二回目に出かけたのは、近くのコリーンにできた日系の自動車工場で通訳のバイトをしていたときに、クトナー・ホラに宿舎をとっていた日本から指導のために派遣された人たちに夕食に誘われたときのことだった。あのときは、仕事が終わった後だったから、世界遺産になった教会なんかは見る時間もなく、そのまま飲み屋に入って、当時はまだハイネケンの手には落ちていなかったクトナー・ホラのビールを飲みながらチェコ料理を食べたのだった。そのあと、宿をとっていたコリーンに戻るのが結構大変だったのもいい思い出である。
と、本題と関係のない枕はこの辺にして、昨日の夜のニュースでクトナー・ホラの市議会で、アントニーン・ザーポトツキーと、クレメント・ゴットバルトの名誉市民の称号を剥奪する決定がなされたというニュースが流れた。最初の正直な感想は、いままで何でそのままにしてあったんだろうというものだった。ビロード革命の後、共産党員に対する弾圧は起こらなかったが、ゴットバルドフがズリーンに戻るなど、共産党の政治家の功績を称賛するためのものは取り消されることが多かった。
それはともかく、当然共産党の市会議員は反対したものの、過半数が賛成したため、ゴットバルドとザーポトツキーの名誉市民の称号の剥奪は可決されたらしい。念のために書いておけば、ゴットバルトは、第二次世界大戦中の共産党の指導者で、戦後最初の選挙で勝利して首相になった後、1948年にクーデターを起こし、ベネシュ大統領を追い落として自ら大統領に就任した人物で、ザーポトツキーはその後継者として1948年に首相、1953年にゴットバルトがスターリンの後を追うように亡くなった後は大統領を務めゴットバルトのスターリン主義路線を守った人物である。
そもそも何で名誉市民になったのだろうと考えていたら、ニュースでは政治的な理由であって、町とは全く関係がなかったと言っていた。もう少し詳しく知るために、ネット上の「novinky.cz」で関係する記事を探してみた。その記事に登場するANO所属の市長によると、名誉市民になったのは戦後の政治的な社会情勢のせいだという。共産党の指導者を名誉市民にするのが流行ったのだろうか。名誉市民にしたほうが予算が取りやすかったなんてこともあったかもしれない。
そして、この二人は、クトナー・ホラとは全く関係がなく、訪問すらしたことがないはずだと剥奪を主張する理由を語っている。それに対して、剥奪に反対した共産党の市会議員は、ザーポトツキーにかんして、クトナー・ホラに来たことがあって、しばらく滞在したこともあるんだと主張する。しばらくに使われている言葉から考えると、何日かではなく、何時間か、もしくは何分かのレベルのようで、それで名誉市民を与える理由になると言われても困る。
ただ、この議員は、名誉市民を町と関係のない人物に与えた例はいくらでもあるし、こんなに時間が経ってから(授与からなのか、ビロード革命からなのかは不明)、一度与えた名誉市民の称号を剥奪するのはよくないとも語っている。どうして今更そんなことをする必要があるのかというのは、当然の疑問だし、同時にどうして今まで放置されてきたのだろうというのも気になる。
他の町では、これも今更だけど、先週クルノフでゴットバルトの名誉市民が取り消されたらしいし、生地のあるビシュコフでもすでに取り消されているという。その一方で、名誉市民の称号をそのままにしている町も多いようだ。その理由としては、過去の歴史を現在の視点から修正する、なかったことにするのはよくないということが挙げられている。
ビロード革命直後の、共産党の指導体制から解放された直後ならともかく、それから30年以上も放置されてきたことを考えると、そのままにしている町のほうに賛成したくなる。ズリーンが復活したのもビロード革命直後だったわけだしさ。
観光地、クトナー・ホラを題名にして、こんな記事を書いてしまう。我ながらこれでいいのかと思わなくもないのだけどね。書いちまったものは仕方がないのである。
2019年11月6日24時。
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