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2018年07月11日
政治家と学歴2(七月十日)
疑問なのは、大学で「首席卒業」なんてのが本当にあり得るのだろうかということである。中学、高校までなら、高校だと文系と理系に分かれるから完全に同じテストにはならないけれども、定期テストの結果で常に学内一位を保った人を首席卒業と言ってもおかしくはないような気はする。高校三年生の最後の定期テストだけをもとにすると、大学受験の関係で普段とは違う結果にもなりそうだけど。
しかし、大学の場合には比較的自由なカリキュラムで、必修の科目はあるにしても個人個人で履修科目に大きな差がある。同じ科目名でも担当の教員によって難易度に大きな差があることも珍しくはない。それに、エジプトの大学もヨーロッパ的だという前提のもとに考えれば、ヨーロッパの大学では、ABCの評価の出る科目はそれほど多くなく、単に合格、不合格の区別しかしない科目のほうが多い。そんな状況で何を基準にして比較した結果、首席だの次席だの言えるのだろうか。
卒業試験や卒業論文を基準にするにしても、論文の出来を点数化して順位をつけるなんて無駄なことをする大学があるとは思えない。学生の格卒業論文はともかく、本来論文の評価なんてものは発表されてすぐに固まるものではない。卒業試験にしても、こちらは口答試験だから、ABCなんて成績はつけても、100点満点で点数化することはない。これで序列を作るのも面倒な話である。
成績を比べることで序列を比較的作りやすいケースを考えるなら、学部、学科、専攻、それに所属する研究室まで同じだった場合である。これなら、同期の人数もそれほど多くなく履修した科目にも大差はないだろうし、卒業試験の結果、卒業論文の比較もしやすいから、数値化しなくても序列化できなくはない。ただこのレベルで一番だったというのを、何とか大学首席卒業だなんて言えるのか。そもそも、専攻も学科も学部も異なっている学生たちをひっくるめて、何とか大学首席卒業というのが無茶な話なのである。
それに、日本と違って同期で入学した学生の多くが同時に卒業するわけでもない。チェコだと6月、9月、1月と年に三回卒業試験を受けられ、卒業式は卒業する学生が一定数たまり次第順次行われている。そうすると、同期入学の中で一番最初に卒業したことを首席と言うのは可能であるが、複数人になる可能性も高いし、卒業が早かったことが必ずしも優秀であったことを意味するわけでもない。これでは首席卒業という言葉から想像するものとは大きく隔たってしまう。
ということで、耳ざわりは非常にいいし、書かれているのを目にするとすげえと思ってしまいそうになるけれども、「大学首席卒業」というのは、最初から眉に唾付けるというか、真に受けたりはできない。もしかしたらここに書いたことは大間違いで、各大学で毎年首席卒業というのを認定しているのかもしれないが、本当に優秀な人はそんなことを声高に自慢したりはしないものである。だから、何とか大学首席卒業なんてことを自慢げに著書に記したり、自らインタビューで答えたりする人よりも、著者略歴に「怪奇大学で怠け学を専攻した」なんてことを書いてしまう作家赤城毅のほうを尊敬してしまう。
それにしても、建前だけでも過度に学歴を尊重する社会を批判しているはずのマスコミが、真偽のはっきりしない学歴に振り回されてきた感があるのは滑稽である。憶測だとか知人の誰それの証言なんかではなく、エジプトまで出向いて大学に直接取材するようなことは期待できないのかねえ。それこそ小池氏の卒業論文を閲覧して本当に卒業に値するのかどうか調査するのも一つの手だと思うのだけど。
2018年7月10日23時55分。