で、
牛とともに立体的に彫られています。
鎮座地
福岡県小郡市稲吉
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天の川大橋
宝満川
七夕神社から宝満川をはさむ対岸にかつて
「牽牛社」が建立されていました。
牽牛・織女が天の川に隔てられ、
年に一度だけ7月7日の夜に出会うという故事にちなんで
七夕神社の対になるものとして建立されたと思われ、
西暦1200年〜1300年の鎌倉時代の建立説もあります。
この牽牛社は、水害と周辺の圃場整備のため
大正12年にここ老松宮に移され、合祀されました。
御祭神 :菅原神(菅原道真)、犬飼神が合祀されてます。
七夕神社にまつられている織女神
この老松宮には織女神と相思の仲の「犬飼神」の木像が祀られています。
「犬飼神」は、高さ、41cm、横幅24.5cmの彩色された人物像で、
牛とともに立体的に彫られています。
鎮座地
福岡県小郡市稲吉
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2019年07月08日
ニギハヤヒを祀る 七夕神社(媛社神社)【福岡県小郡市】
ニギハヤヒを祀る 七夕神社(媛社神社)【福岡県小郡市】
七夕神社は、正式名は媛社(ひめこそ)神社といい、
地元では「たなばたさん」とも呼ばれています。
牽 牛
織 姫
一の鳥居には「媛社神社」と書かれています。
二の鳥居の左側には「棚機(たなばた)神社」とあり、
右側には、「磐船神社」とあります。
磐船神社といえば大阪の磐船神社が有名ですね。
ニギハヤヒを祀る物部氏の神社です。
手水舎には、風鈴が飾られてます。
御祭神は、
媛社神(ひめこそしん)と、織女神(しょくじょしん)です。
媛社神は、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)、
織女神は、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)
といわれてます。
万幡豊秋津師比売命の別名
栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)
万幡豊秋津師比売命と天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)
の間に生まれたのが天火明命(饒速日尊)といわれてます。
別の説では、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の子
八王子(実在は五王子)の中の三男(実在では次男)が天忍穂耳命で、
四男(実在では三男)が饒速日尊といわれてます。
かつてこの筑後一帯は物部氏の本拠地で、
北九州の遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。
その中心地が高良大社のある高良山と推定されています。
ここに磐船神社と名付け、
物部氏の祖神である饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)を
祀ったと思われる。
江戸時代になり、ニギハヤヒを祀る神社に織女神が追祀され、
七夕神社として親しまれるようになったのでしょう。
由緒
神社の歴史は古く、和銅6年(713年)に
各国で作るように命じられた風土記(肥前国風土記)の中に
その由来が出てきます。
以来、1,300年にわたって、
地元の氏神として信仰されてきました。
「 肥前国風土記 」より
山道(やまじ)川の西岸に荒ぶる神がいて、
道行く人の半分を殺していまった。
そこで荒ぶる神がどうして祟るのかそのわけを占うと、
「我が社を造って筑前の国 宗像郡の人珂是古(かぜこ)
にわが社を祭らせよ。そうすれば、 凶暴な心はおこすまい。」
という結果がでた。
※珂是古とは、神主として指名を受ける人物。
筑前国 宗像郡の出身で、祭祀に関係を持つ人であれば、
宗像大社と関係のある人物と思われます。
そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、
珂是古はやがて幡(凧)を手に捧げもって祈り、
「神が私の祭祀を望むならば、この幡は風のまにまに
飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」
といいました。
するとその幡は飛んで行き、御原郡の媛社の杜に落ち、
ふたたび飛んで山道川のほとりに戻ってきました。
珂是古はその夜、
機織りの道具に押さえつけられる夢を見ました。
これで神の場所と荒ぶる神が女神であると知り、
さっそく社を建てて祭った。
それから後には路行く人も殺されなくなった。
ここから、杜を姫社といい、いまは郷の名となった。
延喜式
小郡を含む筑後の国の朝廷への献上品は米と織物になっており、
この地方は織物がたいへん盛んであったことがうかがえます。
