戦後SFの黎明期を主導した福島正実は、かなり意図的に、そして強引に戦前の文学からの流れを断ち切り、新しくアメリカから入ってきた文学としてSFというジャンルを確立しようとしていたようである。そのことを考えると、新しい欧米の文学として日本に導入されたSFの中から、「東洋的無常観」にあふれる文体などと形容される光瀬龍が、登場してきたこと、特にいわゆるSF第一世代の中から登場してきたことは、不思議な気がしないでもない。その一方で、換骨奪胎とか、和魂洋才とかいう言葉があることを考えると、日本SF史の最初から日本化が進んでいるのも、当然なような気もする。半村良も福島正実が「SFマガジン」の編集長を外れてからだったと思うが、独自の日本的な伝奇小説の道に分け入ったわけだし。
さて、光瀬龍の存在を知ったのは何によってだったのだろうか。SFを読み始めた当時に読んでいた高千穂遥の小説には解説は付いていなかったような気がするが、ソノラマ文庫だったので、巻末の目録に載っていたのかもしれない。学校か町の図書館でジュブナイルの『夕映え作戦』を見つけて借りたという可能性もある。そしてもう一つ考えられるのが、たまに家族で出かけていたラーメン屋に置かれていた漫画雑誌「少年チャンピオン」だ。少中学生の間では「少年ジャンプ」が圧倒的に人気で、「チャンピオン」なんて買っている友人はいなかったのだが、そのラーメン屋には、なぜか「ジャンプ」ではなく、「チャンピオン」が置かれていたのだ。
当時の「チャンピオン」には、『ドカベン』『750ライダー』『ガキデカ』など、それぞれに一時代を築いた漫画が連載されていたが、そんな中に光瀬龍が原作の『ロン先生の虫眼鏡』があったはずなのだ。理系少年としてはあの作品に描き出された生物学に惹かれなかったはずはなく、本ではないけれども、最初に読んだ光瀬龍の作品は、漫画版の『ロン先生の虫眼鏡』ではないかと思う。その後、徳間文庫で出ていた文章版の『ロン先生の虫眼鏡』を読んで、漫画版とはまったく別物であることに戸惑った記憶がある。生き物に向けるまなざしは、どちらも同じだったけど。
(購入はできないみたいだけど)
そして、傑作『百億の昼と千億の夜』、『たそがれに還る』、『喪われた都市の記録』を読んだのは高校時代だった。全てを理解できた自信はないが、人類の存在のちっぽけさと、時の流れの残酷さに打ちのめされた。人類がいかに栄え、どんなものを築き上げようとも、悠久の時の流れの前では無力であり、やがては滅びを迎え、元の自然に戻ってしまう。人間が何をしようが、宇宙は宇宙としてそこにあり、何も変わらないのだということを理解させられた。そしてそれでも何かをなそうとするから、うまく行かないときでも最後まで抵抗するから人間は素晴らしいのだと。そうか、この諦念が自然保護を声高に叫ぶ連中や緑の党などに対するアレルギーにつながっているのか。
(阿修羅王というと萩尾望都の描いたものが思い浮かんでしまう)
光瀬龍が、さまざまな媒体で子供向けのいわゆるジュブナイル小説を書いているのは知っていたが、ソノラマ文庫や秋元文庫に入っている作品を古本屋で買い集めていたら、予想以上の冊数になってびっくりした。できのいい面白いものもあれば、いまいちというものもあるのだが、光瀬龍のジュブナイル作品は、男の子が主人公で、必ずヒロイン役の女の子が出てきて、恋人にはならないまでも、一緒に活動をしている間に、結構いい雰囲気を作り出すという点で、現在流行の男の子向けのいらゆるラノベの源流だとも言えそうだ。そのフォーマットは驚くほど変わっていない。
福島正実の主導でSFを普及させるために、まず子供たちに子供向けのSFを読ませて読者として育てようというプロジェクトもあったようだから、子供が主人公のSFが求められていたのだろう。旺文社あたりが出していた中高生向けの学年別の雑誌に連載されたものも多く、掲載雑誌の対象学年の子供が主人公となるのは当然だったのだ。
一概には言い切れないのだが、光瀬龍のジュブナイルは、子供たちの活躍を支える大人の存在が重要で、その大人が魅力的である作品ほど、面白いような気がする。大人たちの中で、一番印象に残っているのは『暁はただ銀色』のお寺の和尚さんかなあ。『夕映え作戦』に出てくる大人は、ちょっと頼りない女の先生で、子供たちを支えているとは言えなさそうだけど。
では、光瀬龍の作品で、一番好きなものはと言われたら、悩んでしまう。わけのわからない面白さということで、『猫柳ヨウレの冒険』を挙げておこう。読んでいるうちに、人物の設定などいろいろなものが変わってしまって、矛盾の塊のようなストーリなのだが、そんな細かいことは気にしないのがSFだとでもいわんばかりに強引に話を進めてしまい、二冊目の最後で、とんでもない最期を迎えてしまうのである。あれは多分最期って言っていいはず。
(ヨウレはなかった……)
これは外国語に訳せないなあとか、キリスト教関係者には読めないだろうなあなどと考えながら、たまに『百億の昼と千億の夜』を読み返す。そして、光瀬龍がこの作品を書くきっかけとなったという奈良興福寺の阿修羅王の姿を頭に思い浮かべるのである。
6月14日23時30分。
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