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2021年05月15日

凶器乱舞の文化(五月十二日)




 このラシーンがどのくらい日本で知られているかと言うと、いささか心もとない。少なくとも ジャパンナレッジ 所収の百科事典の類には立項されていないし、日本語版のウィキペディアにも記事はない。どちらも「ラシーン」で検索すると出てくるのは、アメリカの地名と、日参が販売していた自動車である。

 国会図書館オンラインで検索してみると、昭和五年(1930年)に、高田義一郎という人が刊行した『聖代暗殺事件』の 目次 に「大臣ラシーン」という章が確認できる。この本、「悪の華文庫」という叢書の第二巻になっていて、題名から推理小説、当時の言葉でいえば探偵小説のようにも思われるのだが、明治以降に暗殺された人についてまとめたもののようである。明治維新以後に日本で暗殺された人が中心だが、最後の海外編に「大臣ラシーン」と「チエツコ・スロバキヤの陸相夫妻」と、ページ表記から短いと思われるとはいえ二つもチェコスロバキア関係の小があるのである。
 残念ながら、この『聖代暗殺事件』は、オンラインでは館内閲覧しかできないようになっているが、同じ高田義一郎氏が二年後の昭和七年に刊行した 『凶器乱舞の時代』 は、インターネット公開になっているので、全文読むことができる。著者が同じで新しいほうが公開されているのに、古いほうが未公開なのは何故なのだろう。この辺の著作権をめぐるあれこれは、わけのわからないことが多い。

 二冊の本の目次と比較すると、どうも『聖代暗殺事件』をもとにして、増補して書き上げたのが『凶器乱舞の時代』であるように思われる。副題として「明治・大正・昭和暗殺史」がつけられているし、取り上げられる暗殺された人物も、多少増えているけれどもほぼ同じになっている。表紙の著者名には「医学博士」という肩書きがついており、「序」によれば法医学を専門としていた人のようである。
 凡例には、海外編は意図的に簡潔に書いたことが記されるが、ラシーンについての記事も、陸相夫妻についての記事も非常に短い。とはいえ、この時期にこのような本にラシーンが取り上げられていたというのは驚きである。チェコ語を勉強していて、チェコの歴史にも興味がある人でも、マサリクやベネシュならともかく、ラシーンまで到達する人は多くないはずである。かくいう自分も、チェコに来てラシーンに関するニュース、ラシーン取り上げたテレビ映画が放送されなかったら、知らなかったに違いないと思う。

 せっかくなのでどのようなことが書かれているか、引用しよう。こちらでは「チエツコ蔵相ラシーン」と題されている。

一九二三年正月五日の午前九時、チエツコ・スロバキヤの大蔵大臣ラシーンは、自邸を出で正に自動車に乗らうとする所を、背後から狙撃されて二弾を受けた。それから、ポードルのサナトリウムで手術を受けたが、出血が甚だしくて、快復できず、二月十八日に遂に死んだ。犯人はヨゼフ・ゾウバルといふ二十一歳の青年である。


 チェコ語のウィキペディアで確認すると、運ばれた病院は、「ポードル」ではなく「ポドリー」、犯人は「ゾウバル」ではなく「ショウパル」となっている。現在のマスコミのチェコの人名、地名表記のでたらめ振りを考えたら、意外と正確だといいたくなる。犯人の年齢は、十九歳になっているが、これは高田義一郎氏の表記が数え年に基づくからかとも思われる。残念なのは、暗殺に至る経緯などが記されていないことだけど、情報がなかったのか、簡潔にという方針上割愛したのか。

 ついでなので陸相夫妻についての記事も引用しておく。

一九二七年二月二日、カルルスバードから首府のプラーグに向ふ途中、チエツコ・スロバキヤの陸相夫妻の自動車を狙撃したものがあつた。疾走中の為に、夫妻は幸に微傷だに負はなかつたが、犯人はそのまゝ逃走してしまつた。


 こちらは暗殺未遂だったようだ。陸相というのを国防大臣と理解してよければ、後に首相にもなったフランティシェク・ウドルジャルという人物のようだ。この人の存在も知らなかった。いや、名前を耳にしたことはあったかもしれないけど、全く覚えていなかった。
2021年5月13日24時。










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