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2016年02月20日
ラグビー(二月十七日)
2015年を振り返って、最も衝撃を受けた事件は、やはりラグビーワールドカップでの日本代表の活躍だろう。思い返せば、1980年代から、90年代の初めにかけて、時代はラグビーだった。伏見工業のラグビー部をモデルにしたテレビドラマが一世を風靡し、早慶戦、早明戦を中心とした大学ラグビーの人気は、Jリーグ発足前のサッカーの人気を凌駕していた。当時代表をジャパンとだけ呼んで、一般にも定着していたのはラグビーだけで、今となっては恥ずかしい限りだが、その特殊性もなんだかかっこよく思えたものだった。
通っていた高校には、ラグビー部はあってもサッカー部はなく、グラウンドには普通サッカーのゴールがあるところにラグビーのゴールポストが立っていた。そのため、体育の授業でも、クラス対抗のスポーツ大会でも、サッカーではなくラグビーが行われることがあり、文系クラスで男子生徒が少なかったこともあって、全員出場しなければならなかった。もちろん、本物のラグビーをやるのは危険なので、タッチラグビーと呼ばれるタックル禁止の安全なルールで行われたのだが、血気盛んな高校生が、そんなルールを完全に守れるわけがなく、ラグビーの後はあちこち体が痛んだし、体操服が破れたり、ゼッケンが剥ぎ取られたりしていたのだった。一番大変なのは審判役の先生や、ラグビー部員だったのだろうけど。
そんな体験があるからこそ、おそらく今でも普通の人よりはラグビーのルールに詳しいし、90年代の半ばぐらいまでは、ワールドカップの遠かったサッカーの代表よりも、自分でもプレー経験のあるハンドボールの代表よりも、ラグビーの日本代表に注目し、期待して応援していたのである。
それなのに、威勢がいいのは大会が始まる前までで、大会が始まると惨敗か、よくて相手がメンバーを落としてきたおかげで惜敗という結果が繰り返された。当時のチームスポーツの日本代表なんて、ラグビーに限らずそんなのばかりだったという気もするのだが、ラグビーは最後の期待だっただけに失望も大きかった。
そして、90年代の半ばに、確か双葉社から出ていたと思うのだが、ラグビー関係の内幕を暴露して批判している熱狂的なラグビーファンたちの書いた本(確か『ラグビー黒書』だったかな)を読んで、ラグビー界というものの闇を知る。選手達がどんなにがんばっても、監督が誰になっても、ラグビー協会があれではどうしようもないのだと。その結果、ラグビーの代表に関しても、他のスポーツと同じように応援はするけど、結果は期待しないというスタンスになった。
こちらに来てからのワールドカップの結果は、特に2011年のワールドカップはチェコでも放送されて中継を見たはずだけれども、まったく覚えていない。日本が勝っていれば絶対に喜んだはずだから、たぶん一勝もできなかったのだろうと考えるぐらいである。日本の試合はあまり注目されておらず放送されなかった可能性も高い。それで、結果だけ見てああ負けたのねと納得しておしまいだったのだろう。
だから、去年のワールドカップの南アフリカとの試合も、頑張ってほしいと思ってはいたけれども、勝てるという期待はまったくしていなかった。インターネットでは、今回の代表は違うなんて記事も見たような気がするが、これはいつもの提灯記事だろうと思って本気にはしていなかった。日本代表の試合だから見るというよりは、チェコでは珍しいラグビーの中継だから見るというような気持ちもあった。ラグビーは、見る分にはサッカー以上に面白いスポーツだし、試合の内容を味わいながら見るならスタジアムに行くよりテレビで見たほうがいいスポーツなので、中継があると見てしまうのである。
前半、点を取られても取り返して差が開かないのを見て、あれっと思った。北半球のチームになら善戦できるイメージはあったのだが、南半球のチームにここまで食い下がれるとは思わなかったのだ。この時点で試合を見た甲斐はあったと半分以上満足だった。後半に入っても、必死に見ていたので試合経過なんか覚えていないのだが、離されずに食いついていって、同点に追いついたときには、この試合は負けても満足というか、これまでラグビーの代表の試合を、いやラグビーの試合を見てきて、ここまで感動したことはなかった。そして、終盤日本が反則を犯したときに、南アフリカがトライを狙わずに、ペナルティゴールを選択するのを見て、この試合は負けるだろうけど、ここまで南アフリカを追い詰めただけでもう十分、残りは全敗でも、これまで応援してきた甲斐があって、これからも応援していけると思ったのだ。それが、あんな結末が待っているとは、ゆめにも思えなかったし、試合が終わった後には、現実感が全くなかった。
スコットランドには負けてしまったものの、残りの二試合をきっちり勝ち切るのを見て、このチームは本当に違ったのだと、ワールドカップ前の報道を信用しなかったことを後悔した。信じていれば、細かに報道を追いかけてもう少し臨場感をもってワールドカップを楽しめたのに。
