地方の高校生に同情的なことを語っているが、勘違いも甚だしい。地方の受験生が都会の受験生に対して不利な点としては、受験に時間と金がかかるというのに尽きる。東京の受験生ならピンからキリまでいろいろな大学をいくつ受けても、受験料以外に必要な金額は微々たるもだろうが、田舎の学生がそんな受験をしようとすれば、毎回東京に出るなり、長期的に東京に滞在するなどするしかなく、かかる金額は大きなものになる。
その意味で共通一次やセンター試験がそれぞれの県で受けられるのはありがたいことである。ただ、これにも県内格差があって、会場から離れたところの受験生は前日からホテルに滞在するなどしなければならない。うちの高校もバスツアー組んでホテルに二泊した。年に一度の試験だからありがたいと思えるけど、それに加えて英語の検定試験を受けるために会場まで、場合によっては何回も行かなければならないというのでは、大きな負担になる。それとも民間の英語検定試験を受験者のいるすべての高校で実施させるつもりだったのだろうか。
仮に地方と大都市の受験生の間にある格差を解消したいというのなら、最善の方法は受験にかかる費用を少しでも軽減してやることである。そんなこともしないで入試制度だけ変えて、地方のためにとか言われても、地方を馬鹿にするなとしか思えない。本来であれば受験業者の模擬試験を受けるのにも、会場のある都市まで出て行かなければならないところを、高校で受験できるように業者と交渉したりして、不利にならないようにしていたのも、田舎の高校の先生たちであって、政治家でも官僚でも、改革好きの理論家でもなかったのである。
さらに新試験を12月に実施する計画だったというのも、よく文部省の高校教育を担当する部署から文句が出なかったなあと感心してしまう。都会の高校と違って田舎の高校生にとって、地元の大学以外の受験は、受験旅行といわれるほどに手間がかかる。同じ大学を受験する生徒が多い場合には、高校の先生が引率する受験ツアーが組まれるほどで、その準備に手がかかるのと受験対策が行なわれるのとで、高校三年の三学期というものは、田舎の進学校には存在しない。
形式上定期試験はあったけれども、受験日程の関係で受けられない生徒も多く、大学へは内申書が提出されており重要ではないということもあって、それまでとは打って変わって適当なものだったらしい。自分では受験に出ていて受けていないので知らないのだけど、とにかく高校三年の三学期には本当の意味での授業も試験も皆無だったと言っていい。一月は共通一次のための対策ばかりだったし、それが終われば個別に二次試験、もしくは私立の受験対策で、自習+先生への質問的な授業ばかりだった。自宅で勉強すると称して登校しなくても全く問題にされなかった気もする。それどころか推薦で決まった奴は邪魔だから来るななんて雰囲気もあったし。来るなと言われて高校の代わりに自動車学校に通うなんてのもいたなあ。
そんな状態で12月に一次試験を移したら、高校の完全受験対策予備校化が早まって、へたすりゃ二学期の初めから通常の授業をなくして受験対策ということになりかねない。最初は自重するだろうけれども、そのうちずるずると早まっていくに違いない。そうなると高三の二学期、三学期の分の学習内容を一学期までに詰め込まなければならなくなり、先生や生徒達の負担は増加する。以前に比べれば勉強すべき内容が減っているとはいえ、大変なことは大変なのである。
この記事では、自分の学校の学生たちを自慢して、外国から来た先生の英語の講義でも問題なく理解できていると語っているけど、問題はその理解のレベルである。英語がよくできるのであれば、英語が理解できるというのはそのとおりだろう。ただ、その内容をどこまで深く理解できているのかというと、それは英語の能力ではなく個々の学生の知識と理解力による。講義に発表原稿が配られるという前提で言えば、文法は適当だけど聞けて話せるという学生よりも、話しや聞き取りは苦手だけど文法的なことはよくできるという学生の方がはるかに深く正しく理解できるはずだ。
そして大学での学習に必要な理解というものが、深く正しい理解であることは言うまでもない。特に英語の文献を読まなければ研究ができないような分野であれば、読むのも聞くのも大体わかるという能力よりも、聞き取りは苦手だけど読めばほぼ完璧に理解できるというほうが将来の研究に役に立つのは火を見るより明らかである。もちろん、読むのも聞き取るのも両方高レベルでできるのが理想だろうが、それは受験生に求めるべき能力なのか。それなら、大半の大学は閉鎖されるべきだということになる。卒業生でさえそのレベルに到達しないのだから。英語の能力だけで学生を評価するこの人の姿勢も大問題なのだけど、ここではおく。
個人的な経験から言わせてもらえば、外国語が聞き取れないというのは、耳の問題以上に語彙の問題が大きい。見たこともない知らない単語を耳で聞いたところで理解できないのは自明のことである。これは現地に滞在したところで意識して勉強しなければどうにもならないことである。特に英語のように表記と発音に大きな違いがあり、発音の地域差も大きい言葉の場合には、その単語を知らなければ類推のしようもない。高校生の語彙に関して勉強の仕方に問題があるとすれば、試験によく出るといわれる単語を、出やすい順番に集中的に覚えようとするところだろうか。ただ、これも試験が変わったからと言って、変わるものでもあるまい。
結局、この人の批判で賛成できるのは、センター試験の問題は重箱の隅をつつくような、どうでもいいことを問うものが多いというものだけである。ただし、これも制度を変える理由にはならない。この手の批判は共通一次の時代からなされていて、試験の後に問題を検討した先生たちも頭を抱えて何人かで話し合っても、恐らくこういう理由でこれが正しいのだろうという結論しか出せないものが、英語は知らないけど世界史や国語で毎年のように出題されていた。センター試験が始まるときにはこういう出題はなくすなんてことをいっていたと思うのだけど、結局変わっていないわけである。ならば制度を変える前に、運用の仕方、問題作成の仕方を変えるのが順番というものである。
ということで大山鳴動して鼠一匹、今回の改革とやらの試みが失敗に終わったのは、当然であり今後の受験生にとっては、幸せなことである。ふう。怒りを抑えつつ書いていたら当初の予定よりもはるかに長くなってしまった。いや、これで終わりではなく、もう一方の記事にも噛み付くのだった。それはまた次回ということで。
2019年12月21日24時。
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