画家ココシュカの名前を知ったのはいつのことだっただろうか。森雅裕の『歩くと星がこわれる』の装丁に使われていた「ベートーベン・フリーズ」からクリムトを知り、クリムト周辺の画家としてエゴン・シーレなんかとともに名前が挙がっていたのを読んだのだろうか。SF漫画の『アフター・ゼロ』で名前が出ていたのも覚えている。
クリムトが、パトロンだったプリマベシ家を通じて、オロモウツとつながりがあり、シーレがチェスキー・クルムロフと結びついているように、ココシュカもチェコとつながりがあるのだろうか。プラハの国立美術館では、クリムトの絵とともにココシュカの絵も展示されていたような気もする。記憶を穿り返すと、ココシュカの家族にチェコ人がいたとか、プラハに滞在したとかいう話を聞いたことがある。
チェコ側の情報では、父親の家系がもともとプラハに住んでいて、オーストリア(当時はハプスブルク家の支配下で同じ国)に移住して、金細工師の仕事を営んでいたという。細工師なら「芸術家」と考えていいのかな。ただし、父、もしくは両親がプラハ出身という情報は出てこなかった。名字の表記も完全にドイツ語化しているし、移住して何世代かたっていたと考えるのが自然だろう。
ナチスの台頭で、ドイツ、オーストリアにいられなくなった事情については、『日本大百科全書』の記述が一番詳しかった。「37年ナチスによって作品を没収され、38年ロンドンに亡命。同地でギリシア神話をモチーフとする作品を描いて、戦争とナチスへの抗議を行った」とあって、恐らくヒトラーによって頽廃芸術家の一人として認定されたことを示しているのだろうが、チェコ、いや当時のチェコスロバキアとのかかわりが全く見えてこない。
ここでもう一度チェコ語の情報に戻ると、ココシュカは1934年にチェコスロバキアに亡命している。前年の1933年にプラハで絵の展覧会を開催したのがきっかけになっているとらしい。亡命を受け入れたチェコスロバキアでは、ココシュカに市民権、もしくは国籍を与えて、ナチスから守ろうとしたようで、ココシュカは感謝の印として、最晩年のマサリク大統領の肖像を残している。
残念ながら、チェコスロバキアは、マサリク大統領の没後、1938年のミュンヘン協定の結果解体され、ココシュカは迫るナチスの強意を避けて、再度、今度はイギリスに亡命を余儀なくされた。それまでのプラハ滞在の数年の間に、16枚のプラハの風景を描いた作品を残しており、今回オークションにかけられたのはそのうちの一枚である。他の15枚がどこにあるのかは知らないが、1枚ぐらいはプラハの国立美術館にあるのではないかと期待している。
ココシュカはプラハを第二の故郷として考えていたようで、あるチェコ人女性と知り合って後に結婚している。第二次世界大戦後に共産化したチェコスロバキアのプラハを訪れることはなかったが、1968年のプラハの春の事件のときには、コメントを発表したらしい。
ココシュカと言えば、マーラーの未亡人アルマとの恋愛でも知られている。マーラーはイフラバの近くの出身ということで、その夫人ももしかしたらチェコ人かなと期待したのだが、そんなことはなく、オーストリアの画家の娘だった。
ところで、ココシュカは、自分のことをどのぐらいチェコ人だと考えていたのだろうか。同じウィーン育ちのツィムルマンとビツァンは、自分のことをチェコ人だと認識していたようだけど。
2019年10月27日23時。
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