また、古来より織物に携わってきた人々は
棚機津女(たなばたつめ)という機織りの女神を信仰していました。
この棚機津女の信仰と7世紀に中国から伝わった
「牽牛・織姫」の物語がひとつになったのが七夕信仰と言われています。
また、宝満川を挟んでこの織姫をまつる七夕神社と相対して老松神社があり、
ここに、大正12年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。
天の川と同じく南北に流れる宝満川と
その両岸にまつられた織姫と牽牛(彦星)は、
天上の物語を地上に配した様になっています。
天満神社
ここは、平成25年に「 恋人の聖地 」に選定され、
縁結びスポットになってます。
七夕神社の夏祭りは、毎年8月7日に開催されています。
鎮座地
福岡県小郡市大崎1番地
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七夕神社は、正式名は媛社(ひめこそ)神社といい、
地元では「たなばたさん」とも呼ばれています。
牽 牛
織 姫
一の鳥居には「媛社神社」と書かれています。
二の鳥居の左側には「棚機(たなばた)神社」とあり、
右側には、「磐船神社」とあります。
磐船神社といえば大阪の磐船神社が有名ですね。
ニギハヤヒを祀る物部氏の神社です。
手水舎には、風鈴が飾られてます。
御祭神は、
媛社神(ひめこそしん)と、織女神(しょくじょしん)です。
媛社神は、饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)、
織女神は、万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめのみこと)
といわれてます。
万幡豊秋津師比売命の別名
栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)
万幡豊秋津師比売命と天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)
の間に生まれたのが天火明命(饒速日尊)といわれてます。
別の説では、素戔嗚尊(スサノヲノミコト)の子
八王子(実在は五王子)の中の三男(実在では次男)が天忍穂耳命で、
四男(実在では三男)が饒速日尊といわれてます。
かつてこの筑後一帯は物部氏の本拠地で、
北九州の遠賀川・筑後川沿岸付近に集中している。
その中心地が高良大社のある高良山と推定されています。
ここに磐船神社と名付け、
物部氏の祖神である饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)を
祀ったと思われる。
江戸時代になり、ニギハヤヒを祀る神社に織女神が追祀され、
七夕神社として親しまれるようになったのでしょう。
由緒
神社の歴史は古く、和銅6年(713年)に
各国で作るように命じられた風土記(肥前国風土記)の中に
その由来が出てきます。
以来、1,300年にわたって、
地元の氏神として信仰されてきました。
「 肥前国風土記 」より
山道(やまじ)川の西岸に荒ぶる神がいて、
道行く人の半分を殺していまった。
そこで荒ぶる神がどうして祟るのかそのわけを占うと、
「我が社を造って筑前の国 宗像郡の人珂是古(かぜこ)
にわが社を祭らせよ。そうすれば、 凶暴な心はおこすまい。」
という結果がでた。
※珂是古とは、神主として指名を受ける人物。
筑前国 宗像郡の出身で、祭祀に関係を持つ人であれば、
宗像大社と関係のある人物と思われます。
そこで珂是古という人を探し出して神の社を祭らせると、
珂是古はやがて幡(凧)を手に捧げもって祈り、
「神が私の祭祀を望むならば、この幡は風のまにまに
飛んで行って、私を求めている神のもとに落ちよ」
といいました。
するとその幡は飛んで行き、御原郡の媛社の杜に落ち、
ふたたび飛んで山道川のほとりに戻ってきました。
珂是古はその夜、
機織りの道具に押さえつけられる夢を見ました。
これで神の場所と荒ぶる神が女神であると知り、
さっそく社を建てて祭った。
それから後には路行く人も殺されなくなった。
ここから、杜を姫社といい、いまは郷の名となった。
延喜式
小郡を含む筑後の国の朝廷への献上品は米と織物になっており、
この地方は織物がたいへん盛んであったことがうかがえます。
また、古来より織物に携わってきた人々は
棚機津女(たなばたつめ)という機織りの女神を信仰していました。
この棚機津女の信仰と7世紀に中国から伝わった
「牽牛・織姫」の物語がひとつになったのが七夕信仰と言われています。
また、宝満川を挟んでこの織姫をまつる七夕神社と相対して老松神社があり、
ここに、大正12年の圃場整備の際に合祀された牽牛社があります。
天の川と同じく南北に流れる宝満川と
その両岸にまつられた織姫と牽牛(彦星)は、
天上の物語を地上に配した様になっています。
