今回は「日本古典文学全集」で、原文の漢文を書き下しにした本文を読んでいったのだが、書下し文の文体のほうが、「東洋文庫」の現代語よりも読みやすく感じられた。平安時代の古記録の訓読で、いわば自分でも書下し文を書いていたおかげで、その文体が骨の髄まで染み付いているのだろう。同じ平安期の文学でも『源氏物語』や『枕草子』のだらだらした文体(失礼)が苦手だったのもむべなるかなである。『古事記』と同じで、漢文で書かれた原文を読もうとまでは思わなかったけど、必要があればやってやれなくはなさそうだというと自惚れに過ぎるか。
読んでの感想は、うーんである。これ平安初期の作品であることを無視して、内容だけについて考えたら、どう読んでも、やばい宗教のプロパガンダ本である。不幸が多いのは前世の因縁だからそれを祓うためだとか、死んだ親が現世で犯した罪の生であの世で苦しんでいるからそれを救うためにだとか、さまざまな理由で功徳を積む話が多いが、功徳が寺院、教団への寄贈だと考えれば、その論理は、現在のいわゆる新宗教の集金の手段と極めてよく似ている。目的が信者を増やすことなのか、金銭を集めることなのかよくわからないのも同じである。
僧や寺院などの仏教に関係するものを冒涜したことで、仏罰が落とされると理解しうるタイプの話は、現代でもよくある自作自演の信仰の奇跡を思い起こさせる。はたから見ているとあからさまなものでも、信じる人は信じてしまうからなあ。それで、半村良の隠れた傑作「嘘部三部作」の発想の原点の一つは、『霊異記』にあったんじゃないかなんてことも考えてしまった。
宗教史的な観点から見ると、平安初期にこの手の説話を集めた『霊異記』がまとめられたという事実に、説話が誕生したであろう奈良時代の仏教の実態が反映されていて興味深いということも言えるのだろうけど、その辺はもうわが任にあらずである。現在でこそ、神道と並んで、日本人の多くが宗教として認識していないところのある仏教も、伝来してからしばらくはキリスト教並みにはた迷惑で過激な存在だったようだ。そういえば、導入派と排斥派で戦争やったなんて話もあったなあ。だからこそ、国家を挙げて、国家運営の手段の一つとして公式に導入する決定が必要だったのだろうし。
もちろん、『霊異記』には、冒頭の少子部栖軽の話など仏教とは直接関係のない話や、役小角の話や、半村良の『妖星伝』にも出て来た熊野の山中のしゃべる髑髏の話など、仏教云々抜きにして興味深い話もかなりある。中には、後世の作品のなかに取り入れられてよく知られている話もあって、『霊異記』の文学としての影響力の大きさを感じさせるのだが、全体を通して読むとどうしても新宗教ばりのプロパガンダ臭が気になってしまう。
もしかしたら、プロパガンダが鼻につく説話でも、その一話だけを読む分にはそれほど気にならないのかもしれない。ただ、立て続けに同工異曲のプロパガンダ話を何話も読まされると、解説かどこかで読んだ、教団の説教のためのマニュアルとしての役割もあったという説明が正しく思われてくる。ということは、こちらの最初から最後まで通読するという読み方がよくなかったということか。面白そうなところをつまみ食い的に読めばよかったのだろうか。だから、「全集」で次に読むとしたら、今回読んで面白かった話を探してそれだけを読むという形になりそうだ。「全集」に収録された作品はまだまだたくさんあるので、次があるかどうかが問題である。
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