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2020年08月29日
ひろしまタイムライン1(八月廿六日)
スタッフブログ のようなもので触れられていたので存在は知っていた。恐らく、すでに身内にも戦争を実体験した人がいない人が増えているだろう若い人たちに、疑似的に戦争の悲惨さを伝えるための試みなのだろう。内容の説明を読むと、なかなか面白そうで、野心的な広島らしい試みだと思った。
生来のSNS嫌いで、自分でツイッターを見ようなどとは思わないが、ジャパンナレッジのスタッフのように興味を持って追いかけている人は多いはずだ。子供のころから今江祥智の『ぼんぼん』など戦中戦後を描いた文学に親しみ、毎年八月になるとNHKで放送される戦争特集などを見てきた人間には今更目新しいこともそれほど多くはないのだろうが、そんな体験をしていない人たちにとっては、間接的にとはいえ、戦争を追体験できるいい機会で、戦争について学ぶきっかけになりそうである。
だから、そのジャパンナレッジの記事を読んで何日か後に、ヤフーのニュースのところで「ひろしまタイムライン」という言葉を見かけたときには、ジャパンナレッジのスタッフと同じような感想を抱いた人が、紹介する記事を書いたのだろうと思ったのだが、さにあらず、差別を助長するようなことが書かれていると批判されていた。中高生が担当しているところもあるという話だったから、暴走したのをNHKのスタッフがチェックしきれなかったのかと記事を読んでびっくり。どこに差別を助長するような要素があるのかさっぱりわからなかったのである。
どうも、「大阪駅で戦勝国となった朝鮮人の群衆が、列車に乗り込んでくる!」とあるのが批判されているようなのだが、これ読んで「朝鮮人」に批判的になったり反感を持ったりする人がいるのだろうか。この時点では、読んだ記事に引用されていた文しか投稿されていないと思っていたので、意識は文中に使われている言葉に向かった。
他の記事も読んでみると、「朝鮮人」という言葉を差別だと認識している人が本当にいるようで愕然とした。こういう地名を基にした言葉を差別用語にしていたら、そのうち使える言葉がなくなってしまう。戦前に使われた言葉でいえば「半島人」、終戦直後なら、この企画には使えないけど「三国人」のほうがよっぽど差別的に響きはすまいか。実際にはさらに侮蔑的な表現があったに決まっているのだから、「朝鮮人」というのは極めて穏当な表現にしか思えない。この手の差別認定が好きな人たちの論理に従っていたら、そのうち「韓国人」「北朝鮮人」「中国人」なんてのも差別語になりそうである。
昔知り合いが日本からお土産に買ってきてくれた『図書館戦争』を読んで、「床屋」「魚屋」が差別用語扱いされているというのを知って、日本語を仕事として使うマスコミの連中の認識のあまりのひどさに絶望的な気分になったのを思い出す。一部の文筆家たちが言葉狩りだと憤慨するのも納得してしまう。差別意識というのは言葉そのものよりも、その使い方にこもることの方が多く、その気になれば、どんな言葉でも差別的に響かせられるものだ。
昔、誰だった忘れたけど、SF作家が、これも朝鮮半島の国の呼称について、朝鮮だった国が南北に分かれたんだから、北朝鮮と南朝鮮というのが普通じゃないかと言い、その略称として北鮮、南鮮を使うのを出版社だったか、新聞社だったかに、差別的だとして拒否されたと憤慨する文章を読んだことがある。それなりの説得力はあったけど、戦後生まれで北朝鮮、韓国という呼称に慣れていた自分は、この作家の使う言葉を使おうとは思わなかった。ただ日本が李氏朝鮮を併合した事件が、何で「日朝併合」ではなく「日韓併合」と呼ばれるのだろうと不思議に思った。高校生だったからそこで止まってしまったけどさ。
それから、確か儒学者で封建主義者と自称している(と記憶する)評論家の呉智英が、中国という呼称を拒否して支那という、世界中の言葉で中国を意味する言葉と同根の言葉を使う方が歴史的にも正しいと主張していたのも、確か支那は中国最初の統一王朝である秦に起源を持つ由緒正しい言葉だという説明もあってなるほどとは思ったけど、中国という呼称に慣れきっていたから、敢えて自分にとって新しい名称である支那を使う気にはなれなかった。支那を差別語というのは無理がありすぎるというのはその通りなのだろう。
こちらに来て思うのは、中国の中華人民共和国の「中華」にしろ、韓国の大韓民国の「大」にしろ、大日本帝国の「大」と同じレベルの夜郎自大な自称に過ぎないのだから、外国である日本がその自己顕示欲の発露に付き合ってやる必要はあるのかねということである。日本の「大」に付き合ってくれた国があるとも思えないし、チェコ語にしてしまえば韓国も北朝鮮も、北と南は付くけど同じ「Korea」である。中国だって歴史的に王朝が変わろうが「?ína」で済ませてしまう。中国とか韓国という名称は、地域国家の略称ではなく王朝名のような扱いをしたほうがよかったのかもしれない。台湾の中華民国のようにさ。今更変えようはないだろうけど。
我々の世代なら、差別を助長するとして糾弾された事件というと筒井康隆の断筆事件が真っ先に思い浮かぶ。あれは作家本人ではなくて、差別的とされた作品を教科書に採用しようとした出版社が批判されたのだったかな。毒のあるユーモアを売り物にする筒井の作品を教科書に採用するというのに腰砕けだった出版社の対応には、言論の自由とか表現の自由とかを金科玉条のように主張しているのが実はポーズでしかないことが明らかになって幻滅しかなかったし。
この断筆宣言のおかげと言えそうなのは、少なくとも書籍の出版に関しては、差別用語という規制が多少緩んだように思われることで、差別用語とされる言葉が使われていることで復刊は難しいだろうと言われていた過去の名作が、巻末に但し書きを付けることで刊行される機会が増えてきたことぐらいか。今でも意に染まない書き換えを強いられて泣き寝入りしている作家はいそうではあるけど、言葉にレッテルを張るのには慎重になってほしいものである。
なんてことを、「朝鮮人」が問題にされていると思っていたときには考えていたのである。その後、別の批判する記事を読んだら、また別な方向に思考が向かったのだが、それについてはまた今度。
2020年8月27日18時。