とまれ、選手や監督などスタッフの努力は、賞賛しても賞賛しきれない。協会の頭があれでも、現場の監督、選手たちの頑張りで素晴らしい結果が出せたこと、出せるということがわかったのも大きな収穫の一つだろう。今後も、期待はしないで、それでも今回よりは熱心に日本代表の応援をしていくことになりそうだ。
ところで、チェコでもラグビーは行われているのだが、それほど人気のあるスポーツではなく、チェコテレビも中継の経験が少ないせいか、アイスホッケーやサッカーの中継と比べるとレベルが低かった。解説者のコメントは悪くないのだが、テレビ局のアナウンサーが余計なことをしゃべってうるさすぎた。それに、以前から疑問だったのだが、トライを獲得できる点数に合わせて「5(ピェトカ)」と呼んでいるし、ノッコンもスローフォワードも同じ反則扱いだし、モール、ラック周辺の反則のほとんどはオフサイドで処理されてしまっていた。昔はトライは「4」と呼ばれていたのだろうか。このあたりのあいまいさが、チェコのラグビーがなかなか強くなれない一因かもしれない。
チェコのラグビー代表はヨーロッパの下部カテゴリーで苦戦しているけれども、何かの間違いで、2019年に日本で開催されるらしい次のワールドカップに出場できたりしないかなあ、通訳として雇ってもらえないかなあなどと妄想の翼を広げてしまう。東京オリンピックには興味はないし、中止になってもいいと考えてしまうのだが、ラグビーのワールドカップは、見たい、見に行きたいと思ってしまう。いや、今回の日本代表の姿に、見たいと思わされてしまったのである。
2月18日16時30分。
次の大会に向けて、たかだか一大会うまく行ったことを喜んでいないで、負け続けた歴史を、善戦に終わり続けた歴史を振り返ることが必要だろう。2月19日追記。
2016年02月19日
プロスチェヨフ(二月十六日)
ハナー地方のローマ、パリ、ベネチアについてはすでに文章を書いたので、ハナー地方のイェルサレムについても書いておこうと思う。オロモウツから南西に約20Kmほど行ったところにある町プロスチェヨフが、ハナー地方のイェルサレムと呼ばれる理由は、今では見る影もなくなっているが、かつてはユダヤ人が多く居住し、この辺りでは最も大きいユダヤ人地区が存在したからだという。最近は町の方まで出ていないのでよくわからないが、十年以上前に出かけたときには、ユダヤ人地区の跡地にはかなり大きな空き地が残っていた。
ドイツ語ではプロスニツと呼ばれるこの町は、実は現象学の祖フッサールの生地なのだが、あまり知られていないようである。日本ではプロスチェヨフがプロスニツだと知っている人が少ないし、チェコではフッサール自体の知名度があまり高くない。さすがにプロスチェヨフには、フッサールを記念して広場に名前が付けられているが、チェコ人には夭折した詩人イジー・ボルクルの方が重要なようである。プロスチェヨフの墓地には立派な墓が残されているし、オロモウツにもこの人の名前を取った通りがあって、実はうちから最寄のトラムの停留所だったりするのだ。自分の語学力で詩が理解できるとも思えないので読んだことはないのだが、ボルクルは夭折したという形容から日本の中原中也みたいな詩人なのかなと勝手に想像している。
旧市街の中心は、93年のビロード革命の跡に改称されたT.G.マサリク広場である。このチェコにしては広い広場には樹木が植えられていて、見通しが悪いのが難点なのだが、塔を擁した市庁舎、今では博物館になっている旧市庁舎など、興味深い建物が立ち並んでいる。特に市庁舎は内装も非常にこっており、立てられた当時のプロスチェヨフが富裕な町であったことを物語っている。
しかし、この町の建築物で最も特筆すべきは、ボヤーチェク広場にある民族の家であろう。チェコ最大の建築家の一人であるヤン・コチェラの最高傑作とも言われるこの建物は、2000年ごろに訪れたときには、最低限の維持はされていたが、文化財として保護修復を受けているようには見えず、なぜかメキシコ料理のお店が入っているのにびっくりしたのを覚えている。現在では改修も済んで、往時の姿を取り戻しているらしい。レストランも喫茶店も、建設された時代の息吹を感じさせるような、雰囲気を大切にしたものが入っている。数年前に、一度仕事で行ったときに、このレストランで昼食をご馳走になったのだが、メタクサという確かギリシアのお酒を飲んだこと以外は、思い出すことができない。
民族の家というのは、啓蒙主義の民族覚醒の時代に、ドイツ化の進んでいたチェコ各地の都市にチェコ人たちのグループの活動拠点として、例えば劇場などの施設を伴って建設されたものなので、比べてみるのも面白いかもしれない。オロモウツのものは何の変哲もない普通の建物でプロスチェヨフのものと比べるのは申し訳ないのだけど。
