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2019年12月28日

永延二年二月の実資(十二月廿五日)





 三日の出来事は『大日本史料』には立項されていないが、『小右記』によれば円融上皇のところで、歌舞のことが行われている。円融寺の五重塔の供養で奉納するための練習だったかという。左大臣源雅信以下、藤原公季、安親などが参入している。実資は上皇の許での儀式が終わると内裏に戻って候宿している。

 四日は、『小右記』の記事は残っていないが、『日本紀略』に祈年祭と大原野祭が行われたことが記される。祈年祭は毎年二月四日に宮中で行なわれた国家の安寧と穀物の豊作を願った祭り。春の大原野祭は二月の最初の卯の日に行われていた。

 五日は『大日本史料』も『小右記』の記事を引いているが、兵庫寮の倉に放火して盗みを働いた犯人が逮捕され、摂政兼家の命令で追捕にあたった衛門府の官人が褒美をもらっている。ちなみに褒美は蔵人所の持っていた絹だったようだ。実資はこの日候宿している。
 兵庫寮の倉が焼けたことは、前年の十一月十七日の条に記録が見えるようだが、残念ながら『小右記』の記事は残っていない。

 七日は、いつのことかはわからないが倒壊していた大学寮の建物の建築が完成している。『日本紀略』には「大学寮諸堂曹司」とあるが、藤原氏の大学別曹である勧学院も立て直されたのだろうか。『小右記』の記事が残っていないのが残念である。この日は大弁以下の官人、および大学寮の学生たちが参列して建物の完成を祝っている。
 またこの日東寺の長者を務めていた僧、元杲が辞任。これは『日本紀略』ではなく『東寺長者補任』というそのものの名前の書物の記述による立項である。元杲は藤原氏出身の真言宗の僧で、祈雨の修法に効験あらたかだったと伝わる。『小右記』にも雨乞いを担当する僧として何度か登場している。

 八日には、『日本紀略』によれば、僧嘉因などを宋に派遣している。嘉因は前年宋から帰国したばかりの?「然の弟子に当たる人物である。894年の遣唐使の派遣停止によって、日本から中国大陸に派遣された公式の使節は途絶えるわけだが、民間の船の往来は盛んになっていたのだろう。?「然の場合も、嘉因の場合も、民間の商船に便乗して宋に赴いている。嘉因は?「然が宋に向かった際にも同行しているので二回目の入宋ということになる。?「然も嘉因も公式の使節ではなかったが、宋の皇帝と面会し日本の文物を献上している。?「然と嘉因のことは中国の歴史書『宋史』にも献上物なども含めて詳しく記されている。

 『日本紀略』によると、十日に釈奠、十一日に列見が行なわれている。釈奠は孔子とその弟子達を祭る儀式で、大学寮で行なわれたものである。この日に間に合わせるために大学寮の建物の再建が急がれたものか。列見は、毎年二月十一日に行なわれた儀式で、諸司の六位以下に叙されるべきだと選ばれた者たちが太政官に参上して列立し、大臣が点見した。

 十八日は、『小右記』の記事があり、毎月恒例の清水寺参詣が行われたことが記される。また前日の十七日に左大臣の源雅信と右大将藤原済時が昇殿などのことを決めたらしいことが伝聞の形で記されるが、欠字が多くよくわからない。

 廿一日には参議源忠清が亡くなっている。『公卿補任』によれば参議になって十六年目のことだったという。『小右記』にはこの日の記事はないが、これまで数回、参議、もしくは右衛門督として登場している。源忠清は醍醐天皇の孫で臣籍に降下した人物である。

 廿七日は、『小右記』の記事が残っており、除目の召名に誤りがあった際に修正する直物とそれに附属する小除目が行なわれている。実資はその場にいなかったのか伝聞の形式で書いている。「事淡く薄きに依る」という理由で即座に退出したようだ。批判だろうか。
 また、先日東寺の長者を辞任した大僧都元杲が大内裏内の真言院で御念誦を行なっている。大の月は廿八日から、小の月は廿七日から三日間行なわれた儀式だというが、実資によれば長年行なわれていなかった儀式が久しぶりに行なわれたもののようである。おそらく天皇の食事煮について記されているが、これは摂政兼家が決めたことだという。

 廿七日小除目について、実資は廿八日の条で不満をぶちまけている。右大臣藤原為光の子、誠信が実資を飛び越して参議に任じられたのである。参議としても近衛府の中将としての勤続年数でも上にいる実資ではなく、誠信が任じられたのは父為光が、廿五日に摂政兼家のところに出向いて懇願したからに違いないと実資は批判する。「許されなければ私はこの家を出て行かない」なんて、かなり具体的な為光の言葉が記されているということは、誰かが情報を伝えてくれたのか、都中に広がっていたのか。為光が誠信の参議任官のために兼家に懇願していたという話は、正月廿九日と思われる記事にも記されている。
 他にもいくつかの補任が行なわれようだが、誠信の件ほど問題にするべきものはなかったようで、詳しいことは記されていない。藤原道頼が右近中将に任じられたのを「執柄の孫なるが為か」と批判したぐらいである。道頼は摂政兼家の孫で、父道隆に軽んじられて出世は弟の伊周より遅れていた。それでも周囲と比べるとはるかに早かったのである。
2019年12月25日23時。












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