最古の確認できる記事は、「マサリック?ヘ授ノ露國革命評——(一九一七年六月五日倫敦「タイムス」所載)」(人名に付された「」は省略)というもので、外務省政務局が編集発行していた「外事彙報」第9号に掲載されている。この号の発行日が目録に記載されていないため正確なことは不明だが、おそらく原典の発表された1917年中には出されたのではないかと思われる。
共産主義やロシア革命に批判的な立場を取っていたことが、日本の外務省の注意を引いたのかもしれない。これが、日本のシベリア出兵につながったなんて考えると話はできすぎなのだが、どうだろう。シベリアで活動中だったチェコ軍団への援助と帰国の支援の交渉のために、マサリク大統領が日本を訪れたのは1918年のことである。
人物伝としては、これも紹介済みだが、橋口西彦 編『 ヴェルサイユ講和会議列国代表の各名士 』(一橋閣、1919)がある。イギリスのロイド・ジョージやアメリカのウィルソン、日本の西園寺公望など全部で20人の世界中の有力政治家に混じって、マサリク大統領についての章が立てられているのである。ポーランドやハンガリーなどのドイツとソ連の間の中東欧の新規、もしくは再独立国の多かった地域からは他には誰も取り上げられていないことを考えると、評価の高さが見えてくる。
1920年代になると、戦後の世界情勢を解説する書物の中で、チェコスロバキアを取り上げるなかで、マサリク大統領にもふれるようなタイプのものと、現代の偉人伝、もしくは立志伝的な記事が増えるように見える。
前者としては、1923年に実業之日本社から刊行された井上秀子『婦人の眼に映じたる世界の新潮流』(「チエツク・スロワキアの部」が立てられ「新建國チエツク・スロワキア」と「マサリツク大統領」という二本の文章が収録)や、1927年に政治教育協会から「政治ライブラリー」の第一巻として刊行された『欧米政界の新潮流』(「チエツコ・スロヴアキア國」という章に、「新興のチエツコ共和國」「マサリツク大統領とベネーシユ外相」「チエツコ・スロヴアキア國の國民的運動とソコル團」が収録)などがあげられる。
後者としては、「日本及日本人」の1926年12月15日号に掲載された鷺城學人「マサリツク博士——人物評論」や、1928年に中西書房から刊行された早坂二郎『 歴史を創る人々 』に収められた「チエツクの建國者マサリツク」、大阪で刊行されていた雑誌「公民講座」第43号(1928年)に発表された新井誠夫「【偉人の面影】致國獨立の偉人 終身大統領マサリツク」などが挙げられる。最後の例はチェコスロバキアを「致國」と表記している点でも興味深い。
他にも共産主義とのかかわりでマサリク大統領を取り上げたものなどもあるが、他のどれよりも読んでみたいと思うのが「チェツコ・スロバキヤ大統領マサリツク閣下より日本の少年へ」という「少年倶樂部」の1931年7月号に掲載された記事である。出版社は大日本雄辯會講談社。どういう伝手でマサリク大統領まで話を持っていったのかは知らないが、この会社、本当にたまにいい仕事するんだよなあ。国会図書館が雑誌も古いものはオンラインで公開してくれるようになると最高なのだけど。
こうしてみると、マサリク大統領は日本では、現在よりも、1920年代から30年代にかけての方が、有名だったようである。考えてみれば大戦間期のチェコスロバキアは、世界有数の工業国だったわけだから、その国の建国の父とされる人物が注目を集めたのは当然だったのかもしれない。
ところで、最近は見かけなくなった「マサリツク」、もしくは「マサリック」という表記は、1980年代ぐらいまでは使用されていたようである。
2020年10月28日20時。
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