論文「『源氏物語』と与謝野晶子」に挙がっている「紫式部考」は、金尾文淵堂から、『新訳源氏物語』、『新訳栄華物語』に次いで大正五年(1916)に刊行された『新訳紫式部日記、新訳和泉式部日記』の冒頭に収録されたものらしい。
天弦堂書店から大正六年に刊行されたエッセイ集『我等何を求むるか』に収録された「紫式部の考証」(212-214頁)に、その旨が書かれ、その目的を「在来の不正確な伝記に多少の補正を試みようとした」と述べている。
「紫式部の考証」には、「其後気の附いたことを」書いたというのだが、中心となっているのは、紫式部がまだ子どものころに、母親と一緒に仕えていた主君についてである。ここで晶子は、いくつかの根拠を挙げて、冷泉天皇の中宮であった昌子内親王ではないかという推定をしている。ちなみに、昌子内親王は朱雀天皇の娘で、冷泉天皇とは従兄弟の関係になる。
それから紫式部の父にあたる藤原兼輔が「堤中納言」と呼ばれたこと、『枕草子』の別名に『清少納言物語』があり、『和泉式部日記』が『和泉式部物語』とも呼ばれ、物語の題名には著者名前が入ることが多いことから、本来の『堤中納言物語』は、藤原兼輔の自伝的な小説で、今日の兼輔の登場しない『堤中納言物語』は偽作であろうと言う。
この『我等何を求むるか』には、「ロダン翁に逢つた日」(101-110頁)という文章も収録されており、それによれば、与謝野夫妻がロダンと面会したのは、「一九一二年(大正元年)六月十八日の午後」である。『新訳源氏物語』のあとがきに書かれた『新訳源氏物語』を献呈したというのは見えないが、ロダンとの対面が晶子にとって感動的なものであったことはよくわかる。四男に「アウギユスト」という名前をつけたことをロダンに報告したら、喜んでくれて祝福の手紙まで送ってくれたのだという。
同じく大正六年に書かれた「紫式部の伝記に関する私の発見」という文章は、実見できていないのだが、幸いその要約を「 森の源氏物語余談 」というホームページで見つけた。これを読むと、これまであれこれ書いていた紫式部に関する論考をまとめ、家系についても記した紫式部の伝記になっている。この時点でも、まだ『源氏物語』の作者としては、紫式部しか考えていないようである。
雑誌「太陽」の昭和三年一月号から三月号に掲載されたという「紫式部新考」も原文を実見することができなかったので、部分的に引用されたネット上の記事を参照した。「 pearlyhailstone 」というタイトルの古文を専門とする人のブログである。具体的な記事はそちらを見てほしい。
『源氏物語』の執筆順に関して、「箒木」から書き始められたというのは、以前の論と変わらないが、「桐壺」が書かれたのが大正五年の段階の全てを書き上げた後最後に序のような形で書いたという考えから、「よほど後に至って」というものに変わっている。これは、作者について紫式部の単独執筆説から、複数作者説に転向した結果と言えるのかもしれない。
作者については、『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」に至る三十三帖と、「若菜」以後の二十一帖に二分した上で、前半を紫式部の作とし、後半を他人の補作であると推定している。その補作者については、紫式部の娘である太宰三位しか考えられないという。
晶子も書いている通り『源氏物語』のうち末尾のいわゆる「宇治十帖」を後世の補作として、其の作者に娘の太宰三位をあてる説はある。また、「若菜」以後を第二部として、「藤裏葉」までとは分ける考え方もある。しかし、「若菜」以後を太宰三位の補作だというのはかなり大胆な説であるような気がする。この説に対する研究者側の反応が知りたいところではある。
とまれ、大正年間の紫式部単独作者説から、昭和に入って複数作者説に転向しているわけで、そのきっかけの一つとして、「日本古典全集」の編纂のための古典研究があったのではないかと言いたくなる。その意味でも、『源氏物語』第五巻を読んでみたいのだけど、国会図書館早くデジタルライブラリーで公開してくれないかなあ。
次はやっと『新新訳源氏物語』である。さて、次で終わるか。
4月9日23時。
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