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2016年04月28日
コメンスキー随想(四月廿五日)
日本にいたころ、コメンスキーと聞いて思い浮かべるのは、漫画家佐藤史生の描き出す宇宙進出後の人類の姿だった。たしか『やどり木』という作品だったと思うが、汎人知協会というのが出てきて、その協会が購入し移民した惑星が舞台となっていた。汎人知協会という言葉を見たときに、コメンスキーの汎知論、もしくはパンソフィアを思い浮かべて、チェコにつながっているなあという感想を持ったのである。佐藤史生が、コメンスキーを意識して、汎人知協会なんて言葉を使ったとは思えないけれども、あのころは、なんでもかんでも無理やりチェコにつなげて悦に入っていたのだ。
コメンスキーは、チェコの偉人ということになってはいるのだが、チェコで生活していてもコメンスキーの著作はおろか、名前に接することすらそれほど多くない。「チェコの偉人」のアンケートを使った番組を除けば、最近のニュースでコメンスキーの名前を聞いて覚えているのは、次の三つぐらいである。
一つ目は、テニス選手のペトラ・クビトバーが、ウィンブルドンで優勝したときに、出身地のフルネクという町の名誉市民に認定されたというニュースで、フルネクの名誉市民は、コメンスキーについで二人目だという形で名前が挙がっていた。コメンスキーがいつフルネクの名誉市民に認定されたのかは知らないが、生前ということはないだろう。ちなみにフルネクはオロモウツから東、オストラバに向かう途中にある町である。鉄道の幹線沿いにないので、行ったことはないけれども、山の上になかなか立派なお城があったはずだ。
二つ目は、チェコの義務教育で勉強する筆記体が難しすぎるので、簡単で書きやすい筆記体を導入しようとしているグループのニュースだった。チェコ語の筆記体は、英語の筆記体とは微妙に違っているが、慣れると英語のよりも書きやすいし、この程度を覚えるのが大変とか言うのなら、勉強なんかやめてしまったほうがましだと正直思う。ただ、癖のある筆記体で書かれた文字は読みにくいこともあるので、そこを解消したいというのであれば、消極的な賛成はできるけれども、癖のない書き方を教えるほうがはるかに甲斐ある仕事であろう。
このちょっとだけ手書き風のフォントとしか言いようのないものを、筆記体だというのも信じられないのだが、よく見たら、中学のときに活字体とかブロック体として習った手書き文字とほとんど変わらないじゃないか。こんなんで書いても書くスピードは上がらなそうである。さらに信じられないのが、この似非筆記体にコメンスキーの名前を付けて、 コメニア・スクリプト という名前で広めようとしていることだ。コメンスキーは絶対にこんな書き方はしていなかったと思うのだけど、いいのかね、こんな名前を付けてしまって。
三つ目は、プラハにあるコメンスキー大学が、いろいろ問題があって認可を取り消されるのではないかというニュースだ。チェコ、スロバキア関係者にとって、コメンスキー大学と言えば、スロバキアのブラチスラバにある大学のことなのだが、分離独立して別の国になったからか、プラハに設立された私立大学にコメンスキーの名前を付けることを教育省が許可してしまったのだ。その大学はアメリカの大学との協定があって協力関係を結んでいることを売り物に、チェコのレベルでは高い学費を取って学生を集めていたらしい。それが、教育省の監査で教員数が足りないなどの問題が発覚してしまったのだ。誰だ、こんないい加減な大学に、コメンスキーの名前を冠することを許したのは。
チェコの大学は、日本の大学と違って人名を冠しているところが多い。いや、一般に人名を冠した学校自体が多いのだ。オロモウツにある国立大学は、ビロード革命の後に歴史学者で民族の父とあだ名されることもあるフランティシェク・パラツキーの名前を取ってパラツキー大学と改名された。プラハの大学が、カレル四世によって創設されたことから、カレル大学と呼ばれることを知っている人も多いだろう。ブルノの大学は89年以前は、チェコの有名な生理学者であったプルキニェの名前を取っていたのだが、革命後南モラビア出身のチェコスロバキア初代大統領の名前から、マサリク大学と改名された。プルキニェの名前はチェコの大学から消えたのではなく、ウスティー・ナド・ラベムの大学に引き取られることになった。日本でも知られている遺伝学のメンデルは、ブルノにある農業大学の名前となっている。
それから、もう一つ重要なものがあった。毎年一回行われているチェコでもっともすぐれた先生に与えられる賞の名前が、「黄金のアーモス」なのだ。これが、ヤン・アーモス・コメンスキーのアーモスからとられていることは言うまでもない。ただ、この賞が単なる人気投票なのか、専門家の評価を経ての賞なのかは、確認していない。
昨年の今頃だっただろうか。オロモウツで日本とコメンスキーの関係について話を聞く機会があった。その話によると、コメンスキーと日本が出会ったのは、いや、日本人がコメンスキーと初めて出会ったのは、ロシアのサンクトペテルブルクでのことだったという。江戸時代に漂流してロシアに流れついた漁民がサンクトペテルブルクに連れてこられ、日本語の教師として仕事をする中で、コメンスキーの著作と出会い翻訳を試みたらしい。
しかし、この漂流民は、薩摩藩の漁師であったため、日本語訳は日本語訳でも、薩摩方言訳となっているため、今の日本人が読んでもさっぱりわからないそうだ。江戸時代の薩摩は隠密対策として、方言を強化していたからなあ。今でも鹿児島方言はわかりにくいのだから、当時の薩摩方言はなおさらであろう。それでも、ロシア語を一から身につけて、コメンスキーの著作を訳せるまでになったというのはすごいことである。
この漂流民は、コメンスキーの翻訳だけでなく、日本語の辞書も作ったという話なのだが、それで思い出したことがある。大学時代に鹿児島出身の後輩が、大学の歴史関係の授業のレポートで日ロ関係について調べていたら、薩摩の漁師がロシアに渡ったことがわかったと大騒ぎをしていたのだ。たしかその時に薩摩方言の辞書だったか教科書だったかを書いたらしいと言っていなかったか。当時は、「鹿児島の人間がロシアですよ。すごいでしょ、すごいでしょ」とか言われて、ちょっとうんざりして、ちゃんと聞いていなかったのだが、この手の日本人的愛郷心というのは、最近すごく理解できるようになってきた。それはともかく、当時は、チェコに来るなんて思ってもみなかったし、コメンスキーのコの字も知らなかったけど、実は意外と近いところにいたことに気づいて、なんだかうれしいような悔しいような不思議な気分になってしまった。
4月26日15時。