天満神社
ここは、平成25年に「 恋人の聖地 」に選定され、
縁結びスポットになってます。
七夕神社の夏祭りは、毎年8月7日に開催されています。
鎮座地
福岡県小郡市大崎1番地
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2019年07月07日
彦嶽宮 上宮【彦岳と不動岩の首引き伝説】【熊本県山鹿市】
彦嶽宮 上宮【彦岳と不動岩の首引き伝説】【熊本県山鹿市】
彦嶽宮 上宮へ行きます。
彦嶽宮は、山の麓にある下宮、山の中腹にある中宮、
山の頂上にある上宮の3つがあります。
宮司さんに、
「中宮へは車で登れますか?」と聞いたら、
詳しく説明していただいたのですが、
中宮を見つけられませんでした。
中宮祭神
月夜見神・彦火火出見神
中宮へは登山道を登って
参拝するコースがいいみたいです。
離合出来ない荒れた細い山道をのぼります。
ここの山は彦岳といいます。
俗に権現山と呼ばれています。
昔、この頂上に姫龍神を祀る彦岳権現宮があり、
この山の2里四方は神領だったといわれています。
伝説 〜彦岳と不動岩の首引き〜
この権現と三玉地区にある不動岩とは異母兄弟で、
母は実子の不動岩を可愛がっていました。
日常の食べ物も不動岩に小豆を、
権見には大豆を与えていました。
ある日、母は双方に首引きをするように命じ、
勝った方に大昔から伝わる、水、火、土の
三つの玉を授けるといました。
そこでお互いは首に縄をかけ、引き合いましたが、
大豆を食べていた権現の力が強く、
不動岩の首は飛んで久原山の麓に落ちました。
首根からは血が流れでて、
三玉地区の土は赤土になってしまいました。
首引きで両方から力一杯に踏ん張ったので、
足下の土はむくむくとうず高く盛り上がり、
首引きの縄の間にそびえ立ち、縄にこすられて、揺るぎだしました。
この土の山は「揺ぎ岳」と名付けられ、
頂上には縄でこすれた、二筋の凹みが残っています。
古くから竜神のすがたは一つの玉を咥え、二つの玉を
各々つかんでいますが、それは、権現の勝利を
あらわしたものと、言い伝えられています。
上宮祭神
伊弉諾神・伊弉冉神・事解男神・速玉男神
合殿
天児屋根神・経津主神・武槌神
底筒男神・中筒男神・表筒男神
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彦嶽宮 上宮へ行きます。
彦嶽宮は、山の麓にある下宮、山の中腹にある中宮、
山の頂上にある上宮の3つがあります。
宮司さんに、
「中宮へは車で登れますか?」と聞いたら、
詳しく説明していただいたのですが、
中宮を見つけられませんでした。
中宮祭神
月夜見神・彦火火出見神
中宮へは登山道を登って
参拝するコースがいいみたいです。
離合出来ない荒れた細い山道をのぼります。
ここの山は彦岳といいます。
俗に権現山と呼ばれています。
昔、この頂上に姫龍神を祀る彦岳権現宮があり、
この山の2里四方は神領だったといわれています。
伝説 〜彦岳と不動岩の首引き〜
この権現と三玉地区にある不動岩とは異母兄弟で、
母は実子の不動岩を可愛がっていました。
日常の食べ物も不動岩に小豆を、
権見には大豆を与えていました。
ある日、母は双方に首引きをするように命じ、
勝った方に大昔から伝わる、水、火、土の
三つの玉を授けるといました。
そこでお互いは首に縄をかけ、引き合いましたが、
大豆を食べていた権現の力が強く、
不動岩の首は飛んで久原山の麓に落ちました。
首根からは血が流れでて、
三玉地区の土は赤土になってしまいました。
首引きで両方から力一杯に踏ん張ったので、
足下の土はむくむくとうず高く盛り上がり、
首引きの縄の間にそびえ立ち、縄にこすられて、揺るぎだしました。
この土の山は「揺ぎ岳」と名付けられ、
頂上には縄でこすれた、二筋の凹みが残っています。
古くから竜神のすがたは一つの玉を咥え、二つの玉を
各々つかんでいますが、それは、権現の勝利を
あらわしたものと、言い伝えられています。
上宮祭神
伊弉諾神・伊弉冉神・事解男神・速玉男神
合殿
天児屋根神・経津主神・武槌神
底筒男神・中筒男神・表筒男神
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2019年07月06日
彦嶽宮 下宮【熊本県山鹿市】
彦嶽宮 下宮【熊本県山鹿市】
彦岳
楼門
手水舎
創建は、第十二代景行天皇の御代。
景行天皇の時代に、日向の国(現・宮崎県)
の熊津彦(くまつひこ)がそむいたので、
天皇は景行十八年四月に軍を率いて九州に上陸、
高天山(震嶽)に行宮を営まれました。
熊津彦は土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)と共に
兵を進めて夜中に天皇を襲いました。
天皇が行宮において諸神にお祈ると、
彦嶽の頂上より高天山に霊感があり、高天山は大きく振動し、
