西遊二年欧米文明記 』(文会堂書店)という1911年に刊行された書物に、「百塔の古都プラーハ」という章があるというのである。
この著者の名前、どこかで見たことがあると考えて、東大の史料編纂所の関係者じゃなかったかと思い出す。ということは、日本史が専門の歴史学者のはずだけど、ヨーロッパに出かけたのだろうか。「ジャパンナレッジ」で確認すると、『国史大辞典』には、日本史の研究者としての業績しか書かれていないが、他の『日本国語大辞典』などには、エスペラントの日本への紹介者の一人であることが記されていた。
明治時代の人なので、日本史を研究しながらも同時にヨーロッパへの目配りを忘れなかったということなのか。念のためにウィキペディアを見たら、「1908年から2年間、私費で学術研究のために欧米各国に出張し」たと書かれていた。その間に「ドレスデンで開催された第四回世界エスペラント大会」に参加したことも記されている。
ドレスデンからプラハならそれほど離れていないから、ついでに足を伸ばしたということであろうか。ということで、本の中身を見てみると、明治41年2月に横浜の港を出発して、ハワイを経由して、アメリカの「桑港」というから、サンフランシスコに向かって以来、欧米諸国を巡り、エジプトにまで足を伸ばしている。
プラハが登場するのは全80章の真ん中ちょっとすぎの45章で、ドレスデンから南下してプラハに入ったことが記されている。その第一印象は「物寂びた古建築が目につく」というものだった。そしてプラハを流れる「モルダウ河」の様子に、「京都に遊んで鴨川のあたりにあるのではないか」という感想を漏らしている。
プラハが何度も戦争の舞台になったことを記すのだが、「フッシット戦争」という表記を用いているのが目に付く。それからチェコ人のことを、「チェヒ族」と、チェコ語の「?ech(チェコ人)」に由来すると言われても不思議のない表記を使っているのにも驚かされた。エスペラント関係者の中にはチェコ人もいたはずだから、そんなチェコ人から教えられたのかもしれない。
プラハにおけるチェコ系とドイツ系の対立についても、「一方は多数を以て他を圧せんとし、一方は勢力を以て他に対して居る」と評して、その実例をいくつか挙げている。「互に他の言語を了解しなから、自ら語ることを欲せぬ」とか、「独逸語の大学とチェヒ語の大学と相対する」とか、日本人の碩学の眼に映った当時のプラハの様子が読める。プラハでの滞在自体は博物館や美術館が期待外れだったらしいが、民族対立の現状を見られただけでも、プラハを訪れた甲斐があったという。
いくつかのプラハ市内の教会や、地名が登場するのだが、こちらがプラハの名所に詳しくないこともあって、どこを指しているのかわからないというのもあった。「カール橋」「ワレンスタイン」は問題ないけど、「ヨハン・ネポミュク」は「ヤン・ネポムツキー」、「フラッヂン」はプラハ城のある「フラッチャニ」のことだろうかと推測する。教会の名前はお手上げだけどさ。
残念ながらプラハ以外のチェコの町についての記述はなく、次の章はハンガリーのブダペストに飛んでしまう。こちらもまた、オーストリア=ハンガリー帝国内での民族問題という観点から興味を引かれての訪問のようである。
それにしても、学生時代からお世話になり続けている『国史大系』や『大日本古記録』の編纂を主導した黒板勝美氏がプラハを訪問した記録を残しており、それをオロモウツで読むというのは、何とも不思議なことである。オロモウツまでは来られていないのが残念である。
2020年11月7日23時
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