今回は、それらのチェコスロバキア軍団に関する文章にどのようなことが書かれているのかを見ることにする。残念ながら雑誌の記事は国会図書館でデジタル化されたものでも、インターネット上では公開されていないので、単行本扱いの本の中から選ぶしかない。今回の武漢風邪騒ぎで図書館が閉鎖された結果、オンラインで蔵書を読めるようにとかコピーできるようになんて話しも出ているが、その前にせめて戦前の分だけでも、雑誌の記事の公開を始めてほしいものである。特に廃刊になってしまった雑誌であれば、著作権など配慮のしようもないと思うのだけど。
現在、国会図書館のオンライン検索で確認でき、かつデジタルライブラリーでインタネット公開されている本の中で、チェコスロバキア軍団について書かれている最も古い本は、藤井直喜という台湾在住の人が書いた『出征軍隊慰問の急務 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/958433 』という本である。奥付によると著作者と発行者を兼ねているので自費出版なのだろうか。ただ印刷を担当したのは、当時台湾一の新聞だった台湾日日新報社である。発行日は、チェコスロバキア独立直後の1918年11月3日となっている。
著者についてもよくわからないが、よくわからないのはそれだけではない、題名からは戦場への慰問活動の重要さを解いた啓蒙書のように見えるのだが、中身を見ると日本軍のシベリア出兵のことを描いたドキュメントのようにも見える。最悪なのは、目次に並んでいる節の題名と、本文中の節の題名が一致していないところがあることである。例えば、目次には「チエツク軍負傷兵来る」という節が56頁にあることになっているが、その頁にあるのは「西伯利戦の花と謳はれた少年勇士チエ君」という文章である。
「チエ君」というのは「チエニーク君」のことで、チェコスロバキア軍団の負傷兵20人が東京駅に到着して、聖路加病院に入ったことが記されるから間違いではないのだろうけど。チェコと日本の交流の歴史を知るものにとっては、チェコ系アメリカ人のレーモンドが設計に関った聖路加病院にチェコ人の負傷兵が入院したのには。思わずおーっと言いたくなる。もちろん、これは偶然ではなく、当時の日本で外国人の患者を受け入れられる病院がどれだけあったかを考えると、必然なのであろう。
外国人を受け入れる病院とは言っても、言葉の問題はあったようで、全員「ボヘミア語の外話さぬので生れが同族のストロング商会のフランゼル夫人」が通訳などで面倒を見ていたようである。ストロング商会も詳しいことはわからないが、当時の日本にたくさんあった外資系の商社のひとつで、時期を考えるとドイツ系ではなくアメリカ系の会社だろうか。件のレーモンドも最初はアメリカ系の建築事務所で働いていたわけだし。
左の腕と右の脚を失った「ドルチエレツク君」も含めて、チェコ軍団の負傷兵たちは、元気がよく、「フランゼル夫人」を介して、市内観光の希望を伝えている。ただ戦地から引き上げてきたばかりで、外出するのに服がないから、着るものがほしいという希望もあったようだ。残念なのは、この市内観光が実現したのかどうか記されないことで、一体にこの本、細切れな記載が、あまり関連なく並んでいる感があってわかりにくい。チェコ軍団が日本のどこに到着したのかも書かれていないし。
引用っぽい文章も多いので、資料集を意図して編集したのかもしれないけど。ぱらぱらとめくった限りでは、このほかにも、ウラジオストックの病院の関係者が、チェコ人負傷兵の我慢強いのに感心していたり、チェコ軍団側から日本政府に贈られた謝辞が載せられていたりする。
国会図書館には著者本人の寄贈によって納められたようだが、気になるのは当時どのぐらい印刷されて、どのぐらいに人に読まれたかである。奥付には検印もないし、定価も書かれていないから、無料で配布したという可能性もなくはないのか。最初にこの本の中身をさっと見たときには、著者は医者かなと思ったのだけど、今となってはどうしてそう思ったのかさえ思い出せない。
2020年11月11日22時。
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