とまれ、講談社から1988年に刊行された本書は、森雅裕がまだ売れっ子作家予備軍だったころの作品であることを象徴するように、雑誌掲載されたものをまとめた中篇小説集である。確か最初にこのシリーズの存在を知ったのは、大学入学早々に図書館で講談社の雑誌「小説現代」に、収録された作品の一篇が載っているのに気づいたときだった。郊外のキャンパスの図書館は、学生以外の一般市民も登録さえすれば使えるようになっていたので、一般受けのする小説誌なんかも置かれていたのである。
当時はまだ気になる作家の一人にすぎなかったので、バックナンバーを探したり単行本を探し回ったりということはしなかったし、時間がなかったこともあって雑誌掲載作品を読みもしなかった。今思えば残念なことである。森雅裕の作品で雑誌に掲載されてから単行本にまとめられた可能性のある小説は、他には中央公論社刊行の『さよならは2Bの鉛筆』ぐらいか。こちらは雑誌では見かけたことはないけど、『推理小説常習犯』で、中央公論社の小説誌に誤植を連発されたとぼやいているのは、この作品のこととしか思えない。
その後も、新潮社から出た『マンハッタン英雄未満』でも魔夜峰央が装丁を担当したり、『パタリロ』の文庫版の解説森雅裕が書いていたりする。その解説を読むためにだけ、『パタリロ』のその巻を買ったさ。手元にないから何巻だかは覚えていないんだけどさ。これが森雅裕のファンになってしまった人間のたどる道なのだよ。平凡社から出た『鐵のある風景』の初出が、広報誌の「月刊百科」だと知ったときにもバックナンバーを取り寄せようかとも思ったし。
本書では、『モーツァルトは子守唄を歌わない』のベートーベンとチェルーのコンビが再登場する。このあたりは、乱歩賞受賞作品の続編をという出版社の断りがたい要請だったのだろう。あとがきに「本書の刊行に消極的だった僕が勤労意欲を起こしたのは、ただただ装幀を引き受けてくださった魔夜峰央さんのおかげである」と書かれているのが、そのあたりの事情を物語っている。ここにもすでに講談社との関係が悪化しつつある徴候を読み取ることもできそうだ。
収録されている四編のうち、前半の二編は、ベートーベンに関わる個人的な事件だが、後半の二編は、国際情勢をめぐる陰謀にベートーベンが巻き込まれていくという話になっている。最初の「ピアニストを台所に入れるな」では、探偵ベートーベンの助手を務めるチェルニーが、半ば押しかけるように弟子になる様子が描かれ、二編目の「マリアの涙は何故、苦い」は、初編でチェルニーとともに登場した貴族の娘、ベートーベンの弟子で恋人でもあったジュリエッタの結婚にかかわる事件である。三編目「にぎわいの季節へ」では、ナポレオンが没落したあとのウィーン会議を背景に起こる騒動が、四編目「わが子に愛の夢を」では、その九年後のベートーベンの隠し子騒動が描かれる。
あとがきによれば、『モーツァルトは子守唄を歌わない』以上にフィクションだと割り切って書いたらしいので、史実よりも物語性の方が優先されている。歴史をヒントに書く小説というのはそんなもののはずなのだが、ベートーベンやモーツァルトのような音楽家をネタにした「時代小説」は、それまでほとんど存在しなかったせいか、あれこれ史実と違うとクレームをつけてくる人が絶えなかったようである。
日本を舞台にした時代小説であれば、史実にフィクションをどう混ぜていくかという部分が評価の対象になるのだけれども、史実と違う部分を違うとわかってたのしむものなのだが……。史実に基づいて書かれたものをいう歴史小説にだって、多少のフィクションはつき物なのだし、そんな重箱の隅をつつくようなことは言わなくてもよかろうに。ただ、作者の側もそんな批判に真面目に付き合うこともあるまいにとも思う。
真の森雅裕のファンであれば、いや普通の小説の読者でも、そんな細かいことは気にしないものである。二編目「マリアの涙は何故、苦い」の舞台となる教会が「ドゥカティ教会」というのを見れば、自分の好きなバイクメーカーの名前をつけたんだなと想像できるはずである。音楽好きでこの本を手に取った人には、ドゥカティ=イタリアのバイクメーカーというのは難しいのだろうか。
収録された作品の中で一番好みなのは、やはり最初の「ピアニストを台所に入れるな」だろう。冒頭の「ピアノの試合といっても、楽器を投げ合うわけではない」という人を食ったような文から、せんだんは双葉より青しを地でいくようなチェルニーの人を食った性格まで、さすが森雅裕と言いたくなる。『モーツァルトは子守唄を歌わない』を読んで、気に入ったら次に読むべき一冊である。
2017年11月26日25時。
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