それで、中世前期に成立したとされるいくつかの貴族家の中で、貴族家としてだけでなく、名前としても名字としても聞いたことのなかったフロズナタを取り上げることにした。この家は12世紀の初めに記録に登場し13世紀前半には、本家が断絶するという短い歴史しか持たないが、その歴史はなかなかに劇的である。
フロズナタ家の歴史は、モラビアのオロモウツに置かれていたプシェミスル家の分家から出てボヘミアの侯爵の地位を手に入れたものの短命に終わったスバトプルクの治世下で起こったある事件に縛り付けられている印象である。その事件は、1107年に即位したスバトプルクが翌年に実行したブルシュ家の族滅である。このとき子供も含めて、全部で300人ものブルシュ家の男女が殺されたという。スバトプルクはブルシュ家の生き残りが放ったとされる殺し屋によって1109年に亡くなっているから因果応報というべきか。
ヘジュマンが1130年以前になくなった後、後を継いだのは息子のフロズナタ?@だった。ボヘミア王ブラディスラフ1世の下で、現在ではポーランド領となっているクラツコの城代を務めており、その間にポーランドの貴族たちとの関係を深めたようである。二人の息子のうち一人は、ムニェシュコとポーランド王の名前をもらっている。
後を継いだ息子のフロズナタ?Aは、巻き毛のというあだ名で知られるが、弟とともに後継者に恵まれず、フロズナタ家は、フロズナタ?@の弟セゼマの子、フロズナタ?Bが継承することになる。このフロズナタがこの家で最も有名であると同時に、最後の当主となった人物である。セゼマのほかの子供たちを祖としていくつかの貴族家が誕生しているので、フロズナタ家の本家は断絶するが、家系は後世に続いているらしい。
さて、そのフロズナタ?Bだが、ポーランド貴族との関係を生かしてクラコフで教育を受けている。姉がポーランドの貴族に嫁ぐのに同行したという伝説もある。しばしはテペルスキーという形容詞をつけて呼ばれる。それは、所領の一つであった西ボヘミアのテプラーに修道院を創設して、後に自らも修道師として出家したからである。テプラーの修道院は、十字軍に参加すると誓ったのに参加できなかったことに対する贖罪として1197年に建てられたと言われる。そのためにローマ教皇から許可を得るためにローマまで出向いたというから、敬虔なキリスト教徒だったのである。さらに1200年ごろにはホテショフに女子修道院まで設立している。
伝説によれば、1217年、病で死を目前にしたフロズナタは、ドイツの盗賊騎士団によって身代金目当てに誘拐され、監禁されていたホヘンブルクの城で亡くなる。遺体はテプラーの修道院に運ばれ、ホテショフの修道院で修道女として亡くなった姉のユディタとともに葬られたという。これで終わっていれば、伝説は伝説のままだったのだが、第二次世界大戦後の共産党政権によって、テプラーの修道院は廃止され、建物も接収され、軍の施設として利用された。
その際、フロズナタの遺骨などもゴミとして処分されそうになったのを、元修道士が機転を利かせて、司令官にお酒と交換してもらい、テプラーにある教会にひそかに持ち込んで保管したのだという。共産党政権も、修道院は廃止し、教会の活動にも制約をかけたが、教会そのものを廃止することはできなかった。そのおかげでフロズナタの遺骨は現在まで残っているのである。
さて、北ボヘミアから西ボヘミアにかけて大きな所領を有していたとはいえ、たかだか地方貴族でしかないフロズナタ家が、4代、百年弱の間に領内に3つも修道院を設立したのは、普通のことではあるまい。その動機のひとつに、家が興るきっかけとなったブルシュ家の虐殺があるようにも思われる。最後の当主であるフロズナタ?Bの場合には、それに加えて、生まれたときに死産と誤解される状態から蘇生したり、ポーランドで教育を受けている間にビスワ川でおぼれたのに死ななかったりと、聖母マリアの加護があったから生き続けられていると信じていたらしい。考えてみるとフロズナタ家が断絶した後、親戚縁者が継承権を主張して家を都合としなかったようなのも過度のキリスト教への傾倒が嫌われたのかもしれない。
フロズナタ?Bは、キリスト教への貢献を讃えられて、19世紀末に当時のローマ教皇によって列福され、2004年にはプルゼニュの司教の手で列聖への手続きが始まったという。
2020年8月16日14時30分。
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