プロスチェヨフから西に道路を道なりに走ると、丘陵地帯に入ってすぐのところにプルムロフという村がある。ここにはダムがあって、ダム湖は地元の人たちの夏の保養地となっているのだが、ダム湖のかたわらに、奇妙な建物がそびえている。湖の対岸から見ると立派な建物なのだが、横から見ると何だか薄っぺらな建物である。領主であったリヒテンシュタイン家が、昔城砦のあったこの地に、大きな城館を建設しようと計画を立てて、最初の部分を建てかけたところで、建築が中止になってしまい、何とも中途半端な建物が残されたらしい。2000年ごろにはここもほぼ放置されていて、裏から見るとみすぼらしいという印象だったが、最近改修が終わったという話なので、奇妙は奇妙なりに、建築の経緯なども含めて観光名所になっているのだろう。
さて、チェコでプロスチェヨフと言うと、テニスである。チェコで一番強いテニスクラブがありベルディフや、クビトバー、シャファージョバーなどのモラビア出身の選手の多くが、世界に出る前にこのクラブで育成を受けており、世界ツアーを回るようになってからもクラブとしてはプロスチェヨフに所属している。国内での練習の拠点にもなっていて、子供向けのイベントなどにも積極的に参加しているようである。もしかしたら街中で見かける機会もあるのかもしれない。
デビスカップや、フェデレーションカップの試合には、国外であってもプロスチェヨフからかなりの数の応援団が駆けつけるし、バレーボールやバスケットのチームも国内の一部リーグで活躍しているが、プロスチェヨフはやはりテニスの町なのである。
それからこの町が、服飾産業の町であったことも忘れてはならないだろう。東レが進出して工場を建てたのもそれが理由の一つではないかと思う。共産主義時代の国営工場の流れを継ぐOPプロスチェヨフというチェコでも最大の服の工場があったのだが、残念ながらいろいろな問題が重なって倒産し、工場は閉鎖されることになってしまい、オロモウツにいくつかあった直営店も閉鎖されてしまった。
プロスチェヨフは、どうしてもブルノに行く途中に通る町になってしまって、なかなか立ち寄る機会もないのだが、いずれ時間を作って久しぶりに再訪したい町である。
2月17日13時30分。
フッサールと言えば、わかるようなわからないような現象学。昔現象学についての解説をした新書を読んだ記憶があるのだけど、著者はこの人だったかなあ。本を読んでいる間はわかったような気分にはなれた。読み終わって改めて考えるとよくわからなくなるというのは、哲学書の宿命かもしれない。2月18日追記。
2016年02月18日
チェコサッカーの黄昏二 ボヘミアンズ問題(二月十五日)
チェコ語起源で外国語に取り入れられて外来語として世界中に広まった言葉はそれほど多くない。一番有名なのは、チャペク兄弟が作り出したと言われる「ロボット」だろうか。それから、ピストルというのもチェコ語から誕生したらしい。本来は高い音を出す笛「ピーステャラ」という言葉があって、それまでの重い音を発していた銃器と比べると、軽くて高い音を発する短銃の名称に転用されたのが、「ピストル」という言葉の起源なのだという。もう一つは、一般にはポーランド起源だと思われているダンス「ポルカ」が、実はチェコ人の列強によって分割されたポーランドに対する共感から生まれたものだという話である。
たいてい外国に出たチェコ語というと以上の三つが上げられるのだが、サッカー界にはもう一つあった。「パネンカ」である。本来人形という意味のこの言葉は、サッカーではPKの特別な蹴り方をさす言葉として使われている。もちろんチェコでは人形がサッカーをするとかいう話ではなく、パネンカというのは選手の名字である。ヨーロッパ選手権の決勝で、アントニーン・パネンカが、西ドイツのゴールキーパをあざ笑うように、真ん中に軽く蹴って決めたPKが話題を呼び、世界中で「パネンカ」と呼ばれるようになったらしい。
パネンカが現役時代時に所属しクラブのシンボルのようになっているのが、ボヘミアンズというプラハのクラブである。そして、残念なことに、ここ十年以上にわたって、ボヘミアンズは、チェコのサッカー界が抱える最大の問題のひとつとなってしまっている。いくつもの裁判が起こされ、延々と続き、いい加減結果が出てほしいと思われている。裁判の結果は出たのかもしれないが、それが実際の結果につながっていないのが現状なのである。
ことの発端は、ボヘミアンズ・プラハを運営していた会社が倒産したことにある。当時はプラハ第三のチームの座をビクトリア・ジシコフと争っていたが、スパルタ、スラビアのような国内各地にファンを擁する人気チームとは違って、集客力に難があり経営が苦しかったのかもしれない。トップチームは解散となり、これでチェコのサッカーリーグからボヘミアンズ・プラハの名前は消えるはずだった。
しかし、ボヘミアンズ・プラハのファンは数は少ないが、その分熱狂的なファンが多く、すぐにクラブの保存運動を始める。しかし、運営会社が清算手続きに入ってしまったため、またオーナーに拒否されてしまったために、運動の方向を転換しファンたちの力で自分たちのクラブを立ち上げることになった。
「ボヘムカ(愛称)は自分の人生だ」と熱狂的に語る人々の中には、社会的な地位の高い人たちも多く、そういう人たちの尽力で、びっくりするぐらいのスピードでクラブが設立された。ボヘミアンズ・プラハとは別組織になっていた育成などを担っていた下部組織が、倒産に巻き込まれることなく活動を続けており、協力を得られたことも、早期の再建につながったようだ。しかし、ボヘミアンズ・プラハの名跡を継ぐことは許されず、下部リーグからの参戦ということになってしまった。
