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2019年10月26日
もったいない記事(十月廿四日)
酔っ払いながらゴール 」という記事で、以前このブログでもちょっと触れたことのあるチェコスロバキアの不世出のストライカー、ヨゼフ・ビツァンを取り上げたもの。ビツァンを選んだ目の付け所は素晴らしいし、内容も悪くない。
悪くないのだけど、ところどころにチェコを知っている人なら、思わず待ていと言ってしまうような不正確な記載があって、非常にもったいない記事になってしまっている。この記事の著者は、サッカー関係のライターの中では知性派だと思っていたのだけど……。この著者にしてこれということは、他のライターのチェコ、スロバキア関係の記事が読めないわけである。
チェコ語読みすればビツァンとなるべき名字を、ビカンと書いているのは、オーストリアではそう読む可能性があるので許そう。最初に「ティ・ボレ」と言いそうになったのは、2ページ目の「ボヘミア人の父、チェコ人の母」という記述である。チェコ語における日本語の「チェコ」に当たる言葉が意味するものは、二つあって、一つは日本語でボヘミアと呼ばれるチェコの西半分、もう一つはチェコ全体である。つまり「ボヘミア人の父、チェコ人の母」というのは、二人ともチェコ人だったということになる。ボヘミア人という言葉を使うのは、チェコ国内の他の地域の人をモラビア人、シレジア人と呼び分ける場合だけである。
ついでにその上の「愛称はペピ」にも説明がほしい。これは本名のヨゼフから作られる呼び名で、普通は「ペパ」となり呼びかけの時には「ペポ」という形になるのだが、話し言葉では「ペピ」という形が使われることもある。もしくは「ペパ」から作られる指小形の「ペピーク」「ペピーノ」の省略形だと考えてもよさそうだ。名前から作られたもので、見た目とか動作の癖なんかからつくられる愛称とは違うのである。
1937年にスラビアに移籍した事情は、3ページ目に「ナチスへの協力を拒否して」と書かれているが、この時点ではまだナチスによるオーストリア併合は行なわれていないから、「協力を拒否し」たのは、スラビアに移籍後、1938年のミュンヘン協定とその後のナチスによるボヘミア・モラビア保護領の設置の後のことのはずである。1937年にはすでに予想されていたナチスのオーストリア併合を避けてオーストリアを離れたというのなら正しいだろうけど。
実は、ビツァンには、ヒトラーから直々にドイツ代表になるように求められて、自分はチェコ人だと言って断ったという伝説がある。これも現在のチェコの大部分が保護領としてナチスの支配下に入った1939年以後のことだろう。オリンピックのマラソンで優勝した最初の日本選手が朝鮮半島の人だったというのを考えれば、保護領のビツァンがドイツ代表になってもおかしくはなかったはずだ。それ以前はドイツ代表に呼ばれる言われはない。
ドイツ代表を断ったビツァンは、当時のボヘミア・モラビア保護領代表チームで活動することになるのだが、保護領代表では対外試合の数は増えず、選手としての全盛期をこの時代に過ごしたことが、外国チームとの対戦が少なく、実力に比して、国外ではあまり知られていない理由の一つになっているようである。
一番問題なのは、3ページ目の「クラローヴァ」というチーム名である。チームのあった町の名前だったとしても、チーム名だったとしても、チェコスロバキアに存在したチームの名前ではありえない。恐らく「フラデツ・クラーロベー」を間違えて「クラローヴァ」としてしまったのだろうけど、せっかくいい記事を書いているのだから、もうちょっと正確な調査をするなり、まともなアドバイザーを雇えよと思ってしまった。編集部の責任と言ってもいいけど、サッカー雑誌の編集にチェコのサッカーチームの名前を知っている人なんていないだろうし。日本でも広島で活躍したチェルニーのいたチームで、今もその息子のチェルニーが頑張っているんだけどね。
とまれ、このくだり、共産党政権がビツァンを目の敵にしていじめていたように読めてしまうが、これも正確には違う。迫害の対象になっていたのは、スラビア・プラハというチームであって、ビツァンがチェコの東の果て、オストラバのビートコビツェのチームに移籍させられたのも、ビツァンをプラハから追放するよりは、スラビアの弱体化を図ったというのが正しそうだ。ビートコビツェで2シーズンプレーした後、フラデツ・クラーロベーに移籍したのである。
共産党政権は、敵を作ることで国民の一体感を作り出そうとしていたらしいが、サッカーチームの中では、スラビアが「階級の敵」として選ばれ、特にチェコスロバキアでスターリニズムによる支配が行われていた1960年代の初めぐらいまでは、いろいろな形での嫌がらせを受け、この間何度か2部降格の憂き目を見ている。スラビアがディナモに改称されていたのもそんな嫌がらせの一環であり、スターリニズムから解放された60年代には再びスラビアに改称することが認められている。ちなみに旧共産圏でディナモと名のつくチームは、秘密警察とつながりがあったものが多いらしいから、なかなか皮肉な名づけである。
それに、ビツァンがサッカーだけでなく別の仕事を持っていたというのも、資産を没収されたというのも、当時の共産党体制の下ではごく普通のことであって、ことさらにビツァンが迫害されていたと言う理由にはならない。本当に迫害されていたら、おそらく昨日書いたハンケやダウチークのように亡命を余儀なくされていたはずだ。共産主義では、原則として、もしくは建前上は、すべての資産を国有化して、国民全体で共有していたのだし、スポーツ選手はステートアマと呼ばれる存在で、実質的にはプロとしてスポーツで給料をもらっていながら、書類上は国営企業の社員として登録され仕事をして給料をもらっていることになっていたのである。でなきゃオリンピックに出られなかった時代なのである。
誰かが同時のことを回想して、毎日サッカーの練習をして、給料日にだけ会社に行けばよかったなんて言っていたような気もする。ただ、実際にどのぐらい仕事をさせされるかは、名目上の雇用主である国営企業と、実質上の雇用主であるクラブの話し合いで決まったらしいから、スラビアの選手たちは他のチームの選手たちより働かされていたかもしれない。
知る人ぞ知る存在でしかないビツァンを取り上げて、知られざるエピソードを紹介するすごくいい記事なのに、時代背景とか社会情勢、地理的な情報についての部分がぼろぼろで、酔っぱらったままプレーしたという話も、どこまで本当なのかと疑問を持ってしまう。繰り返すが、非常にもったいない話である。まあ、チェコは審判が試合前に酒飲んで出てくるような国だから、ビツァンが酔っぱらってプレーしたというのもあり得る話だとは思う。同時に、絶対にビツァンだけではないという確信も持ってしまうけどね。
2019年10月25日17時。