ニュースでは、当然メンツルの人生を簡単に紹介していたのだが、一番驚いたのは、母校であるFAMU(芸術大学の映画学部。音楽関係者は大学の略称のAMUを使い。映画はFAMU、演劇はDAMUを使うことが多い)では、才能不足を理由に当初希望した映画監督の勉強が許可されず、テレビ関係の学科で勉強していたという話である。教官を務めていた映画監督のオタカル・バーブラに見出されて映画監督の道に進めたのは、メンツルの映画のファンにとっても幸いなことだった。以下主要な作品を簡単に紹介しておく。繰り返しもあるけど。
メンツルは大学卒業後の監督としての活動でいわゆる「ノバー・ブルナ」の創設者の一人とみなされている。きっかけと言えそうなのは、ビェラ・ヒティロバーに誘われて参加したらしい1965年の映画「Perli?ky na dn?(水底の真珠)」である。ボフミール・フラバルの同名の短編集を原作とする映画で、メンツル、ヒティロバー、ニェメツ、イレシュ、ショルムという、いずれも「ノバー・ブルナ」に属する5人の監督が、それぞれ一本ずつ短編映画を制作している。
メンツルにとってはこれが最初の商業映画だったらしい。同時にメンツルと原作者フラバルという、1960年代以降のチェコスロバキア映画の最高の組み合わせが誕生した瞬間でもあった。メンツルが担当した作品は「Smrt pana Baltazara(バルタザル氏の死)」で、原作とは人名が変わっているが、オートバイの世界選手権のチェコスロバキアGPでドイツ人選手が亡くなった事故がモチーフになっているという。残念ながらこの作品については現在まで見る機会を得ていない。
翌1966年にメンツルとフラバルが世に送ったのが、アメリカのアカデミー賞で外国語映画賞を取った「厳重に監視された列車」である。日本では「運命を乗せた列車」という題名でも知られている、この映画は、アイドル歌手だったバーツラフ・ネツカーシュの俳優としての才能を見出したという点でも、重要な作品である。メンツル自身も医者の役で登場している。
1968年には、フラバルの原作ではないが、戦前の作家ブラディスラフ・バンチュラの同名の作品を映画化した「Rozmarné léto(気まぐれな夏)」が公開される。重要なのは名優ルドルフ・フルシンスキーとブラスティミル・ブロツキーが主要な役で出演していることである。特にフルシンスキーは、以後のメンツル作品には欠かせない存在となる。
そして、「プラハの春」で規制緩和が頂点に達した1968年に制作され、完成後、正常化の始まる1969年に問題作としてお蔵入りになったのが「つながれたヒバリ」である。20年以上のときを経て、ビロード革命後に初めて一般公開され、1990年にベルリン映画祭で金熊賞を獲得した。この作品でも主役のバーツラフ・ネツカーシュだけでなく、ルドルフ・フルシンスキーとブラスティミル・ブロツキーも印象深い役を演じている。共産党には、思わず発した何気ない一言のせいでネツカーシュが炭鉱送りになる最後が許せなかったんだろうなあ。
ネツカーシュは、俳優としての出演作こそ少ないが、「厳重に監視された列車」と「つながれたヒバリ」というフラバル=メンツルの二作での演技だけで、20世紀後半のチェコを代表する俳優になったといっていい。その後は、秘密警察に脅迫されて、協力者としての仕事を強要されたストレスから、見違えるように太ってしまって、一時は表舞台から姿を消していたようだけど。
以下次号。
2020年9月8日20時。
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