前回「si」が使われる場合を説明した動詞「umýt(洗う)」だが、「se」とも一緒に使われる。その場合、「自分を洗う」ということで、シャワーやお風呂に入って体全体を洗うことを意味する。覚えておいた方がいいのは、シャワーを浴びるという意味の「sprchovat」も、風呂に入るという意味の「koupat」も、自分の身体を洗う場合には「se」が必要になることである。「se」を使わない場合には洗う相手を4格で加えなければならない。
また、これも初学のころに習う「mít se」も、「自分を持つ」と考えれば、質問の「jak」にしろ、答えの「dob?e」にしろ、「自分をどのような状態で持っていますか」「いい状態で持っています」と解釈すれば、主に体の調子を表わす表現として使われることにも納得がいく。この伝で「zabít se」が「自分を殺す」で「自殺する」という意味になるのもわかりやすい。
もちろん、日本語のすべての他動詞、自動詞の組み合わせがこれに対応するというわけではない。「kon?it」は、日本語の「終わる」が自動詞としても他動詞としても使えるようになっているのと同様「se」がなくても自動詞的に使えるし、対義語の「za?ít」は、主語によって「始まる」「始める」のどちらの意味にもなる。
また、「驚かす(p?ekvapit)」と「驚く(p?ekvapit se)」や、「動かす(posunout)」と「動く(posunout se」」の組み合わせのように、他動詞といっても使役形から派生したものと自動詞の組み合わせになるものもある。だから、「引っ越しさせる(st?hovat)」に「se」を付けて「引っ越す(st?hovat se)」になるという、日本語では使役の助動詞を付けた形が、基本となるペアがあるのも仕方がないのかと思える。
逆に、「se」を付けることで再帰受身とよばれる受身形を作れるし、「uvid?t」という動詞の使い方を考えると「se」が古典文法で言うところの自発の意味を付け加える場合もあるような気がする。「uvidíme to」も、「to se uvidí」も現状では結論が出せず、「(結果がどうなるか)見ておこう」とか「(結果は)見てのお楽しみ」と言いたくなるような場面で使うのだが、「se」がついた方が、「なるようになる」という突き放したような印象を与える。そこに古文の自発の匂いを嗅いでしまうのが古文読みたるゆえんである。
ちなみに、「uvid?t」は、不完了態の動詞「vid?t」の完了態で、「見える」とか、「見る」でも意識してみるのではなく、視界の中に入ってきたものを見るときに使う。だから、4格を取る他動詞ではあるのだけど、日本人には自動詞っぽく感じられる部分があって、それに「se」をつけると、さらに自動詞性が強くなって自発に感じられるのではないかと。まあ、言語学の徒であれば、こういうのをネタに、使役から受身、自発にかけて広がる動詞の意味の位相の分析なんてことも考えるのだろうけど、我が任にはあらずである。
さて、「si」を使った場合と同様に、「se」でもお互いにという意味になるものがあり、その一つが「uvid?t」である。「Uvidíme se」で「お互いに見合おう」ということから、「会おう」という意味で使われる。「domluvit」は「最後まで話す」という意味だが、「se」をつけると、「最後まで話し合う」ということで、「話し合って決める」という意味になる。
例を挙げていけば際限がないのだが、一言確実に言えるのは、3格の「si」を使うものより、はるかに理解しやすいということだ。
それで終わってはつまらないので、ちょっと理解しづらい「se」を使う動詞をあげておく。「dát」は「si」と共にも使えたが、「se」とも一緒に使う。大学書林の『チェコ語日本語辞典』には「dát se」で「着手する」という意味が上がっているが、そんな意味で使ったことはない。
物、もしくは動作を主語にして「dá se」で、「できる」という意味になる。能力云々ではなく、状況的に可能かどうかをいうもので、「jde to」に近いので、「行ける」とか、「何とかなる」という意味に理解してもいいかもしれない。モラビアではワインを「dá se」「nedá se」「pro Pra?áky」という三つのカテゴリーに分けるなんて冗談はどこかで紹介したかな。
2019年12月28日23時。
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