今回オロモウツに来てくださって、あれこれお世話になった方との雑談の中で、小学校、中学校のころの話をしていたら、不意にあのころ読んでいた本のことが思い出されて、一冊思い出すと二冊三冊と思い出し、内容は思い出せても題名や作者が思い出せない本もあり、懐かしさに震えてしまった。年を取ったものだ。
比較的本の多い家で育ったため、小さな子どものころからあれこれ本を読んできた。それが現在の活字中毒につながっていると言えば言えようが、さすがに絵本のことまでは覚えていない。小学校のときに定期購読していた学研の「科学」と「学習」のうち、「学習」の夏休みの付録だった分厚い物語集のようなものが、初めてのまとまった読書だったような記憶がある。毎年いろいろな作家のいろいろな作品を読むことができるのは、夏休みの喜びだった。この物語集のために書き下ろされたものも、既刊の本から採用されたものもあったようだが、悲しいのは具体的にどんな話を読んだか、まったく覚えていないことだ。
では、このころ読んだ子供向けの本で覚えているものは何かと言うと、灰谷健次郎と今江祥智の作品である。灰谷健次郎は、ドラマで『太陽の子』を見て感動した両親が、本を買って来たのか、それ以前から『兎の眼』を読んでいて、そこから『太陽の子』につながったのか、どっちだっただろうか。『太陽の子』ではフウちゃんが、子供たちの中ではなく、大人たちの中で生き生きとしている姿に、ものすごくあこがれた。現実には子供同士の付き合いでアップアップしていたからそんなことを感じたのかもしれない。そして『兎の眼』では、何よりも元船員のおじいちゃんが作る「シタビラメのムニエル」なる料理が、妙に美味しそうだったのを覚えている。インターネットのない時代、「シタビラメ」も「ムニエル」も自分の頭の中で想像するしかなく、限りなくイメージを膨らませてしまい、後年実際に実物を見て、なんだかがっかりしてしまったのであった。
今江祥智の作品は、小学校の図書館で最初に『優しさごっこ』を読んだのだったか、それとも夏休みに読むべき戦争文学の一冊として『ぼんぼん』に手を出したのだったか。いずれにしても図書館にあった今江祥智の作品は、大した数ではなかったけれども、すべて借り出して読破した。大学に入ってから、近所の図書館で再会して再読して、こんなのを子供に読ませていたのかと、かつての自分はこの世界を理解できていたのだろうかと頭を悩ませたが、子どものころに今江祥智の作品に出会えたのは幸せだったのだと思う。
戦争中の体験にしろ、親の離婚にしろ、おそらく当事者にとっては耐え難い二度と繰り返したくなどない体験なのであろうが、文学作品を通してしまうと、文学作品として読んでしまうと、それがかけがえのない貴重な体験のように感じられて、自分がごく普通の家庭で生活し、文学になどなりそうにない人生を送っていることで親を恨めしく思ってしまうというどうしようもない子供に育ってしまった。ぐれるなんてことにはならなかったが、文学なんてのはごくつぶしの道楽だというかつての評価はすごく正しいのだと今にして思う。そしてチェコなんぞに流れてきた自分の考え方の発端が、この時期にあることに気づいて愕然とする。
NHKの人形劇で見た記憶のある上野瞭の『ひげよ、さらば』もなかなか衝撃的な作品だった。人形劇が放送されていた当時は、本は読んでいないと思う。読みかけたとしても通読はしていないはずである。大学時代に今江祥智を再読し始めたころに、『ひげよ、さらば』も発見して、これはかつての自分には読めなかったはずだと感じたのを覚えている。勧善懲悪に終わらない物語は子供たちに読ませるには、残酷に過ぎ、途中で読むのをやめる子もいたのではないだろうか。人形劇をみて、本も子どものころに通読できたという人がいたら、心の底から尊敬する。
一時期離れた時期はあるが、児童文学というのは大人になってからも、我が読書の重要な一部であった。活字中毒者はジャンルは選ばないとは言え、自らすすんでそのジャンルの本を読む場合と、ジャンルに関係なく偶然その本を手にする場合があるのである。書店や図書館の人にとっては、子供向けの本を嬉々として読む変な大学生だったのだろうが。
小学校時代に偶然手にした本の中で、その後の読書傾向に影響を与えたものとしては、もう一つ、正確な名称は覚えていないが、子供向けにリライトされた立川文庫のようなもので、真田十勇士だの、鎮西為朝などの英雄的人物たちの活躍が描かれた古い本がある。どこの出版社で出した本なのか不思議なのだが、一時期夢中になって読んだ。当時読んだ中に真田物が多かったからか、池波正太郎を読むようになったのかもしれない。これは、高校時代にNHKで放送された『真田太平記』の影響の方が大きいか。いや、『真田太平記』を見ようと思ったきっかけが小学生のころの読書だったのだ。
それから、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロ、アルセーヌ・ルパンなどに、子供向けにリライトされたシリーズで出会ったのもこのころだった。外国発の児童文学、例えばケストナーなんかには、なぜか手を出していない『飛ぶ教室』にしても、『二人のロッテ』にしても、題名から、実際とはぜんぜん違う内容を想像して読むのを避けてしまったのだ。
この辺りまでの我が読書というのは、お話、物語として読んでいたような気がする。その後、作り物の小説であることを意識して、児童文学以外の作品を読むようになるのが、もちろん時期的に重なる部分もあるけれども、我が読書の幼年期の終わりということになるのだろう。
2月27日11時30分。
【このカテゴリーの最新記事】
- no image
- no image
- no image
- no image
- no image