この日は天皇の祖母に当たる藤原時姫に位が与えられている。時姫は摂政兼家の正室で天皇の生母の皇太后詮子の母である。その使いは本来四位の官人が務めるべきところ参らなかったので、五位の官人に役が回ったようである。また亡くなった大僧正の良源に慈慧という諡号が与えられ、使いを務めたのは少納言の源元忠だった。この段落の内容は、実資が直接かかわっていなかったからか、すべて伝聞の形で書かれている。
十七日は、前日候宿した内裏から退出し、夜になって室町の姉のところに出向いている。神仏に灯火をささげるためだったようだが、その理由については判然としない。
一?手半の如意輪観音を造っているがこれは、子供のためだろうか。一?手は手の親指と中指を広げたときの長さというから、誰の手の大きさを規準にしているのかはわからないけど、30センチから40センチぐらいの高さの像になるだろうか。
十九日は一日中雨。雨の中を参内すると天皇が凝華舎より清涼殿に遷御する。引越しにつきものの陰陽師による反閉を務めたのは安倍晴明である。遷御の際の出来事も書かれているが特に批判は加えていないので問題はなかったようである。遷御の後、夜に入ってから公卿を召してサイコロ遊びが行なわれている。臨時の叙位が行われてたのか三人の官人が叙されている。
廿日は、早朝内裏から退出するが夕方また参内して候宿。穀倉院の饗が行なわれたというが詳細は不明。公卿も三四人出席したようであるが、公卿たちが退出した後サイコロ遊びが行なわれている。実資も参加したのだろうか。
廿一日は、雨の降る中早朝退出。二条第の改築工事を始めている。これは中宮遵子が滞在中は手をつけられなかったものに手を出したということだろうか。垣を築き古井戸を掘り返している。亡くなった実資室の源惟正の娘の法事について、縁者と思われる源氏の二人と話し合いをしている。
廿二日は、藤原道兼と共に侍臣たちが金鼓を打ちに出かけている。実資も同行したのであろう。夜に入って帰宅したことが記される。
廿三日は摂政兼家のところに出向いている。右大臣以下の公卿が多数参入していたので、その理由を尋ねると、先日左右の近衛大将以下が集まったときに、今日参加者それぞれが一種類の肴を持ち寄って催す一種物と呼ばれる宴会を行なうことを約束していたらしい。それぞれが持ち寄った肴についても記されているがよくわからない。摂政も食事を提供して酒宴が始まり、音楽も奏された。こういうときの例で褒美が渡されるのだが、四位、五位の官人にまで疋絹が与えられたことに対して、実資は軽すぎるのではないかと疑問を呈している。
廿四日は、円融上皇の許に参入して夕方退出。右大臣以下の公卿たちが蓮台寺に出向いたことが伝聞の形で記される。右大臣が諷誦を修めたというが、?「然の持ち帰った仏像や経典などを見るためという面もあったのかもしれない。
廿五日は太政大臣頼忠のところで行なわれた御読経に参加。終わった後、兄懐平、従兄弟公任などとともに兄高遠の邸宅を訪問。ちょっとした酒宴が行なわれた後、歌を詠んだ。歌が苦手な実資も詠んだのだろうか。夜に入って解散。
この日は中宮の御竈神を四条宮に移したということも伝聞で書かれているが、以前滞在していた実資の二条第から移したのだろうか。また、三月に行われる石清水臨時祭の舞楽の練習が始まっている。
廿六日は。除目の際の間違いを修正する直物が行なわれている。一人二人の任官が行なわれたようである。
廿七日は、太政大臣頼忠に呼び出されたあと、参内して候宿。
廿八日は、太政大臣頼忠邸での御読経の発願に出席して、摂政兼家のところに出向く。兼家の話では天皇のご病気のために参内したということである。その後、室町の姉のところに寄ってから、二条第に向かい垣の工事の様子を見ている。
廿九日は参内して候宿。伝聞で摂政兼家が蓮台寺に出向いて?「然の持ち帰った仏像を見たことが記される。十八日の記事に諡号が贈られたことが記される良源大僧正の門弟たちが、お礼を申し上げるために参内している。この日は地震が起こったようである。また?「然の持ち帰った仏画や仏舎利の入った七宝で造られた小さな塔を、皇太后藤原詮子に見せたらしいことが伝聞の形で書かれている。
2018年7月3日23時40分
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