そして理解できないことに、ボヘミアンズ・プラハの名称とロゴなどの使用権は、ファンたちが設立したクラブではなく、別のプラハの郊外の地区を本拠地とする当時二部に在籍していたクラブに売却されてしまった。その結果、ボヘミアンズ・プラハという名称の使用を禁止されたクラブは、クラブの創立年を入れて、ボヘミアンズ1905という名称を使うことを余儀なくされたのである。
この二つのプラハのクラブは、あれこれ裁判沙汰を起こしているわけだが、一般の人々の支持は、もちろん圧倒的に本家のボヘミアンズ1905に集まっている。またどちらのチームも、下部リーグから昇格し、2010年前後には、当時ガンブリヌス・リーガと呼ばれていた一部リーグに、二つのボヘミアンズが在籍するという異常事態が起こっていた。挙句の果てには、ボヘミアンズ・プラハ側が、ボヘミアンズ1905との対戦を拒否して、試合放棄で1905の勝利扱いとなり、勝ち点剥奪の処分を受けた。その後は一部での対戦はないが、ボヘミアンズ1905が二部に降格した時など、ボヘミアンズ同士の対戦が行われている。
ここまでは、どちらのボヘミアンズを取るかという争いに過ぎなかったのだが、その後2012年ごろに、旧ボヘミアンズ・プラハの関係者が、ボヘミアンズに関するさまざまな権利を一元化するためとか称して、新たにFCボヘミアンズを設立して、事態はものすごくややこしいことになった。ボヘミアンズ1905からスパルタに買われて、さらにドイツに移籍したバーツラフ・カドレツに関する権利も、旧ボヘミアンズ・プラハ時代に下部組織で育成されていたこともあって、どのボヘミアンズに属するのかがはっきりせず、というよりは相互に争っており、ドイツ側が移籍金の支払先がわからないと言って支払いを停止していたこともある。これも、カドレツが期待されたほどドイツでは活躍できなかった理由の一つだと思う。
正直、プラハの郊外の地区のチームが名前だけを買い取った新ボヘミアンズ・プラハも、書類上にしか存在しないらしいFCボヘミアンズも、とっとと存在を禁止して、一般の認識のようにボヘミアンズ1905を正当な後継者として認定して、この問題にけりをつけてほしいものである。
最後にボヘミアンズに関するちょっといい話を付け加えておこう。イバン・トロヤンという俳優がいる。チェコ版アカデミー賞とでも言えるチェコのライオン映画賞で、何度も表彰されボヘミアンガラスで作られたライオン像をいくつも授与されているチェコでも有数の俳優なのだが、この人が熱狂的なボヘミアンズファンなのだ。以前、ボヘミアンズがシーズン終盤に降格圏にいたときに、トロヤンがチェコ版アカデミー賞で獲得したライオンの像を、お守りとして貸し出し、チームは毎試合それをベンチに置いていた。そのおかげか奇跡的に残留を果たしたことがあるのである。
また、上記のファンによるボヘミアンズ復興運動にも積極的にかかわり、選手としての象徴がパネンカなら、ファンとしての象徴はこのトロヤンだと言えるような存在になっていた。クラブもその功績を讃えるために、トロヤンが所属してプレーしていたアマチュアのクラブに移籍金を払って獲得し、シーズン最後の順位も決まってしまった試合の最後の数分間だけ、ボヘミアンズの選手としてデビューさせるという粋な計らいを見せたのである。これでトロヤンが下手糞だったら美談でもなんでもないのだが、トロヤンはもともとアマチュアながらサッカーをプレーしていたし、このデビュー戦のために一ヶ月以上も特訓を受けたらしく、少なくともチームの足を引っ張るようなことはなかった。
有名人ファンとクラブの関係という点では、トロヤンとボヘミアンズ以上のものは見受けられない。スパルタやスラビアだともっと生々しい関係、つまりお金の関係が出てきそうだし、ボヘミアンズというクラブは、ある意味でチェコでももっとも幸せなクラブなのかもしれない。ボヘミアンズ問題が存在することはチェコのサッカー界にとっては大きな不幸であるけれども。
2月16日22時30分。
ちょっと修正。2月19日追記。
2016年02月17日
チェコサッカーの黄昏一 スポンサー撤退(二月十四日)
チェコでは、日本とは違ってスポーツへの賭けが禁止されておらず、いくつもの会社が、サービスを提供している。スポルトカという日本のナンバーズのような宝くじの販売も行っている、一番伝統のあるサスカは、株主にチェコ体育協会やチェコオリンピック委員会などスポーツ関係の団体が、ずらずら並んでいる。これは共産主義の時代から続く、スポーツへの賭けで儲けたお金はスポーツ界に還元するという考えを象徴しているらしい。
他の賭けの運営会社だけでなく、街中にあるスロットマシーンなどの博打の要素のあるゲーム機からの収益の一部も、スポーツに還元されることが決められている。そのため、かどうかは確信はないが、賭けの運営会社がスポーツのスポンサーになっている例は、枚挙に暇がない。