賊徒はたちまち敗走し、天皇の大勝となりました。
天皇は日向の国に攻めて、熊津彦及び津頬を成敗し、
帰りの途中に神恩に感謝し、彦嶽三所に神宮を造立された。
下宮祭神 :天照皇大神・倉稲魂神
合殿 :素戔鳴神・健磐龍神・彦御子神
本殿
木々に囲まれ,静かで、
清々しさを感じるとてもいい神社でした。
彦嶽宮 上宮へ行きます。
鎮座地
熊本県山鹿市津留
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彦岳
楼門
手水舎
創建は、第十二代景行天皇の御代。
景行天皇の時代に、日向の国(現・宮崎県)
の熊津彦(くまつひこ)がそむいたので、
天皇は景行十八年四月に軍を率いて九州に上陸、
高天山(震嶽)に行宮を営まれました。
熊津彦は土蜘蛛の津頬(つちぐものつつら)と共に
兵を進めて夜中に天皇を襲いました。
天皇が行宮において諸神にお祈ると、
彦嶽の頂上より高天山に霊感があり、高天山は大きく振動し、
賊徒はたちまち敗走し、天皇の大勝となりました。
天皇は日向の国に攻めて、熊津彦及び津頬を成敗し、
帰りの途中に神恩に感謝し、彦嶽三所に神宮を造立された。
下宮祭神 :天照皇大神・倉稲魂神
合殿 :素戔鳴神・健磐龍神・彦御子神
本殿
木々に囲まれ,静かで、
清々しさを感じるとてもいい神社でした。
彦嶽宮 上宮へ行きます。
鎮座地
熊本県山鹿市津留
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2019年07月04日
神社名に惹かれて行ってみた! 七夕神社【熊本県山鹿市】
七夕神社【熊本県山鹿市】
神社の名前に惹かれて行ってみました。
第六十一代朱雀天皇の頃、世の中が大変乱れたため、
この世の平安を祈って天慶三年(940)七月に創建されたのが、
岩原八幡宮(七夕神社)です。
肥後国司の尾藤隆房が直々に建てたほどの
由緒ある神社なのです。
ここは、三ツ棟の幣殿で、回廊があり、東に唐門、
北に不老門、南に弥勒寺を従えた当時としては
壮大な構えの神社でした。
また、下宮として八幡宮、若宮神社、春日神社や
桜井大明神、住吉、葉山、妙見などは全てこの関連の社でした。
その後の後醍醐天皇の頃、
菊池肥後守 藤原武重、菊池肥後守 武光は神社を修復し、
七月七日には社頭の東で神輿を納め、種々のお祭りも催しました。
しかし、この由緒ある神社も天正九年(1581)
島津軍の肥後侵略の時に兵火に遭い、
灰塵となってしまいました。
そこで文禄四年(1595)、祀官の緒方大神惟仲が
小さいお堂を建てて八幡宮を再興して、七月七日と
十月七日を両祭日と定めました。
拝殿
御祭神 :誉田別命(応神天皇)
七夕神社の名前から、もしかすると御祭神は ニギハヤヒ かも?
と思ってきたのですが、八幡宮でした。
拝殿の後ろに本殿に上がる階段があります。
本 殿
この神社も猿田彦大神石碑が並んでます。
岩原八幡宮がいつの間にか
「七夕神社」と呼ばれるようになったのは、
七月に社が建てられ、七月七日に神輿のお祭りがあり、
祭礼が七月七日と定められたことによるものと考えられています。
現在、本来下宮だった社が岩原八幡宮となっています。
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神社の名前に惹かれて行ってみました。
第六十一代朱雀天皇の頃、世の中が大変乱れたため、
この世の平安を祈って天慶三年(940)七月に創建されたのが、
岩原八幡宮(七夕神社)です。
肥後国司の尾藤隆房が直々に建てたほどの
由緒ある神社なのです。
ここは、三ツ棟の幣殿で、回廊があり、東に唐門、
北に不老門、南に弥勒寺を従えた当時としては
壮大な構えの神社でした。
また、下宮として八幡宮、若宮神社、春日神社や
桜井大明神、住吉、葉山、妙見などは全てこの関連の社でした。
その後の後醍醐天皇の頃、
菊池肥後守 藤原武重、菊池肥後守 武光は神社を修復し、
七月七日には社頭の東で神輿を納め、種々のお祭りも催しました。
しかし、この由緒ある神社も天正九年(1581)
島津軍の肥後侵略の時に兵火に遭い、
灰塵となってしまいました。
そこで文禄四年(1595)、祀官の緒方大神惟仲が
小さいお堂を建てて八幡宮を再興して、七月七日と
十月七日を両祭日と定めました。
拝殿
御祭神 :誉田別命(応神天皇)
七夕神社の名前から、もしかすると御祭神は ニギハヤヒ かも?
と思ってきたのですが、八幡宮でした。
拝殿の後ろに本殿に上がる階段があります。
本 殿
この神社も猿田彦大神石碑が並んでます。
岩原八幡宮がいつの間にか
「七夕神社」と呼ばれるようになったのは、
七月に社が建てられ、七月七日に神輿のお祭りがあり、
祭礼が七月七日と定められたことによるものと考えられています。
現在、本来下宮だった社が岩原八幡宮となっています。
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