古典文学に関して、昔のことを思い返すと、全集派ではなく、大系派だった。これは古典文学を読んだり、資料に引用したりするときに、現代語訳のない岩波書店の「日本古典文学大系」と、現代語訳付きの小学館の「日本古典文学全集」のどちらを優先して使うかという話で、大学に入ったばかりの頃は、小学館というのは漫画の出版社だというイメージがあって、岩波文庫の岩波書店を優先するようになってしまったのだ。大学で古典文学を勉強する以上は、現代語訳なしでも読めたほうがいいなんてことも考えたかもしれない。
その後、岩波のあこぎな商売の実態を知り、実害を被るに至って岩波に対する幻想は消えたけど、大学時代を通じて大系優先は変わらなかった記憶がある。実は原文を読むだけだったら新潮社の「日本古典集成」のほうが、わかりにくい言葉には行間中の形で現代語での意味が書かれていて読みやすいというのには気づいてはいたが、古典文学の作品を現代の作品と同じような形で読書の対象にしようという発想はなかなか持てなかったのである。原文を最初から最後まで通読した作品も少しはあるけれども、意識は調査資料で読書じゃなかったよなあ。
実は、この『古事記』、大学時代に原文(正確には書下し文かな)で通読したことがあると思っていたのだが、今回読んでみて、通読ではなくて、部分的に少しずつ資料として読んでいった結果として、ほぼ全部読んだというのが正しいような気がしてきた。昔は、神名、人名を必死に覚えこみながら読もうとして、結構覚えていたはずなんだけど、万葉仮名風表記表記の固有名詞は結構辛かった。まあ、今回は気楽に、読めないなら読めない、忘れたら忘れたで、誰だったっけで放置しながら、ストーリーを追う形で読み進めたんだけど、その結果、古事記自体にはストーリーというか物語性を感じさせる部分はそれほど多くないということを改めて感じさせられた。神話とかいろいろな形で読んでいるから、話が膨らまされた形で覚えていて、『古事記』の時点ですでにその形だったのだと思い込んでいたものもあるのである。
思い込みと言えば、これ自体も誤解かもしれんけど、「やまとごころ」重視の本居宣長の影響で、『古事記』は万葉仮名風の一字一音表記を使った和文も結構あるのだろうと思っていたら、ほぼ原文は漢文だった。なんとも恥ずかしい話である。漢文の部分は読んでいないから、どこまで、いわゆる和製漢文になっているのかは確認していないが、この思い込みに気づけたのもまた以前は一度に通読しなかったのだろうなと思う理由の一つである。考えてみれば、万葉仮名の名のもとになった『万葉集』だって左注は漢文で書かれていたし、当時の人々が歌ではなく、文章を書く場合に漢文を選ぶのは当然だったのだろう。
こんなしょうもないことを考えながら『古事記』を読んでいたのだが、予想以上に面白かったし、内容をほとんど覚えているおかげか、古文だけで意味不明なところもほとんどなく、自分もまだ捨てたもんじゃないななんてことも考えた。本当に古文の読解能力が残っているかどうかが問われるのは、江戸期の作品に手をだしてからだろうけど。ということで次は平安時代の『日本霊異記』を読むことにした。
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