例えば、アイスホッケーの一部リーグは、ティップ・スポルト・エクストラ・リーガという名称で、メインスポーンサーを務めるのはティップ・スポルトという賭けの会社でである。ホッケーだけでなく、サッカーリーグが真冬に中断している間に、強化試合の一環として、一部、二部の十数チームを集めて行われる大会のスポンサーもしているはずだ。言ってみれば、賭けの胴元が、賭けの対象となるリーグのメインスポンサーとなっているわけで、これでいいのかと言いたくなるのだが、いいらしい。
チェコのサッカーの一部リーグのメインスポンサーは、長きにわたってピルスナー・ウルクエル社のガンブリヌスというビールが務めてきた。それが2014−2015のシーズンから、その地位を譲ってスポンサーとしては残ったが、ガンブリヌスリーガと呼ばれてきた一部リーグは、シノットリーガと名称を変えてしまった。
このスポンサーの交代に関してはあれこれ取りざたされているが、数年前から世界のあちこちでサッカー選手が摘発されている八百長疑惑が影響を与えているのは間違いないだろう。ロシアや中東、中国などのマフィア的存在が、資金稼ぎのために特定の試合の結果を操作するために、選手を買収、脅迫していたと言われる一連の事件である。
ショックなことに、スロバキアリーグでの試合に関して、かつてリベレツの中心選手だったホドゥールが涙ながらに八百長への関与をあからさまに語っていたし、チェコリーグでも、当時テプリツェの期待の若手と言われて久しいエゴン・ブーフが、八百長を持ちかけられたことを自分から警察に通報していた事実が明らかになって話題を呼んだ。この件ではテプリツェ所属で一部リーグの試合に出ていた選手も警察の捜査、事情聴取を受けており、チェコサッカー界の暗部が明らかになると期待したのだが、結局八百長がある程度証明されて立件されたのは下部リーグでの試合にとどまり、告訴されたのも当時二部や、三部でプレーしていた選手達ばかりだった。注目度も掛け金も少ない下部リーグの試合の方が八百長をやらせるうまみがあるということだろうか。
そして、ガンブリヌスに代わってメインスポンサーの座についたのが、父と息子とで操業したところから、シン(息子)とオテツ(父)を結びつけて名づけたのだというシノットという賭けの会社だった。サッカーとのかかわりでは、もともとは、一部リーグに、ウヘルスケー・フラディシュテを本拠地とするシノットというチームを所有していた会社である。しかし、十年ほど前に警察が携帯電話を盗聴するなどして捜査していた審判買収事件への関与を疑われたため、即座にチームを手放した。同時に、チームもシノットという会社も買収に関与したことはなく、あるチームの陰謀だという声明を発表して噂の沈静化に努めていた。
チームは勝ち点の剥奪は受けたものの何とが残留を果たし、翌年からはスロバーツコという名前で活動を継続することになり現在でも一部リーグで活動を続けている。スロバーツコというのは、南モラビアの伝統的な民俗の色濃く残っている地域の名称で、最近、サッカーだけでなく、ほかのスポーツでもチーム名に町の名前ではなく地域名を入れるのが見受けられるようになったが、その先例となったのがスロバーツコなのである。
ちなみにこのときの審判買収事件では、シノットよりも、ビクトリア・ジシコフ(プラハのチーム)の関与の方が大きく、GMが逮捕され、サッカーに関係する仕事には一定期間つけないという処分を受けたはずだ。そして、公開されたGMと関係者の電話の様子が演劇にまで仕立てられ、「お友達のイバンくん、今ちょっといい?」というのは流行語にもなった。
話を戻そう。シノットは2014年の夏から、四年契約でチェコのサッカーリーグのメインスポンサーになる契約を結んだ。金額はそれまでのガンブリヌスと同等と言われていて、一説によると四億コルナと言う。
ところが、財務大臣のバビシュが、賭けの会社に対して更なる税金、負担金の増額を求める法案を提出したため、シノットは今年の夏、つまり契約期間の半分を残してメインスポンサーから撤退すると言い出したのである。税金の負担を考えると、全国的なスポーツに対する支援は難しくなり、地元であるスロバーツコ地方と、隣のバラシュスコ地方のスポーツの支援に集中するということらしい。シノットのオーナーは、国会議員にもなって賭け産業のために活動をしているのだが、国内で免許をとって活動をしている賭けの会社の負担が増える一方なのに、免許もなしにネット上で賭けを受け付けている国外の会社に対してはほとんど野放し状態になっていることに対する抗議の意味もあるのかも知れない。
とまれ、ある程度の違約金は取れるにしても、サッカー協会としては、夏までに光景のスポンサーを見つけなければならなくなったのだ。ガンブリヌスに復帰してもらうと言うのは難しいだろうし、トマーシュ・ロシツキーの怪我が当初の予想以上に重く、今年のヨーロッパ選手権に間に合わない可能性があるだけでなく、引退を考えているのではないかという報道もあるので、ヨーロッパ選手権での代表の活躍をバネにスポンサー契約を結ぶというわけにも行きそうにないのである。
スラビア・プラハが中国の手に落ちたという話まで行き着く予定だったのだが、無駄に長くなってしまったので稿を改めることにする。
