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2017年07月18日
失われたチェコの領土3(七月十五日)
チェコをプシェミスル王朝が支配し、ポーランドをピアスト王朝が支配していた時代、シレジアは両国の王権がぶつかり合う場であった。ポーランド王が、ボヘミアで族滅された一族の生き残りを迎え入れたり、ボヘミア王を捕らえてその目をつぶして送り返したり、逆にボヘミア王がポーランド王を兼ねたりするという両国の争いに、中間に位置するシレジアも巻き込まれていったのである。
プシェミスル家の時代にも、分家をオパバ地方の領主として封ずるなど、ボヘミア王によるシレジアの領有は徐々に進められていたのだが、シレジア全域を獲得してチェコの王冠領につけ加えたのはまたしてもルクセンブルク家のカレル四世であった。カレル四世は、1353年に三人目の王妃アナ・スビードニツカーとの婚姻によってシレジア全土を継承した。
カレル四世の没後、息子の世代になるとチェコの王冠領は、フス派の宗教戦争に翻弄され、本体のボヘミア王位の継承さえ混乱していく。ボヘミア王位が空位になったこともあるし、ハンガリーから出てきたマティアーシュ・コルビーンがカトリック系の諸侯を集めてオロモウツでボヘミア王に選出された結果、ボヘミア王が二人存在するという異常事態も発生している。このとき、ポデブラディのイジーの後を継いでボヘミア王に選出されたのはヤゲウォ家のポーランド王であった。
カトリックの勢力の強かったシレジアは、フス派の影響をあまり受けることなく、この分裂時代には一貫してモラビア、ラウジッツとともにハンガリー王の側に立っていたという。つまり、この時期チェコの王冠領は、ボヘミアとそれ以外の領域で完全に二分されていたのである。その後、ドイツの宗教改革を受けてのプロテスタント化の波を経て、チェコの王冠領がシレジアを含めて再び一体化するのは、17世紀半ばの三十年戦争終結後のことであった。
三十年戦争の終結後、シレジア全体はハプスブルク家の支配下に入り、一度はプロテスタント化したシレジアの再カトリック化が進められるわけであるが、北方で勢力を増すホーエンツォレルン家のプロシアの圧力が大きくなり、ドイツ化の進んだシレジアでもオーストリアよりもプロシアに近づこうとする勢力が増えていく。
プロシアのシレジア獲得のための努力は、1740年にオーストリア継承戦争として現れる。マリア・テレジアによる全ハプスブルク領の相続に異を唱えて引き起こされたこの戦争は、8年にわたって続いたが、オスマントルコとの戦いで弱体化していたハプスブルク家は、シレジアの大部分を失うことになった。その後、マリア・テレジアは、失われたシレジアの回復を目指して、プロシアと七年戦争を戦うが、目標を達成することなく1763年のフベルトゥスブルクの和約で、シレジアの大部分がプロシア領であることが確定した。これによって、このときマリア・テレジアの手に残された一部分以外のシレジアはチェコの王冠領から失われたのである。
チェコに残されたシレジアでは、チェコ人、ドイツ人、ポーランド人が民族の違いを超えて問題なく生活していたのだが、19世紀に入って所謂民族の覚醒の時代に入って、各民族の民族意識の高まりとともに、民族間の対立が強まった。20世紀に入ってチェコ人とポーランド人の対立は、第一次世界大戦後にチェシーン地方の領有を巡っていわゆる七日間戦争を引き起こす。その結果として、本来川を挟んでひとつの町であったチェシーンが、チェコスロバキア領とポーランド領に分割されることになる。このシレジアの領土を巡るポーランドとチェコスロバキアの対立が完全に解決されたのは、第二次世界大戦後の1958年のことであったという。
このボヘミア王の王冠に周辺のモラビアやシレジアなどの爵位を結びつけて、チェコの王冠領という一つの領邦のようにしてしまうというのは、ルクセンブルク家のカレル四世によって、導入され活用されたものである。だから、それ以前のプシェミスル家の王や大モラバの時代に勢力を拡大して一時的に領有していた地域は含まれない。またカレル四世以後に追加された領域も存在しない。これもカレル四世が、チェコ史上で最大最高の君主として尊敬され続ける理由の一つになっているのだろう。
7月15日23時。