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2017年01月21日
スラブ叙事詩(正月十八日)
そして、2011年以前に「スラブ叙事詩」の現物を目の前で見たことがある人となると、よほどのチェコファンでムハファンだけで、その数はぐっと少なくなるに違いない。2011年以降はプラハで展示されているので、以前に比べれば、はるかに見に行きやすくなっている。今年は日本に貸し出されることになっているらしいので、これまでの何倍もの数の日本の人が目にすることになりそうだ。
クルムロフというと、チェスキー・クルムロフを思い浮かべる人が多いだろうけど、ブデヨビツェと同じでモラビアにもある。わざわざチェスキーというボヘミアの地名であることを示す形容詞がついているのには理由があるのだ。モラフスキー・クルムロフは、ブルノの南西、ブルノとズノイモの中間辺りにある町である。鉄道で45分ぐらいだっただろうか。ちなみにボヘミアとは違って、クルムロフの方が東側にある。
このモラフスキー・クルムロフの城館を使って展示されていたのが、ムハの「スラブ叙事詩」なのである。壁画といいたくなるようなサイズの大作が廿枚にも及ぶので、いくつかの部屋に分けて展示されていた。ムハのことにも、「スラブ叙事詩」にもたいした知識はなく、壮大な作品とそのテーマ性に圧倒されていたような記憶がある。これ見て、ムハのファンになったといってもいいかもしれない。ただ、思い出せないのが、何でクルムロフまで出かけることになったんだかで、ガイドブックで見たのか、お城があるらしいというので出かけての僥倖だったのか。ともかく駅から城館のある町までかなり離れていて、痛む足を引きずって往復したのだった。
では、「スラブ叙事詩」が、モラフスキー・クルムロフで展示されていた理由はというと、よくわからない。わかっているのは、1950年代の後半に、額縁から外されて巻き取られ、プラハのどこかの小学校か何かの倉庫に放り込まれていたこの作品を、モラフスキー・クルムロフの人たちが、引き取りに出かけ、修復作業が終わった1963年から城館での展示が始まったということだけである。
ビロード革命後、「スラブ叙事詩」のおかげでモラフスキー・クルムロフが観光客を集めていることに目をつけた強欲プラハが、本来はプラハのものなのだから返せと言い出したことから、延々と続く裁判が始まった。
ムハ自身は、「スラブ叙事詩」をプラハ市に寄贈すると言っていたらしいので、プラハ市のプラハの所有物であるという主張は間違いではない。ただムハはプラハ市に寄贈するに際して条件をつけており、その条件、「スラブ叙事詩」を展示することを目的とした建物を建ててその中に展示することというのは、満たされていないので寄贈の契約は無効だと主張する人たちもいるのである。
その反プラハの筆頭ともいえるのが、アルフォンスの孫に当たるアメリカ国籍のジョン・ムハ氏である。ムハ氏としては、ムハとの約束を守ろうという意志も見せず、戦災を避けるためと称して倉庫に放り込み、戦後も全く関心を寄せようとしなかったプラハ市が、今更所有権を主張するのがゆるせないらしく、裁判でプラハの所有を認める判決が出てプラハで展示されるようになってからも、プラハの態度を批判し続け、モラフスキー・クルムロフに戻すことを主張し続けている。
ムハの遺族からの批判に、プラハ市側は、ムハからの寄贈ではなく、ムハのパトロンだったアメリカ人の実業家からの寄贈だと言うようになっている。「スラブ叙事詩」の制作期間中のムハの生活を支えたのがその実業家で、その代償に所有権を得たというのかなんなのかよくわからないのだけど、画家本人ではなく、支援者からの寄贈というのは納得のいかないところである。しかも、実業家本人は、支援したからこれが自分のものだとは思えないとか何とかいう証言を残しているらしいし。
今回、冒頭にも書いた「スラブ叙事詩」のアジアツアーが原因となって、新たな裁判をムハ氏が起こしたらしい。当初の計画では、日本のあとは、最近チェコが媚を売りまくっている中国にも貸し出される予定だったから、作品の損傷を危惧するのは当然だろう。日本に行くのもあの高温多湿な夏のことを考えると、決して絵のためにいいとは言えまい。
個人的には、「スラブ叙事詩」をプラハで展示する意味はないと思う。画家本人との約束を守らなかったプラハ市は、作品への権利を失ったと考えていいはずだ。さらにモラフスキー・クルムロフが再発見していなかったら、いつまで倉庫のこやしとなっていたかわからないのである。そう考えると、プラハ市の予算でモラフスキー・クルムロフの城館の改修をして、「スラブ叙事詩」専用の展示会場とするのが一番いい。それが、プラハ市が画家のムハに対してできる唯一の謝罪、誠意の見せ方ということになろう。プラハからモラフスキー・クルムロフへの日帰りツアーを実施すれば、プラハの宿泊客もそうは減るまい。
ついでに言えば、金稼ぎのために、「スラブ叙事詩」をアジアに出稼ぎに行かせるのにも反対である。普通の絵画であれば、損傷を避ける梱包のしかたもあるのだろうが、直径50センチのロールに巻き取るのが絵に損傷を与えないという保証はない。次に巻き取るのは、モラフスキー・クルムロフに返還されるときにしほしいものだ。日本の絵画ファン、ムハファンには申し訳ないけれども、最近日本でもはやり始めたらしいモラビアのワインを味わうついでに、モラフスキー・クルムロフまで足を延ばしてもらうことにしよう。それだけの甲斐はあるはずである。
それに、「スラブ叙事詩」というからには、スラブ世界の辺境、ドイツ化も激しかったボヘミアのプラハよりは、スラブ系の最古の国家が成立したモラビアに置くのが正しいというものであろう。
1月19日23時30分。