2月15日23時30分。
こんなものまで買えるとは思ってもみなかった。でも昔のユニフォームの方がいいかな。最近の体にぴったり張り付くタイプのユニフォームはあんまり好きじゃないんだよなあ。2月16日追記。
2016年02月16日
来た、見た、リトベった(二月十三日)
オロモウツから北に20kmほどのところにリトベルという町がある。モラバ川の流れが大げさに言うと八手に分かれたところにあり、町の中を大げさに言えば運河が通っているため、水郷とも呼べる町であり、ハナー地方のベネチアと呼ばれているらしい。実際には運河と言うよりは水路で、これをベネチアと呼ぶのは本家に対して申し訳ない気がするのは、ハナー地方のローマ、パリの場合と同様である。
地下を水路が流れる広場と、その広場に面して立つ市庁舎を中心に、古い町並みの残る水辺の美しい町ではあるが、外国からの観光客をたくさん集めるほどの観光地ではない。私が初めてこの町を訪れたのも、この町が目的ではなく、日本人がイメージするヨーロッパのお城というものを体現したボウゾフの城、この辺りでは最も大きな鍾乳洞のあるヤボジチコに出かけるためのバスの乗換えのためだった。乗換えの待ち時間が長かったときに、バスターミナルから少し足を伸ばして、この町を発見したときには、穴場を見つけた気分になったものだ。拠点であるオロモウツ自体が穴場と言えば、穴場なのだが。
それで、オロモウツに来て自転車を買って、オロモウツの外まで出かけるようになったとき、最初の目的地となったのがリトベルだった。オロモウツからは、モラバ川沿いの自然保護区となっている森の中を抜けていくルートと、自動車道を走るルートが、リトベルまでのサイクリングコースとして標識が付けられている。平地なので、体力がなくても問題なく走りきれるのはありがたかった。ただ自動車道を走っていて、強い向かい風でぜんぜん進まなくなるのには閉口させられた。自転車を買ってから数年は、毎年、二、三回、毎回違うルートでリトベルに出かけ、お気に入りの水路脇のレストランで食事をして、別のルートでオロモウツに戻ってくるなんてことをしていたものだ。
リトベルに行くのにはもう一つ理由がある。それはバスターミナルとは町の反対側にあるビール工場である。この工場は、チェコでもボヘミアのクルショビツェと並んで、「国王の」という形容詞をブランドにつけることを許された二つの工場のうちの一つである。これまで数回工場見学をさせてもらったが、毎回通訳の苦しみを味わわされ、見学のあとのビールの試飲で、ビールが作られた工場で、ビールのことがよくわかっている工場の人についでもらって飲むビールほど美味しいものはないことを痛感させられるのである。
リトベルが生産しているビールで特徴的なものとしては、出てくるときには上から下まで泡だらけで白っぽく、泡が上に上がってくるまで待ってから飲むマエストロというビールだろう。製品開発に際しては、この工場の人が雪崩効果と呼ぶ泡の立ち方を、どうやって作り出すかが一番大変だったそうだ。他にも、10度から12度まで、アルコール度数ではなく、醸造前の糖度で分類されたビールにはそれぞれ銘柄名が付けられているが、オロモウツの飲み屋で飲むと、何の変哲もないと言うか、特に魅力のあるビールだとも思えないのに、工場見学で飲むとどうしてこんなにおいしいのだろうと思ってしまうほどに美味しい。
ちなみに、ビール工場の見学は、暑いところと寒いところに分かれるので、夏場に見学する場合でも上着は忘れないほうがいい。初めて出かけたときには、最初の麦芽を粉砕したものに水を加えて煮る工程は、暖かくて問題なかったのだが、低温で発酵させる工程で寒さを感じ始め、タンクに貯蔵して熟成させる工程では、寒さに震えるというえらい目にあったのだった。
工場の人の話では、リトベルのビールはイギリスにも輸出されているらしい。ただ、イギリス人はビールの泡の役割を理解することができず、泡が立たないようにビールを注いでしまうのが悩みの種なのだそうだ。それで、ロンドンのリトベルを扱っている飲み屋の主人をリトベルに招待して、工場見学とビールの注ぎ方講座を行っているのだが、なかなかうまく行かないとも言っていた。同じビールの一種ではあってもイギリスのエールはチェコのピルスナーとは飲み方が違うということなのだろうか。
そういえば、自転車を買ったときには、リトベルやプシェロフなどのビール工場のある町まで自転車で行って、工場でビールを飲んでから帰ってくるという計画を立てていたのだった。帰りを考えると少ししか飲めないし、飲んでしまうと飲酒運転になることに気づいて、実行はできなかったのだが、この話をしたチェコ人にお前馬鹿だろうと笑われたのが非常に悔しい。
ところで、この記事のタイトルは、リトベルのビール工場が以前宣伝用のポスターに使っていたスローガンを使ったものだ。オロモウツを建設したとも言われるシーザーの有名な手紙「来た、見た、勝った」をもじって、「来た、見た、リトベル」というキャンペーンを行っていたのだ。チェコ語の動詞の過去形の男性単数の形がLで終わることを利用したもので、初めて見たときにはよくわからなかったのだが、師匠の説明を受けてうまいと感動してしまった。無理やり訳して、「来た、見た、リトベル飲んだ」とか、「来た、見た、リトベル美味しかった」と理解したいところである。
