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2016年07月08日

ツィリルとメトデイ(七月五日)





 一方、考古学的な歴史は、ケルト人から始まる。ケルト人の一派のボイイ族が、現在のボヘミアの地に住んでいたらしい。そのボイイからボヘミアという地名が生まれたのだという。ケルト人たちはその後、西に移動していくわけだが、ボイイ人がどうなったのかについては、チェコの歴史では語られることはない。
 次に出てくるのが、西にフランク王国の成立していた時代に存在したといわれるサーモの国である。サーモというのは、一説によると本来フランクの商人で、その元にいろいろなスラブ系の部族が集まって、国というには緩やかな組織を作っていたらしい。今日のチェコだけでなく、オーストリアとドイツの一部にも領域が広がっていたようだが、詳しいことはわからない。

 そして、スラブ人の建てた最初の国として歴史に登場してくるのが大モラバと呼ばれる国で、名称の通り現在のモラビア地方を中心に、ボヘミアやスロバキアにまで広がっていた国でである。そのためチェコとスロバキアの間で、この大モラバの中心がチェコにあったのか、スロバキアにあったのかで論争になることもあるらしい。
 チェコ側で大モラバの中心地として比定されているのが、スロバーツコ地方のウヘルスケー・フラディシュテ周辺の地域である。遺跡としてはホドニーンの近くのミクルチツェというところにも大きなものがあるらしい。スロバキア側だとニトラに大モラバの大きな拠点があったと言われている。

 その大モラバは、そもそも異教の国だったのだが、九世紀の半ば過ぎにキリスト教を導入することになり、西方から圧力を加えてきていたフランク王国のキリスト教ではなく、東方のビザンチン帝国のキリスト教を選び、宣教師の派遣をコンスタンティノープルに依頼した。その結果、スラブ人の間にキリスト教を広めるために大モラバにやってきたのがツィリルとメトデイの兄弟であった。日本ではむしろキリルとメトディウスという名前のほうが有名かもしれない。
 この二人が、大モラバに到着したのが、本日七月五日だとみなされていることから、国の祝日となっている。キリスト教を広める拠点となったといわれるべレフラットの地には、大きな教会が建てられていて、前日の四日と五日には盛大な式典が行われるため、チェコ中からキリスト教徒たちが巡礼のために訪れる。毎年二万人とも三万人とも言われる人々が、モラビアの田舎の小さな村に押し寄せるのだから、準備は大変だろう。自家用車での来訪を制限するために、近くのスタレー・ムニェストの町の周囲を走るバイパスを閉鎖して駐車場として使い、鉄道で来た人も含めてバスで輸送する形になっているようだ。

 ツィリルは、ロシアなどで使われているキリル文字にその名前が残っているように、スラブ語を表記するための文字を開発し、聖書のスラブ語訳を進め、ミサなどの教会行事をスラブ語で行なうなどして、キリスト教の布教に努めたらしい。大モラバ内の政治状況の変化によって、当初計画されたほどのことはできなかったらしいが、スラブ人世界にキリスト教を広めることに成功したというだけでも、偉業である。
 それに、聖書のラテン語からの翻訳、現地語による教会行事の挙行と言うのは、西ヨーロッパでは、宗教改革の登場を待たねばならないのである。この事実は西ローマの、ひいてはゲルマン人世界のフランク王国のキリスト教、つまりローマカトリックの後進性を如実に表している。カトリックがその始まりから内包していた非寛容性、過度の自己正当化などの特色は、現在のEUにまで引き継がれているような気がしてならない。

 ちなみに、キリル文字は、ツィリルが作り出した文字そのものではないらしい。実際にツィリルが作り出した文字は、バルカン半島に多く写本の残っているグラゴール文字と呼ばれるもので、キリル文字はツィリルとは関係がないらしい。しかし、スラブ人に文字を与えたツィリルについての記憶から、キリル文字もツィリルの作ったものだと信じられていたという。そんな話を知ったのは、黒田龍之助師の著書『羊皮紙に眠る文字たち』に於いてであった。
 昔、ロシア語が必修だったチェコスロバキアではキリル文字、チェコ語で「アズブカ」を読めるのは当然だったらしいが、現在では読めない人のほうが多くなっているらしい。ソ連がキリル文字で書くと「CCCP」となるのは知っていたけど、読めるようになりたいとは思えない。
7月6日15時。


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