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2018年07月03日

寛和三年二月の実資〈上〉(七月三日)





 二日は夢見が悪かったという理由で、外出をはばかっている。この日は藤原元卓を使者として藤原氏の氏神である春日社に奉幣している。同時に三月の春日祭の勅使に選ばれている源俊賢の下に、祭使の衣装として摺袴を贈っている。また、兼家の子である道兼が春日社への参詣に出ているが、出発前の供応が贅沢に過ぎたようである。中宮の使は停止したとあるから、この日は藤原氏全体で奉幣することになっていたのだろうか。

 三日の記事は、前日の道兼の春日社への出発の際の出来事に対する批判である。贅沢極まりないというのだが、実資の兄の懐平も出席している。そして、更にひどいのは、道兼宅で女性が急死したのを隠して、春日社に向かったことである。公式には出発したあとに急死したことになったようだけど。これで、今年の春日祭は穢れた状態で行われることになった。

 四日は、まず円融上皇の元に向かう。左大臣源雅信と右大将藤原済時が四月に行われる予定の法華薄八講について雑事を定めている。上皇の生母である藤原安子のために行うものである。実資は決められたことを書き記す役を務めている。

 五日は、休暇を終えて参内。中宮大夫でもある右大将済時も参内しており、中宮遵子の行啓に付き従う公卿などのことを定めたという。

 六日はまず頼忠の四条宮を訪れて、中宮遵子が引越しする準備をしている。遵子の父頼忠もやってきて、天皇、この場合には摂政の兼家だろうか、の対応について不満を述べている。実資も前例通りにしても、前例通りの反応が返ってこないのだからという理由で、天皇に慶賀を奏するのは、中宮のためにも頼忠自身のためにもならないと進言している。

 七日は中宮の引越しである。夜に入って中宮遵子の滞在する二条第に太政大臣頼忠をはじめ、中宮大夫済時などの公卿以下の官人が集まってくるが、実際の移動が始まったのは深夜とも言うべき、亥のときで、集まった人々には湯漬が供されたという。移動に際して車を使うか、輿を使うかで混乱しているが、これは車を予定して太皇大后宮の昌子内親王に借りたところ、主殿寮から輿を送ってきたためである。結局道理には合わないけれども輿を使うことになっている。そのせいで、あれこれ儀式に齟齬が発生しているが、急なことで、また深夜でもあるということで、そのままにしている。輿を東西どちらの門から入れて、どちらの門から出すなんてところまで決まっていたのである。二条第を出て四条宮までの移動の道筋、四条宮での儀式の様子も詳しく記される。実資は深更退出したというけれども、移動の開始がすでに亥の時であるので、実際に退出したのは朝に近い時間であったかもしれない。

 八日は参内して候宿しただけである。

 九日は早朝内裏を退出して円融上皇の元に出向く。しばらくして退出して二条第に向かいあれこれ確認したところ、ひどく破壊されていた。引越しが行われた前夜、中宮の御在所に泥棒が入り服などを盗み去ったらしい。この件もあってか、夕刻中宮の元に出向いている。

 十日は世情が穏やかでないというので、穢れを占わせた上で、鴨川のかわらで祓えを行っている。そのため、奉幣をしなかったというのだが対象となる神社は不明。五日の休暇を願い出ているのは、穢れのためであろうか。

 十一日は、高遠、公任とともに、宋から帰国した?「然が持ち帰った仏像や経典などを見に蓮台寺まで出かけている。最初に置かれた寺の名前は欠字があって不明。そこから蓮台寺に移動させた際の次第が細かく記されている。最初に七宝の塔があって中に仏舎利が納められているというのだが、輿に乗せて人々が担いだというから、塔の模型のようなものだったのだろうか。気になるのは雅楽寮が音楽を奉仕しているところである。
 その後夕方になって子供を清水寺に送っている。清水寺では、住僧の高信に子供のために芥子焼という修法を七日にわたって行わせている。

 十二日は右大臣為光の行った釈経の儀式に出向いている。実資は為光のことをあまり評価していなかったというか、嫌っていた印象があるので意外である。

 十三日は小野宮流の高遠、公任らとともに「金鼓を打」ちに出かけて、夜になって帰宅。この金鼓を打つというのがどういう意味を持つのかはよくわからない。この記事には書かれていないが、別の俊の記事では東山に出かけて金鼓を打ったことが記されていたはずである。

 十四日は、実資の実父斉敏の忌日でである。僧厳康に斎食をさせ、実頼が創建した東北院で法事を行っている。

 十五日は、参内した後、円融上皇のところで行われた御念仏に向かう。夜になって退出。
2018年7月3日0時16分。



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