このチェコの王冠領というのは、現在でこそ、ボヘミア、モラビアとシレジアの一部だけでしかないが、かつてはさらに多くの領地がチェコの王冠に結び付けられていた。一つ目はチェコ語で「ルジツェ」と呼ばれるドイツの南東の端、チェコとポーランドに挟まれたシュプレー川流域を中心としたラウジッツ地方である。このあたりは、ドイツ化が進んではいるものの、西スラブ系のソルブ人の居住地域となっている。中心となる都市バウツェンは、チェコ語ではブディシンと呼ばれる。
中央ヨーロッパの王家の複雑な血縁関係とそれに基づく継承権争いや、戦闘による領土争い、領地の売買などがあって、ラウジッツの領域自体にも複雑な歴史があるわけだけれども、とりあえずチェコの王冠との関係で簡略して説明をすると、最初のこの地域を領有したチェコ王はプシェミスル家のブラティスラフ二世で、1076年のことだったという。ただし、それは書類上の話で、実効支配していたかとなると疑問が残るらしい。ちなみに、大モラバ国の勢力が最大だった時期にも、ラウジッツ地方は支配下に入っていたようである。
このときから、三十年戦争中の1635年にボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝であったハプスブルク家のフェルディナント二世が、ラウジッツを戦費の借金のカタとしてザクセン辺境伯に譲り渡したあとも、公式にはラウジッツはチェコの王冠領の切り離せない一部分であり続けた。いや現在でもあり続けている。もちろん、現実的な支配となるとすでに15世紀には、ボヘミア王の手を離れようとしていたようであるけれども。
興味深いのは、ドイツ化の波に苦しんでいたラウジッツ自体、いやラウジッツのソルブ人たちがチェコスロバキアへの併合を求めたことだ。一回目は第一次世界大戦後のチェコスロバキア第一共和国が成立した際のことで、二回目は、なんと1989年の東側ブロック崩壊の際だという。98年はともかくとして、1918年にチェコスロバキアが独立したときのチェコ側の領土に関しては、チェコの王冠に属する領土というのが、国境を決める基準になったのではなかったか。しかし、チェコの王冠領に属するとはいえ、すでに何百年も前に実行支配権を失った領域を、領土として要求できるほどマサリク大統領もあつかましくはなかったということなのだろう。
それに、地域の民族構成を無視して、チェコの王冠領をチェコスロバキアの領土とすること自体が、第一次世界大戦後の諸民族の独立の理念となった民族自決の考え方には完全に即していたわけではないし、ドイツ化の進んでいたラウジッツをも領土に加えたら、ただでさえ高すぎた国内のドイツ人の割合がさらに上昇してしまうという事情もあったのかもしれない。ラウジッツがチェコスロバキアに、後にはチェコに併合されることはなかったのである。
ラウジッツでは、1913年に設立されたソルブ人の民族文化を守るためのドモビナという組織が、ナチスドイツによって存在を禁止された時期を除いて、現在に至るまで活動を続けている。東ドイツ時代はいざ知らず、現在では少数民族としての権利が認められており、ソルブ語に学校教育が行なわれており、地名などの看板表記もドイツ語とソルブ語の二重表記になっているらしい。
とはいえ、ソルブ語の使用人口は10万人ほど、しかも上ソルブ語と下ソルブ語に分かれているというから、大変である。モラビアとボヘミアの方言をあわせて共通の統一チェコ語ができたように、歴史的に二つの地域に分かれていたという事情をこえて統一したソルブ語を制定しておいた方が、将来の生き残りにはいいのだろうけれども、今となっては難しいことである。
ちなみに、このソルブ人のことを、チェコ語でスルプという。これは南スラブに属するセルビア人と同じである。かつてのチェコ人たちは、ソルブ人とセルビア人に何らかの共通性を感ていたのだろうか。
7月14日14時。
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