実資は夕方に内裏に再び向かい御仏名の三日目に出ている。天皇の仰せで、皇太子時代から付き合いのある僧兼性を、儀式を主導する御導師に任命することになった。勤務年数だけを見ると芳慶のほうが二年長いようだけれども、兼性が担当した廿日の初夜の儀式が素晴らしかった(と天皇が判断した)こともあっての決定である。かわいそうなのは芳慶で、前日の芳慶の仕事は、天皇は寝ていて聞いていなかったのだとか。
末尾に天皇の寝所に「承香殿」、つまり?ィ子が候じたという情報が記されるのは、小野宮家の皇子の誕生を待ち望む気持ちの表れだろうか。
廿二日は、三人の僧を招いて、三日間仁王経の転読をさせている。これは実資の自邸でのことであろうか。早朝、内裏を退出し、午前中に中宮のもとに向かい十九日に始まった秋季御読経の結願に参加している。
夕方からは上皇のもとに移って、院で行われる御仏名に出席。法要に参加する僧の名前を見ると、前日廿一日に終了した宮中での御仏名に出席した僧と同じである。権律師で散花を担当した真喜の奉仕のしようが素晴らしく、列席の公卿たちが皆涙を流したという。上皇も感動したようで、特別に衣を褒美として授けている。法要が終わったあと、酒宴が行われ、笛と歌を楽しむ宴となり、歌を詠むことになった。御製というのは、上皇の歌であろう。その上皇の歌にみな感動して涙を拭ったという。その後、左近衛大将藤原朝光、右近衛大将藤原済時、参議源伊陟の三人が褒美の衣を貰っているのは、歌の出来がよかったからであろうか。
実資ら最後まで残った連中が酒宴を終えて院を退出したのは、すでに翌日のことであった。廿三日は夕方になってから参内して候宿している。この日と、翌廿四日は内裏の物忌である。
廿四日は早朝内裏を出て、藤原頼忠のところに向かう。恒例の経の講義が行われている。奉仕する僧は内裏での御仏名と一部重なる。
廿五日には、実資が個人的に奉納する荷前の使いを送り出している。使者は大炊允致信と書かれているがこの人物についての詳細はわからない。
内裏、院、に続いて、中宮職で御仏名が始まっている。名前の挙がる三名の僧は、内裏と院での御仏名にも奉仕している。中宮職の長官である大夫の藤原済時は朝方になって参入している。
最後に伝聞で、今月に入って入内した藤原?ィ子と藤原姚子の二人を女御とするという宣旨が出されたことが記される。
廿六日は、内裏の季御読経である。中宮の季御読経よりも遅れて行なわれている。珍しく左大臣源雅信、右大臣藤原兼家以下多くの公卿が出席している。実資は夕方には退出している。
廿七日は、まず呼び出しを受けて頼忠のところに向かう。その後院に向かい、円融上皇から、度重なる火災によって焼失してしまった内裏の宜陽殿に収められている御物について、再制作がすんだものを奉る使者として内裏に向かうように求められている。円融天皇の時代に焼失したから、円融上皇が作り直しに責任を負っていたのだろうか。
実資は参内して天皇に奏上し、御物を献上して天皇から褒美をもらっている。その後は上皇の元に戻って報告し、頼忠のところに向かう。頼忠も御物の作成に関っていたのかもしれない。
廿八日は、雨の中内裏に向かっている。左大臣源雅信が自分の意見を封事という形で奏上している。実資は夕方退出して、頼忠のもとに向かう。
廿九日は、上皇、頼忠の順でおとずれている。頼忠のところでは、前日内裏でちらっと登場した詔書について話をしているが内容については記されていない。内裏に出向いて季御読経の結願に出席。退出して、院によってから頼忠の許へ。ほとんど毎日天皇と、上皇、関白頼忠の間を行ったりきたりしている印象である。
大晦日には、例年通り、祓を行い、いくつかの神社に奉幣する。夕方になって年越しの儀式のために内裏に参入する。天皇の背丈を測ることで穢れを払う節折の儀式が行なわれ、深夜亥の刻には追儺、つまり鬼やらいの儀式が行なわれている。花山天皇が密かに紫宸殿に出御してその様子を見ていたという。わざわざ密々に書いてあるのは、普通はしないということであろう。儀式が終わって退出しているが、現在の感覚で言うと新年になってからということになる。
6月30日23時。
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