2月14日0時。
リトベルや、リトベルのビールについて書かれた本は、さすがにないだろうから、「来た見た勝った」のカエサルの本を載せておく。2月15日追記。
2016年02月15日
難民? 不法移民?(二月十二日)
シリアやイラク、アフリカなどからヨーロッパに押し寄せる人々と、それに対する政策については以前から考えをまとめたいと思っていたのだが、なかなか考えがまとまらない。いろいろな立場からあれこれ考えて結論めいたものを引っ張り出しても、どうにも納得できないのである。
その理由をつらつら考えるに、関係者のいずれに対しても、違和感と言うか、納得できないところと言うか、理解できないところがあって、共感しきれないことがその原因のようである。考えをまとめるために、それぞれに感じる違和感を並べ立ててみることにする。
まず、恐らく最も多くの反対者と最も熱狂的な支持者を擁する急進的な移民排斥を主張するグループから始めよう。外国人としてチェコに住んでいる私には、このグループには共感のしようもないのだが、この連中が掛け声に使うスローガンは、「チェヒ(=ボヘミア)はチェコ人に」というものである。じゃあモラビアとシレジアはいらないのかという揚げ足取りは置くにしても、納得できないのは、この連中がドイツのネオナチと手を組んで、ヒトラーを信奉しているところだ。今回の難民問題が発生する前から不思議だったのだが、チェコスロバキアに侵攻し、チェコをドイツの保護領にしてしまい、ユダヤ人の次にはスラブ人を絶滅させることを計画していたとも言われるヒトラーを信奉することが、「チェヒはチェコ人に」にどのようにつながると言うのだろうか。
また、最近このグループに接近して積極的に活動発言している政治家に、自称日系人のトミオ・オカムラ氏がいる。この人物に関してはいろいろ言いたいこともあるだが、簡単に言えば日本人であることを声高に主張して、それを売り物に支持を集め、大統領選挙への出馬を画策した挙句に、国会議員にまでなってしまった人物である。こんな人物を擁するグループが叫ぶ「チェヒはチェコ人に」の「チェコ人」の中に誰が含まれるのか私には理解できそうもない。
言葉の通じない文化の異なる人々を、その人々との接触を恐れる気持ちは、恐らく自然なものだろう。そこから外国人との接触を避けて近づかないという方向に向かうのは、自分の経験からも理解できるのだが、それが、外国人に対する攻撃性につながる裏には何があるのだろうか。日本の幕末の尊王攘夷運動は、外国、外国人への恐怖感が政治的に利用された事例だが、誰かが同じようなことを画策しているのかもしれない。
難民の受け入れと支援を主張するグループは、偽善が好きな私としては支持しやすいのだが、それでも理解できない点がある。目の前で困っている人を助けたいと思う心は賞賛に値する。ただ、人間の食料になる鯨には同情しても、戦争や飢えで死んでいく人には何も感じないらしい環境保護テロリスト達の轍を踏んではいまいかと危惧するのみである。つまり、国内で生活苦にあえいでいる人には、冷淡でありながら、外国人だから支援してやろうと言う気持ちになるという面はないだろうかということなのだが、これはささいなことである。
難民の受け入れを主張するのはいい。ただ、その難民の大半は、チェコに残ることを望んでいないのである。このグループは、難民の意思を無視してチェコに受け入れることを主張しているのだろうか。それとも、チェコを自由に通過させてドイツに行かせろというのだろうか。前者であれば難民がチェコに恨みを感じるきっかけを作ることになるし、後者であれば裏社会ともつながりがあるといわれる難民輸送業者の活動に正当性を与えてしまうことになりはしまいか。逃げてきてしまった以上は仕方がないから、物資や金銭の支援をするというのであれば、思考停止のそしりは受けるにしても、まだ納得もできるのだが。
その意味で、チェコ政府がEUによる難民の受入数の強制を拒否して、チェコへの居住を求めるもののみを受け入れると主張しているのはおそらく正しい。ドイツ行きを希望する者を、無理やりチェコで受け入れたときに、何が起こるのかはあまり想像したくない。その一方で、チェコ政府はイラクなどから少数派のキリスト教徒の家族を積極的に受け入れている。この事業が政府主体で行われているのか、実際に面倒を見ているキリスト教系の団体主導で政府は便宜を与えているに過ぎないのかはわからないが、いずれにしても、同化しやすいというと語弊があるので、社会に適応しやすそうな難民を優先的に受け入れようとするのは、国家の安全を司る為政者としては当然のことであろう。
難民と言い、不法移民と言う。どちらの呼称を使われても、テレビの画面に映る姿を見ると違和感をぬぐえないのだが、このグループにも同情はできても共感はしづらい。難民と言われて思い浮かべるのが、食うや食わずの半死半生の状態で日本に流れ着いた80年代のベトナム難民なので、携帯端末を片手に荷物を担いで闊歩する姿には違和感しか感じられない。
