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2020年01月19日

覚えることは悪なのか(正月十六日)





 どんな学問、勉強にだって、最低限覚えこまなければならない、考えてもどうしようもない知識は存在するはずだ。仮にチェコ語を勉強するなら、最低限単語、名詞、形容詞の格変化、動詞の人称変化あたりは、四の五の言わずに覚えるしかない。これらのことすら覚えもしないままに、チェコ語について考えろとか言われても、それは無理な話である。
 考えるのは、覚えた後に、覚えたことを材料に、一般的に言われていることが正しいのかどうか考えたり、格変化の簡単な覚え方はないのか考えたりするという形になる。もちろんこんなことを考えるためには、格変化を一つや二つ覚えるだけでは不可能で、全体を見通せるだけの知識が必要となるのは言うまでもない。



 言ってみれば、覚えることと考えることとは学習のための両輪のようなもので、どちらか一方だけをしていればいいというものではない。ただし、初学のころには考える基礎となる知識を身につける必要があるから覚えることに重点が置かれるのは当然のことで、学習が進むにつれて考える必要が増えていくというのが理想的な学習のあり方であろう。覚えることを悪者にしている人たちの論を読むと、この基礎的な知識を覚えることさえも軽視しているようで、うすら寒い思いがする。

 さらに言えば、考えることを教えるというのは正しいのだろうかという疑問がわく。個人的な経験では、知識を積み上げていくうちに自然に始めていたのが考えるという行為で、誰かに教えられるようなものではなかった。危惧するのは考える授業ということで、考え方を教える授業になりはしないかということだ。
 考えるということは、自分なりの意見、考えを導き出すために行うことなのに、教科書に書かれた考え方に基づいて、教科書と同じような意見にたどり着くというのでは、教科書に印刷された意見を覚えるのと大差ない。これでは単に覚える範囲が広がっただけである。これが行き過ぎると、我々の高校時代の数学の授業のように、問題のタイプごとに、考えることなく自動的に公式、つまりは考え方を当てはめるようなことになりかねない。本来であれば考えて公式を選ぶ部分が効率化されるから、テストで点数は取りやすくなったのだろうが、なぜその公式を選んだのかと聞かれてもちゃんと答えられない人も多かった。

 大学入試改革を訴える人たちは、アクティブラーニングとかいう成功したという話はほとんど聞かない学習法の推進者でもあるのだろう。アクティブラーニングで重視されているらしい調べるという活動は、学習を考えることと覚えることに二分した場合には、どう考えても覚えるにつながる活動である。知職を求めて増やすために調べるのだから、そこに考える余地などは存在しない。調べた上で考えるというのならわかるけれども、覚えるよりも考える勉強だと言っている人たちが調べさせることを求めるというのは、全く理解できない。十分な知識のない子供は何を調べればいいかも自分ではわからないから、先生が調べること決めるなんてこともありそうだし、調べ方まで先生が指示しそうだなあ。そうなるとどこがアクティブなんだかである。
 勉強において考えることが大切だというのは、今に始まった意見ではなく、昔からずっと言われてきたことである。その上で、現在の日本人の学生が考えることができないというのが事実だとすれば、それは高校の授業で覚えさせるだけで考えさせないからではなく、小学校のころから、考えるために最低限必要な知識もないままに、考えることを強要され、意見の持ちようのないことにまで意見を求められてきた結果であるようにも思われる。そんなことに意見を求めるなと反論できるような子供はあまりいないだろうし。

 そもそも、考えるなんてことを高校の授業で何とかしようというのがおこの沙汰なのである。こういう学習における基本的なことは、小学校卒業までに身につけられなかったら、中学高校で身につけるのは困難極まりない。子供のころから考えるための知識を増やしてきた人は、おのずから自分でさらなる知識を求めて調べることも、身につけた知識をもとにあれこれ考えることもできるようになるもので、高校生にもなって考えることを教えられなければならない学生を大学に行かせようというのが間違っている。実効性のない高校や大学の教育の改善とやらに割く予算があるなら、やはり初等教育につぎ込んだほうがはるかに甲斐がある。
2019年1月17日9時。












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