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2016年07月09日
ヤン・フスの日(七月六日)
ただでさえ少ないチェコの休日が、昨日のツィリルとメトデイ記念日と今日のフスの記念日と、夏休み期間中に二日もあることを、チェコの小中学生は不満に思わないのだろうか。夏休み自体が長すぎるほどに長いから、問題ないのかな。日本だと、宗教に直接関係する祝日が二日も存在することを、政教分離の原則に反するとか言って批判する人も出てきそうである。
ヤン・フスがキリスト教の公会議で異端とされたのは、イングランドのウィクリフの学説に影響を受けて、教会の腐敗、特にいわゆる免罪符の販売を強く批判し、ローマ教皇の権威に疑問を投げかけたことによる。アビニョン捕囚を経て、教会大分裂を起こしていた時代で、ただでさえ教皇の権威の下がっていたところに、身内からの批判に対する怒りは大きかったのだろうか。
ボヘミア王国に全盛期をもたらしたカレル四世の息子であるジクムントの主導で開催されたコンスタンツの公会議において、フスは長々と続いた審理の末に有罪の判決を受け、火刑に処された。遺骨や灰は、チェコのフス派の人々が聖遺骸として持ち帰ることができないように、市内を流れるライン川に投げ込まれたというから、憎まれたものである。その結果、今でもフス派の人々が、毎年巡礼としてコンスタンツを訪れるようになっているらしい。これがフスの死の直後からの伝統なのかはわからないけど。
一方、イングランドのウィクリフも、当時既に亡くなっていたが、フスの有罪判決を受けて、死後でありながら有罪とされ、その墓が暴かれ遺骸が火刑に処されたという。このあたりのカトリックの教会の非寛容性、残虐性にうんざりするのは私だけではあるまい。豊臣秀吉によってキリスト教が禁止された後、日本に来て捕まった修道士の中には、国外追放を拒否して、拷問されて死ぬことを、日本側に強く求めて殺されたものもいたという話だから、カトリックというのは嗜虐性も被虐性も兼ね備えた宗教だったのだ。
その後、チェコではフス派の反乱が起こり、国土は荒廃へと向かっていく。このあたりのフス派内部の分裂と対立、ローマ教皇や世俗権力である国王や貴族たちの対応などは、複雑怪奇で経過を時系列で追っているだけではなかなか理解できない。薩摩秀登氏の『プラハの異端者たち』は、名著だとは思うけれども、これ一冊だけで全貌を細かいところまで書ききるのは無理だったのだろう。読後に、大きな満足感と、もう少し細かくという一抹の不満が残ったのを覚えている。日本史における南北朝時代の観応の擾乱並に、いやそれ以上にややこしいのである。
このフス派の活動は、特に急進派のカトリック諸侯が派遣した十字軍などとの戦いは、共産主義の時代には、高く評価されていたらしい。持たざる無産階級の、持てる貴族階級への反乱とでも定義されていたのだろう。しかし、実際には略奪を目的に戦争を仕掛けたり、国外遠征をしたりするという十字軍側も顔負けの行動を繰り返し、血で血を洗うような内紛も起こしていたようだ。フス派の活動を描いたものとしては、その辺に目をつぶって制作されたであろう共産主義時代の映画の大作「ヤン・ジシカ」が存在するのだけど、これを見ても当時のことが理解できるようになるとも思えないので、まだ見ていない。画面が暗いのと長すぎるのとで見る気が起こらないというのもある。一体に長すぎるチェコの映画は面白くないし。
とまれ、このフスの死をきっかけに、繁栄を誇ったカレル四世のチェコ人の王国は、凋落の時期を迎える。多少の振幅はありながらも、全体的には、1918年にチェコスロバキアとして独立が達成されるまで、ドイツ化、再カトリック化の波にさらされることになるのである。
チェコが神聖ローマ帝国の枠内で、スラブ系の諸侯として独立性を保っていられた時代の終わりを告げる出来事が、ヤン・フスの死だったのだと偉そうにまとめておこう。
7月8日11時。