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2016年04月16日
一体何人? その二(四月十三日)
精神医学のフロイト、現象学のフッサール、音楽家のマーラー、文学者カフカ、遺伝の法則のメンデルなどなど、チェコに来るまではドイツ人だと思っていた人たちが、実は現在のチェコの出身であることを知った。しかしこの人たちは自分を何人だと意識していたのだろうか。例えば、チェコ人の父、オーストリア人の母から生まれ、パリでの生活も長かったヤラ・ツィムルマンも何人と決めがたいが、自らをチェコ人たと認識していたという。
フロイトとフッサールは、チェコとほとんど関係がないようだから、チェコ人だという意識はなかっただろう。マーラーは、ウィーンのドイツ人の中で疎外感を感じたりもしていたようだから、微妙なところか。カフカは、プラハに住んでプラハでドイツ語で作品を書いていたわけだし、チェコの人は、特にプラハの人は自分たちの作家だとみなしているわけだけれども、はやり本人の意識としてはユダヤ人だったのかな。
この点で、最近、気になるのが、高校の世界史で、三十年戦争のところで勉強したワレンシュタイン将軍である。ボヘミアの傭兵隊長とか何とか書かれていたのは覚えているし、ボヘミアが現在のチェコの西三分の二を占める領域であることはわかっているのだが、実感としてそれが意識できるようになったのはチェコに来てからである。
ワレンシュタインはボヘミアの小貴族の出身で、軍事的な成功を収めて軍内での地位を高めるとともに、婚姻を通じて貴族としての地位も向上させていったと言われる。そしてたどり着いたところが、フリードラントの公爵という地位である。フリードラントは、プラハから北東、ポーランドとの国境にも近い小さな町だが、公爵領の中心都市となったのは、フリードラントではなく、よりプラハに近いイチーンという町だった。
ワレンシュタインはイチーンの町の改築計画を立て、城館も自らの居館として改築するなど、イチーンの発展に大きく寄与した。半ば独立国と化していたフリードラント公爵領は、ワレンシュタインが西ボヘミアのヘプで暗殺された後、崩壊してしまい、イチーンの町の改築計画も完成を見ることはなかったが、イチーンの人たちにとっては郷土の偉人であるようだ。街の中心となる広場にも、城館にもワレンシュタイン広場、ワレンシュタイン城という名前がつけられており、城館の中に入っている地域博物館の展示においてもワレンシュタインは重要な役割を果たしているらしい。
では、ワレンシュタインはチェコ人だったのかどうかという点だが、なんとも答えの出せない問題である。以前も紹介した「もっとも偉大なチェコ人」に選ばれたカレル四世は、ワレンシュタインと同じくドイツ系の貴族家の出身だが、チェコ人として選ばれている。上位百人には、マリア・テレジア、ルドルフ二世など、一般にはドイツ人、もしくはオーストリア人だと考えられている人たちも入っているのに、ワレンシュタインの名はない。宗教戦争の時代に、ボヘミア出身でありながら、カトリック側に立って参戦したことが、忌避される理由になっているのだろうか。
ワレンシュタイン自身がどう考えていたかとなると、ちょっと想像のしようがない。フリードラント公爵領が半独立国だったといわれることを考えると、チェコ人でもドイツ人でもない第三の道を目指していたのではないかと思わなくもないが、それは今となっては知る由もない。ただ、当時の貴族に求められる素養として、領民の言葉を身につけるのは必須だったらしいので、ワレンシュタインもチェコ語はできたはずである。多くの領民が領主の言葉を学ぶよりも、数少ない領主一族が領民の言葉を学ぶほうが効率がいいという考えなのだろうか。カレル四世がドイツ系でありながらチェコ人としてみなされるのは、チェコの国家に貢献したからだけではなく、チェコ語ができたこともその理由のひとつになっているはずだ。
「人間は使える言葉の数だけ人間である」というチェコのことわざ(コメンスキーの言葉だと思っていたのだけど違うみたい)に則れば、チェコ語ができればチェコ人、ドイツ語ができればドイツ人ということでいいだろう。ことわざの解釈が正しいかどうかはわからないが、ワレンシュタインはチェコ人だった。いやチェコ人でもあったというのを結論にしておこう。
もう一人、気になるのが、ウィーンの音楽家一族シュトラウス家の誰かが功績を讃えるために行進曲を書いたラデツキー将軍である。典型的なチェコ語の地名を基にした形容詞が名字になっていることから、チェコ系の貴族であることは間違いない。「ラデツ」は、おそらく「フラデツ」の最初の「H」が落ちたものだろうから、この一族はフラデツ・クラーロベーに関係するに違いない(いや、違うかもしれないけど、断言しておく)。
この人も、本人の意識はともかく、チェコ人でいいのだろうけれど、最近ヤラ・ツィムルマンが書いた(ことになっている)戯曲『チェコの天国』をテレビでながら見していたら、コメンスキーや聖バーツラフなどで構成されるチェコの天国評議会に、ラデツキー将軍が登場して、オーストリアの天国の代表として振舞っていた。戯曲が書かれた(ことになっている)時代を反映して、チェコの天国は機能を停止して、ハプスブルク家の天国に吸収されるべきだというようなことを主張していたんだったかな。つまり、戯曲では、チェコ人でありながらオーストリアについた裏切りもの的な扱い方をされていたのである。
過去の人物に対する評価というのはなかなか難しいものがあって、当時の事情も何も知らない人間が、批判も評価もするべきではないのは重々承知の上で、ラデツキーもチェコ人であったと言っておく。だって、毎年オロモウツでラデツキーを記念した式典が行われているし、オロモウツがチェコ人ではない人物の式典を行うなんて考えたくもない。
4月14日18時。