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2018年09月30日

チェコ史の8 其の一(九月廿七日)





 その最初の8のつく年が、1918年で、チェコ側のマサリク大統領や、スロバキア側のシュテファーニクなどの努力の甲斐あってチェコスロバキアの独立が認められた年である。チェコスロバキアの独立に関しては民族自決の原則を主張したアメリカの大統領ウィルソンの支援が大きかったといわれる。そのため、ドイツ語でプレスブルク、ハンガリー語でポジョニと呼ばれハンガリーの首都だったこともある現在のスロバキアの首都ブラチスラバをウィルソンにちなんだ名前に改称しようという動きもあったらしい。
 一方、領土に関しては民族自決の原則に完全に基づいたとは言えず、一つは現在ウクライナ領となっているスロバキア東部からウクライナに楔のように伸びていたポトカルパツカー・ルスと呼ばれる地域が、チェコ人、スロバキア人の居住地域ではなかったにもかかわらずチェコスロバキアに組み込まれたことである。もう一つは、スロバキア側では歴史的にスロバキア全土がハンガリー領であったという事実は無視して、スロバキア人人口の割合の高い地域をチェコスロバキアに組み込んだのに対して、チェコ側では住民の民族構成よりも歴史的にチェコの王冠領に属していたかどうかを基準に、ドイツ人、ポーランド人の割合の高かった地域をもチェコスロバキアに組み込んだことである。


 南ではスロバキア南部のスロバキア人、ハンガリー人の混住地帯を巡ってハンガリーとの戦争が勃発している。これはハンガリーに誕生した新しい共和国の政権をソ連の支援を受けた左派勢力が獲得した結果で、国内の貧困と混乱を外征でごまかそうとして、ハンガリー系の住民の多い南スロバキアに攻め込んだらしい。ハンガリーもトランシルバニアをルーマニアに、クロアチアをユーゴスラビアに取られて、スロバキアも含めて歴史的な領土の多くを失って大変だったのだろうけど、チェコスロバキアにすれば迷惑な話でしかない。日本だと、左翼の連中が、右は軍国主義で左は平和主義的なイメージを作り出そうとしているけれども、大嘘である。歴史的に見れば左側の思想のほうが短絡的に武力行使に出るような印象も受ける。

 どちらも最終的にはチェコスロバキア軍がポーランド軍、ハンガリー軍を元の国境線の向こうに追い返すことに成功したらしいけれども、誕生したばかりの共和国にとって大きな負担になっただろうことは想像に難くない。そして、このときの領土を巡るいざこざも廿年後の、次の8の年の重大な出来事につながっていく。
 直接的に次の8の年の事件につながるのは、ボヘミア、モラビアの国境地帯、および都市部に居住していたドイツ系の住民の存在である。オーストリア議会に現在のチェコの領域で選出され議席を有していたドイツ系の議員たちは、チェコスロバキアの成立を認めておらず、独立後もドイツ系住民の多かったズデーテン地方を中心に四つの地域からなるドイツ=オーストリアという国を建てることを計画し、最終的にはドイツかオーストリアと合併することを計画していたらしい。実はオロモウツも、ドイツ系の住民の多い町として、ブルノとイフラバとともに、飛び地としてこのドイツ系の国に組み込まれることになっていたようである。いやあ、実現しなくてよかった。

 ところでチェコスロバキアの独立に寄与したものとして、第一次世界大戦中にオーストリア=ハンガリー軍を離れ連合国の側に立って参戦したチェコスロバキア軍団の存在があげられることが多い。特に東では、ソ連成立後に赤軍とシベリア各地で戦い、日本のシベリア出兵の口実にされたことで知られている。シベリアで活動したチェコスロバキア軍団の一部は、チェコスロバキア独立前のマサリク大統領の交渉もあって、ウラジオストックから日本にわたりアメリカを経て、ほとんど世界を一周する形で独立したチェコスロバキアに帰国している。
 言ってみれば、日本はチェコスロバキアとはすでに独立前後の時期から交流があったわけである。実際に公式の外交関係が結ばれたのは1920年のことで、再来年2020年は日本とチェコ(スロバキア)の外交関係樹立100周年を迎えるである。個人的にはチェコと日本でどんなイベントが行われるのか、東京オリンピックよりも期待しているところである。
2018年9月29日17時。













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