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2019年11月30日
「桜を見る会?」(十一月廿八日)
今のままでは、有権者に、批判するのが存在価値である共産党と同一視されてしまうだけである。政権批判に関しては共産党のほうが年季が入っている分、旧民主党勢力よりも的確だし説得力もあると考えると、共産党以下の存在になってしまいそうである。民主党の成れの果てと呼ばれるのもむべなるかなの迷走ぶりに見える。
この件で、安倍首相を弁護する気はない。首相が政治を私物化しているのは、すくなくとも私物化している部分があるのは確かだろう。問題は私物化しない政治家が存在するとは思えないことで、仮に安倍首相と野党の政治家の間に違いがあるとすれば、それは私物化しているか、していないかという根本的な違いではなく、どの程度という量の差、質の差でしかない。だから、どんなに批判をしても、目糞鼻糞のののしり合いの域を出ないのである。
こういう基礎的な事実があるから、そのあとの単なる疑惑での辞任要求にも説得力がないわけでもなかったのである。それでもANOとバビシュ氏への支持が下がらないのは、既存の政党の政治家がバビシュ氏と同じようなことを繰り返してきたことを有権者が知っているからに他ならない。日本の野党も有権者に同じように見なされているのだろう。
旧民主党は自民党のひどさにつけ込むことに成功して政権を獲得したものの、実務能力のなさが露呈して政権を失うことになった。有権者としては、同じ腐っているなら、批判するだけで現実的な実務能力のない民主党より、自民党の方が多少はましだと判断しているのだろう。そうなると本気で政権獲得を目指すのなら、実務的な政権運理能力があることを有権者に示さなければならないはずだ。そして、それは些細な疑惑を針小棒大的に拡大して批判することでは達成できない。今のままでは、共産党を除く左翼が消えてしまうということにもなりかねない。
左翼系の野党がするべきことは、安倍首相の桜を見る会と、民主党時代の桜を見る会を比較して、民主党時代の方がましだったと主張することではない。そんなことをしたって、水掛け論に終わるのは目に見えている。数の多寡も、どんな人が呼ばれたかも本質的な違いならないし、批判しようと思えば、どうにでも批判できるものである。
そんな不毛なことをする暇があるなら、左翼の好きそうな言葉でいうと、建設的なことをしないと意味がない。チェコ語で「ブドバテルスキー」という形容詞があることを知ったとき、建設的な議論なんていうときの「建設的」という言葉は、実は共産党政権化の東側で使われていた言葉が左翼によって翻訳されて日本語でも使われるようになったのではないかと思いついたのだけどどうだろう。
話を戻そう。桜を見る会に関して建設的な対応というと、吉田首相が始めたときの経緯から、初回から今年の会にいたるまでの招待された人や、その数などを調査して、政府が主催する会として、問題がないかどうか分析した上で、今後どうするべきかを検討することだろう。左翼側独自の提言をまとめてもいいし、自民党に共同であるべき桜を見る会について話し合うことを提案してもいいだろう。それができれば、有権者も多少は左翼の野党を見直すと思うのだけど。
左翼っての、右翼以上に、自分たちに甘いところがあって、目的は手段を正当化するなんて論拠で、正しい目的を持つ自分たちの行為は棚に上げて、間違った目的を持つ政敵の行為はぼろくそに批判する。それを改めて、民主党政権時代にやったことの反省と、これも左翼が好きな総括をする必要もあろう。桜を見る会なんて例の事業仕分けの対象になって、廃止なり縮小なりされていてもおかしくないのに、どうして継続されたのかというのも知りたいところである。
今の安倍政権がひどいというのは確かだろう。ただ、野党を見ていると、政権交代が起こったからといってマシになるとも言い切れないのが日本の一番の問題だと言ってもいい。チェコのバビシュ政権と状況は非常に似ている。野党よりはマシという一点で、与党の支持が下がらないのである。政権交代が起こるかかどうかはともかくとして、左翼が立ち直らない限り日本の政治状況がよくなることはありえない。個人的には、リベラルという言葉使うのをやめるべきだと思う。日よってそんな言葉使うから、共産党までリベラルだという意味不明な言説までが登場して、一般の有権者だけでなく支持者まで混乱させているのだから。
まとまりがつかないけど、今日の戯言はここまで。
2019年11月29日23時30分。