それだけの人がプラハに集まっただけでなく、チェコ各地で追悼のための場所が設置され、蝋燭や花束をささげるためにたくさんの人が集まっていた。プラハのスミーホフにあるゴットの邸宅の前の道路は、この十日ほどの間に人々が持ち寄った追悼のための蝋燭であふれかえっている。プラハ市の清掃局では日曜日まではこのままにしておき、月曜日に改修して一定期間保管するという。ハベル大統領のときには、人々が持ち寄ったろうそくを使って芸術家が追悼のための作品を作ると言っていたけど、今回はどうなるのだろうか。
金曜日のジョフィーンで騒ぎを起したのが、最近運輸大臣に就任したクレムリーク氏である。公用車で会場に乗りつけ、大臣の特権だかなんだか知らないけど、並んでいる人を無視して会場に入り追悼の意を捧げたらしい。これにはバビシュ首相もお冠で、大臣で土曜日の追悼のミサに出席できるのに何でバカなことをするんだと批判していた。本人は、ゴットのファンであることを主張してどうしてもここに来たかったと述べていたが、ならば仕事を調整して行列に並べばよかったのだ。ゴットにかこつけて人気取りをしようとしているだけだと批判している政治家もいたけど、その辺は五十歩百歩というよりは、目くそ鼻くその世界である。
夜のニュースでは、ゴットと仕事をしたことのある若手歌手ということで、ブルゾボハティーがコメントを求められて、この事件を念頭に、政治家を揶揄するような発言をしていた。しかし、こいつもわかっていない。ゴットは自らの存在の大きさ、影響力の大きさを自覚して、政治的な発言は避けていたのだ。追悼する側が、ゴットに絡めて政治的な発言をするのもなしである。
さて、本日土曜日は、政府によって国全体が喪に服す日と定められており、官公庁に掲揚された国旗やEUの旗などは半旗にされている。スポーツなどのイベントは主催者次第ということだったが、大半は予定通り開催し、開始前に1分の黙祷、もしくは拍手をゴットに捧げていた。この国全体が喪に服すというのはハベル大統領の葬儀以来のことで、ここにもゴットのチェコにおける存在の大きさが見て取れる。ちなみに、個人の葬儀だけでなく、2001年のアメリカで起こったテロの際、2011年の東日本大震災の際にも適用されている。
ミサの会場となるプラハ城の入り口の前には、早朝から人々が集まり、入り口の開く8時にはすでに40人ぐらいのファンが並んでいた。聖ビート大聖堂枠の中庭でミサの様子を見るためにいい場所をとるために行列したということか。プラハ城前の広場でもミサの様子はプロジェクターで見ることができるはずだけど、ファン心理としてはできるだけ近いところで見送りたいというのもあったのだろう。こちらなら、棺を載せた車が出て行くのも見送れるはずである。
プラハまで出かけられない人のために、チェコテレビが、ニュースチャンネルの24だけでなく、1でも中継してくれた。夜のニュースによると、二つのチャンネル合わせて100万人以上の人が視聴していたという。それに実は民放のノバも中継していて、ゴットのファンの中にはチェコテレビよりもノバを見そうな層も多いことを考えると、3チャンネル合わせて300万人を越えていたとしても驚きはない。全人口の約3分の1がテレビを通してゴットを見送ったのである。
ミサの参加者の中には、スロバキアの首相のペリグリーニ氏もいて、チャプトバー大統領は出席はしなかったけれども花輪を真っ先に贈ってきていた。政治家枠で参列した人の人選は、国葬なので政府によるのだろうが、それ以外は遺族が人選して招待したようだ。当然、歌手や俳優などの芸能界の関係者が多く、代表してハベル大統領夫人と、カルロビ・バリ映画際の実行委員長である俳優のバルトシュカが二人で挨拶をし、弔辞を担当したのは親友と言ってもいいボフダロバーだった。
ボフダロバーによると、自分の方が八つも年上だから、死んだら葬式で弔辞を述べるのをゴットに頼んで引き受けてもらっていたらしい。それが今回この役割を引き受けた理由で、ゴットがただ一つ約束を破ったのが、このボフダロバーの葬儀で弔辞を述べる件だったという。その代わりに天国で私の席をちゃんと準備しておけよと呼びかけて、ボフダロバーの言葉は終わった。なかなか感動的で、共産主義の時代を生き延びた人たちの間にある連帯感と言うものを感じさせられた。
共産主義時代のチェコスロバキアの人々の心を支えたゴットが亡くなったことで、ポスト共産主義と言われた時代も終わるのかもしれない。神を失ったチェコの今後がどちらに向かうのか、チェコに住むものとしても気になるところである。
2019年10月12日25時。
タグ: カレル・ゴット
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