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2019年11月26日

お蔵入り映画の日1(十一月廿四日)




 お蔵入りになる理由はいろいろあるが、一番多いのは監督、出演者に問題があるという事例だろうか。特に監督や主役級の俳優が亡命した場合には、問答無用で放送禁止にされていたらしい。「トルハーク」がその素晴らしさのわりに見たことがないというチェコ人が多いのも、重要な役を演じたマトゥシュカが亡命したため、ビロード革命まではテレビで放映されなかったからである。

 もちろん、内容に問題があってお蔵入りになる映画もないわけではないが、チェコスロバキアの場合にも戦前の日本と同様、脚本の時点で検閲が入り、撮影中も共産党の人間が監視役として送り込まれていたから、完成した後で上映禁止になった映画はそれほど多くないはずである。ただし、例外がある。
 チェコスロバキアにおけるスターリニズムが終焉を迎えた1960年代も後半に入ると、「プラハの春」につながる自由化の動きが映画界にも波及し、映画の脚本に関しても検閲があってないようなものになる。その結果、この時代に制作された映画の中には、内容を問題にされて上映禁止、放送禁止にされたものもいくつかある。
 中には撮影に入った時点では、検閲が緩かったのに、完成したときには正常化が始まっていたために、そのままお蔵入りしたものもあるし、外国の映画祭には出品されたものの、国内では日の目を見なかったものもある。外国での評価の高いチェコスロバキア映画における「ノバー・ブルナ(新しい波)」に属する作品は、ほとんどが一時的な自由化、規制緩和の中で生まれたものなのだ。

 今日、廿四日が、ビロード革命のさなかに検閲が廃止された日なのかどうかは知らないが、チェコテレビでは、「検閲の終わった日」と銘打って、朝から夜中まで放送禁止にされた映画を、ところどころドキュメントなんかを挟みながら、放送し続けた。全部見たわけではないけど、どんなのが放送されたか紹介しておこう。


 朝九時から、このイベントの最初の作品として放送されたのは、日本でも特に女性の間にファンが多いらしい「Sedmikrásky(ひなぎく)」である。この作品が制作され公開されたのは1966年で「プラハの春」の自由化の走りともいうべきものなのだが、1967年の時点で、国会の審議で取り上げられ、上映禁止を求められている。このときは完全な上映禁止には至らなかったが、配給先やテレビでの放送などが大きく制限されることになった。
 70年代に入ると、監督のヒティロバーがテレビでの仕事に関して、共産党体制ともめ、六年もの間テレビ、映画業界での仕事を禁じられている。これが、この「ひなぎく」を最終的にお蔵入りにしたと見ていいだろう。その後、ヒティロバーは、秘密警察からの圧力を受けながらも最後まで協力を拒否し、憲章77に反対するアンチ憲章への署名も拒否した。個人的には、「ひなぎく」という作品よりも、ヒティロバー本人に対する賞賛の気持ちのほうが大きい。お近づきになりたいとは思わんけどさ。

ひなぎく [DVD]





 二つ目の作品は、「P?ípad pro za?ínajícího kata」。あえて訳せば、「新人首切り役人の事件」とか、「首切り役人の仕事始め」なんてことになるのかもしれないけど、実はこれスイフトの『ガリバー旅行記』をもじったものらしい。原作にあたるものが風刺的な作品だから、映画も当然風刺にあふれていたのが共産党政権に嫌われたのだろう。
 作品が完成したのは、「プラハの春」が終結して正常化に向かいつつあった1969年。何度かの上映を経て1970年には、バランドフの配給作品から外されお蔵入りすることになる。その一因としては、監督のユラーチェクが、ソ連軍によるチェコスロバキア侵攻に反対する姿勢を撤回しなかったため、務めていたバランドフ映画製作所を解雇されたことが考えられる。
 またユラーチェクは、後に憲章77に署名しているが、映画監督で署名した人はほとんどいないはずである。そのせいでチェコスロバキア国内では仕事ができなくなり、仕事を求めて西ドイツに出国したらしい。その後帰国しているから、亡命ではないようだが、仕事を求めて西側に出られたというのも不思議な話である。一般の人が亡命しようとすると、殺してでも阻止しようとしたくせに、有名人で体制と強調できそうにない人の場合には、亡命しろと言わんばかりの対応を取っていたのが、当時の共産党政権なのだ。
 ユラーチェクは、1989年の5月に亡くなっているから、ビロード革命後にこの作品が再度上映されたり、テレビで放送されたりするのは残念ながら見ることができなかったようだ。

ガリバー旅行記 (角川文庫)




 三つ目も1969年に完成した「Smute?ný slavnost(葬祭)」。強制的に移住させられた元パルチザンの農民を描いた作品は、完成した時点で内容に問題があるということで、お蔵入りになったようだ。元パルチザンが共産党員として活躍するという話なら、問題なかったのだろうけど、共産党ともめて生まれた村から強制的に移住させられ、亡くなった後も、生家のある村で葬儀をおこなったり墓に入れたりするのも拒否された男を描く作品だというから、これは共産党政権には認められんよなあ。
 監督のズデネク・シロビーは、その後も監督として仕事を続けているが、一番有名な作品は、ビロード革命後、チェコスロバキアの分離直前の1992年に制作された「?erní baroni(黒い男爵たち)」であろう。これはビロード革命後に企画され撮影が始まった最初の映画の一つで、共産党政権初期に存在したPTPと呼ばれる軍の部隊を描いた作品である。PTPというのは、出自や職業、思想性などの理由で、いわゆる階級の敵に認定された人たちを集めて強制労働に従事させたものだが、表面上は軍の一部隊の体裁をとっていた。
 この作品については黒田龍之助師の『チェコ語の隙間』に詳しい。ただし登場人物のスロバキア語への考察がなされているため、チェコではなくスロバキアの部分に収録されている。

 長くなったので、残りはまた明日。
2019年11月25日20時。



チェコ語の隙間—東欧のいろんなことばの話













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