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2018年07月16日

寛和三年三月の実資〈後〉(七月十五日)




 最後に藤原安親の話として、上賀茂神社で発見された銭について、右大臣為光が天皇の仰せで占いを行わせたことが記される。銭を改鋳することの吉兆についても占わせ、先例を調べて勘文を提出させることにしたようである。

 十七日は参内して退出。



 十九日は記事なし。

 廿日は参内して候宿。石清水臨時祭が行われその儀式のさまはいつもと同じだったという。ただし、舞人の装束の色が違っていたとか。祭使の源正清が休暇の申請を出したけれども、祭使の役を免じられることはなかったという。

 廿一日は、早朝内裏を退出。申の時だから夜に入って二条第に向かい、陰陽師の安倍晴明に邪気を払うために反閉をさせている。引越しの準備である。

 廿二日は、三日の休暇を申請。

 廿三日は、ときどき小雨の降る中、円融上皇のもとに向かい、しばらくして退出。この日は、内裏で春の季御読経が始まったという。石清水臨時祭の祭使を務めた源正清の話では、祭祀が代理に戻ったのが、仁明天皇忌日に当たっていたので、天皇の御前に召されることがなかったという。

 廿四日は、蔵人所の下級職員である小舎人が使者としてやってきて物忌に籠るようにといわれているが、病気で休んでいてまだその病気が治っていないということを、小舎人を通じて申し上げている。

 廿五日は記事なし。

 廿六日は、内裏の春の季御読経の結願である。実資は頭中将藤原誠信の行いに間違いが多々あったと批判する。父為光と同様、実資からの評価は低かったようである。実資は刻限に参内した後、しばらくして退出、摂政兼家のもとに向かう。兼家は廿九日に奈良の春日大社に参ることになっていて、そのための舞楽の予行演習が行なわれたのである。この日の饗宴については右大臣の為光が準備したもので、夕方になって為光以下数人の公卿が参入している。実資自身は舞楽の練習が始まる前に退出している。伝聞で、雨が降ったために兼家の邸宅の東対の唐庇の間で舞が行なわれたということが記される。

 廿七日は記事なし。

 廿八日は、摂政兼家が春日社参詣に出発するので、実資も何度も命じられて参拝することにしている。ただ出発のところには出向かなかったようで、伝聞の形でそのときの儀式が春日祭使の出発の際のようだったということが記される。
 この日は雨が激しく風も強かったようで、実資は騎馬で先に奈良に向かい、兼家一行とは同行していない。実資は内蔵寮の所領である梨原庄に宿をとっているが、これは同行した兄の高遠が内蔵頭を務めているからであろうか。摂政兼家は暁方に佐保殿に到着したという。佐保殿は藤原北家の別邸で氏長者が春日大社に参詣する際の宿所として使われたところである。到着が遅くなったのは途中の宇治で饗応を受けたたからだとも言う。また、兼家は息子の中納言道兼を内裏に伺候させたという。不在中に問題が発生したさいに対応するための留守番ということだろうか。

 廿九日は、藤原在国の話として、摂政兼家が佐保殿について車を降りた後、すぐに神社を拝したという。降りたその場で遥拝したということだろうか。それが前例だというのだが、実資は聞いたことがないと記している。実資も午後になって佐保殿に向かい雨が激しく降る中行なわれた饗宴に出席。申の時に神社に向かい参拝の儀式が行なわれているが、終わった後、それまでの雨に加えて霙が降り、風雨もさらに強まった。その様子は物の怪の仕業に似ていたと実資は記している。兼家への批判というわけでもないのだろうが、吉兆とはとても言えそうにない。

 卅日は奈良から平安京への帰還である。朝早く卯の時に春日大社を車で出発して馬場に到着。その馬場での饗宴も含めて手配をしてくれたのは興福寺である。この日も雨が降り続いており、舞も雨の中行われている。実資は一度宿所にしていた内蔵寮の所領である梨原庄に戻ってから平安京に戻る。木幡川を下ったのか、木幡まで川を下ろうとしたのかよくわからないが、水が多すぎたため別の道を通って帰京。到着は午後になってからである。伝聞で源重信の宇治の別邸でもてなしを受けたことが書かれるが、これは兼家たちの一行で、実資は同行していなかったということだろう。
2018年7月15日23時44分。










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