ブックバン 」という雑誌の記事を長めていたら、「 放射線を正しく怖がるために 」という記事が出てきた。著者は、あの悪名高きマイクロソフトの、日本法人の社長を務めていたことで知られる成毛眞氏で、物理学者の多田将氏の出版した「放射線について考えよう」という本の書評だった。
「ブックバン」というのは、「読書家のための本の総合情報サイト」だというのだが、書評が多く、しかも中途半端というか、もう一歩も二歩も踏み込めよといいたくなるようなものが多いので、あまり熱心な読者ではない。ただたまに大当たりのいい意味でとんでもない記事が読めるので、たまに覗いてしまうのである。最初にここで読んだのが昭和の文豪三人の子供たちの対談で、滅茶苦茶面白かったので、同じような読み応えのある記事を探して、記事一覧に目を通してしまうのである。
「放射線を正しく怖がるために」も珍しく読んだ甲斐があったと思えた書評で、もう少し詳しく書き込んでくれていればという恨みはあるものの、出典を見たら「週刊新潮」とあるから、字数制限の縛りがきついのだろう。少ない字数でと考えるとなかなかよくできた書評である。何より素晴らしいのは取り上げられた本を読みたくなってしまったところである。
その本の話に行く前に、少し脱線すると、どうも「ブックバン」に挙げられている書評は、新潮社の雑誌に載った書評を再利用したもののようである。字数制限の必要ない「ブックバン」向けに書いてもらったのを、雑誌に載せる用に短縮してもらうという手順を踏んで掲載してくれると、両方の読者にとってありがたいのだけど、新潮社も「読書家のための」と謳うわりには、本読みの心がわかってねえよなあ。大騒動を引き起こした挙句に、廃刊なんて最低な手段を選んだ「新潮45」の件もそうだけど、以前の新潮社って、もっとやることがまともじゃなかったかなあ。
話を戻そう。書評で取り上げられた多田氏の本は、ネット上に掲載したものをほぼそのまま書籍化したものだというので、ネット版の「 放射線について考えよう 」を探して読んでみた。全十章でかなり長いのだけど、一息に全部読んでしまった。放射線という難しいものをテーマに取り上げながらわかりやすく、もちろん正確に、そして面白く、読みやすい文章で書かれているのが素晴らしい。中学まで理科は得意だったけど、高校では物理を専攻しなかった人間にも理解できたから、中学レベルの理科の知識があれば、文系の人が読んでもなんとか理解できるはずである。
2011年の福島の原子力発電所の爆発が起こって以来、さまざまな書いた人の正気を疑うような記事を読まされ、それを信じる人がいるという事実に、さらにげんなりすることが多かったのだけど、この本を読んでその原因がわかった気がする。放射線と放射能の区別もつかないマスコミがでたらめを繰り返し垂れ流したことで、信じ込まされたというのが正しいようだ。テレビなどで大声手発言する自称専門家の責任も大きそうだけど。著者のような本物の専門家は事故の直後は、事故の処理で忙しくてマスコミで発言する余裕なんか全くなかったようだし。
だから、こんな日本の現状を見ると、政府が理系を強化するといって国立大学の文系を切り捨てて、理系に力を入れようとしているのは、無駄だとしか思えない。高校や大学の無償化で、お金の聖で進学をあきらめることがないようにしようというのと同じで、力を入れるべきは大学ではなく、小学校、中学校における理系教育である。ついでに国語教育にも力を入れる必要があろう。理系とはいっても、すべてが数式だけで成り立っているわけではないのだから、文章で説明された部分を読んで理解できるだけの国語力が必要になる。
その上で理系的な数字を読み解く能力を身につければ、マスコミの不正確な面白半分の報道を鵜呑みにしなくなるはずである。そんな国語力もあり、理系的な考えのできる高校生が増えていくことで、大学の理系の学生のレベルは自然と上がっていくと思うけどね。国語力が高ければ、本書の著者のように一般向けの啓蒙的な書物を出して、専門家の知識を還元することもできる。新書なんかの一般向けの本であっても、専門家が書いた本の中には、読みにくくて理解できないものもあるしさ。
例えば、チェコでは世界各地で地震が起こるとマグニチュードの大きさだけしか報道されないから、マグニチュードが大きければ揺れも大きく自信の被害も大きくなると考える傾向があるけれども、日本人ならそんなことはないはずだ。それは理科の授業で、地震そのものの大きさであるマグニチュードと、揺れの大きさで被害に直結する震度の違いを学んだからで、震度はマグニチュードだけでなく、震源からの距離や途中の地盤などにも左右されるなんて話を学んだからである。そして、学んだことを日本ではひんぱんに起こる地震を通じて、その報道を通じて実感として自分の知識にできているのである。
日本で、広島、長崎の悲劇を経て尚、無理をして原子力発電を導入することを決めた際に、原子力を利用することで否応なく発生する放射線、放射性物質についての正しい知識を与えるための教育も同時に導入しておくべきだったのだ。現在の日本の一般の人々の放射線、もしくは「放射能」に対する意識というのは、広島、長崎に起因する存在そのものが絶対的に恐ろしいというものと、原子力発電所推進派による日本の原子力発電所からは放射能は漏れないから絶対に安全だというプロパガンダによって形成されてきた。だから、少しでも「放射能」が漏れるととんでもない大事件のように大騒ぎされる。
もう一つの問題は、癌治療やX線などの医療の場で使われる放射線、温泉の効能にうたわれる放射線と、原子力発電所で発生する放射線が別物であるかのような、医療用はいい放射線で、発電所のは原子爆弾の者と同じ悪い放射線というよりは、悪い放射能というイメージでの報道が多かったことだろう。今思い返すと、医療用は放射線で、原子力発電は放射能なんて使い分けてなかったかなんて疑惑も感じるんだけど、正確なところは全く覚えていない。
原子力発電を推進した政府にとっては、反対派が放射線に対する正しい知識を持たないままに反対している状況のほうが好ましかったのだろうか。それが、我々、専門家以外の日本人が放射線について、あいまいにしか知らず、中途半端にしか知らないから発言も不正確なものになってしまう理由なのである。今の状況は、自民党政権にとっては自業自得としか言いようがない。
それはともかく、日本全国の小学校で、中学校でもいいけど、日本で原子力発電か開始されたころから、毎年一回でも子供たちに放射線量を計らせるような理科の授業をしていたら、普段の生活の中でも放射線にさらされていて、量が過大にならなければ何の問題もないことを実感として理解できる人が増えていたのだろうにと思う。本書を読んでなお、自分自身も実感としてわかっているわけではないし。
それに、かつての核実験が華やかだったころのことを考えると、ものすごく重要で面白いデータが取れたのではないかという気もする。原子力発電所の建設に際して地元の自治体に大量の金をばらまいて、あれこれ過剰な施設を建設したり、発電所に地元やちょっと離れた準地元の人たちを招いて、放射能は漏れないなんて「啓蒙活動」をしたりする予算があったのなら、高価だっただろうけど放射線量を計測できるカウンターを各学校に一つ配備するぐらいのことはできたんじゃないのか。自分が使ってみたかっただけだろといわれたら、その通りと答えるしかないけど。
以下次回。
2018年10月16日19時35分。
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