それは時代の移り変わりとして受け入れるにしても、受け入れを求めるEUのルールを無視し、通過する国々に対する敬意を感じさせないのはどうかと思う。彼らの多くは、目的の国、特にドイツにたどり着くためだったら、何でもするという感じで、途中にある国など障害物としてしか考えていないところが見受けられる。受け入れ先のヨーロッパに適応しようという意志はあまり感じられず、これでは通過する国の、国民の共感を得るのは無理な話だろう。自らの行動で立場を悪化させていることに、気づかないのだろうか。難民保護の世論が高まるのは、お涙ちょうだいのストーリーが大好きなマスコミが、悲しくも逃走の途中で命を落としたいたいけな子供の写真を公開したときぐらいでしかないという、残酷な、あまりに残酷な事実は、何かを物語っているに違いない。
もっとも、このようなヨーロッパに逃げてくる人々の態度を生み出したのは、「ヨーロッパ、特にドイツに行けば何とかなる、困ったらヨーロッパが助けてくれる」という偽りの希望をばら撒き続けたドイツを中心とするヨーロッパの政策なのだから、最も責められるべきは、批判されるべきは、EUなのだ。そして、偽りの希望すらも失い、ヨーロッパに裏切られたと感じて絶望した人々の一部が、イスラム国に、テロリズムに走るというのが、現状なのであろう。
この件に関してのEUに対する批判は、山ほどあるが、考えがまとまらないので、稿を改めることにしよう。本稿も決してまとまっているとはいえないが、とりあえず現時点でのまとめとして、形にしておく。
2月13日15時。
こういうテーマには、この広告を。EUのやっている、ありもしない理想の押し付けや、ボランティアとは名ばかりのバカンスよりは、この手の偽善の方がはるかにましであろう。2月14日追記。
タグ: EU批判
2016年02月14日
通訳商売(二月十一日)
通訳という仕事は、本当に語学の才能があって外国語がよくできる人がするものだと思っていたので、チェコ語がある程度できるようになってからも、通訳をしようなどという勇気は持ちえなかったのだが、ある日、知人からの電話でまどろみの時代は終わりを告げた。
日本政府からある施設の改修工事に補助金が出て、設備の設置の監督に日本から人が来るので、通訳が必要だという。突然のことで、夏休みの後半、チェコ語のサマースクールが終わってのんびりしたいと思っていた時期でもあり、前年のサマースクールに来ていて私のことを先輩と呼んでいた後輩がチェコに遊びに来ると言っていたこともあって、できれば引き受けたくはなかった。ただ、その知人にはお世話になっていたし、引き受けると言っていた知り合いに直前になって逃げられて途方に暮れているのを見捨てるようなことはできず、結局引き受けることになった。最初の話では、日本からの人が滞在する二週間のうち、二日か三日だけ行けばいいと言う話だったのも、決断を後押しした。かくして、初めて通訳商売をすることになったのだった。
正直、初日のことはほとんど覚えていない。駅まで迎えが来たのかも自分で現場まで出向いたのかも覚えていないし、最初の打ち合わせに、日本から来た二人の方以外に誰がいたのかも思い出せない。あれこれメモを取った記憶はあるが、それが役に立った記憶はない。覚えているのは、チェコ側の設備の設置を担当した会社の人たちに連れられて、昼食に行ったことだ。そして、通訳をしながら食事をするのは非常に難しいという今日につながる教訓を得たことだ。
その日の終わりにチェコ人側から当初の予定を変更して、毎日来てくれないかと求められ、すでに予定の入っていた日を除いて二週間仕事を引き受けることになってしまった。宿舎としては通訳の職場である工事の行われている施設の上にある宿泊施設を用意してくれるという。結構な有名人も利用したことがあるらしいところに宿泊できるのはありがたかったが、私一人の利用のために特別に開けてくれたようだったのは申し訳なかった。かなり大きな施設で、ボイラーまでの距離が遠いのか、シャワーを浴びる際に、なかなかお湯が出てこずに凍える思いをしたのを覚えている。あのころのチェコの夏は、八月も後半になれば肌寒い日が続いていたのだ。
通訳の仕事自体は思ったほど大変ではなかった。本来は日本から来た人たちの監督の下に行われることになっていた設置の工事は、すでにチェコ人側が終わらせており、日本から来た方々は、こんなはずじゃなかったのにと困惑していた。仕事としては、チェックぐらいしかなく、通訳をしている時間よりも、日本から来た方々とあれこれ話をしている時間のほうが長かったぐらいだ。そのおかげで、通訳の一番大変な仕事は待つことであるという、これも今日までつながる教訓を得られたのである。
もちろん問題が発生して、日本人側とチェコ人が意見をぶつけ合うようなことも何度かあり、日本語で聞いてもよくわからない専門的なことを、語彙の知識だけを頼りに通訳していくのは大変だった。口から出す言葉を自分自身が理解できていないというのは、苦痛だったが、あるチェコ人の言葉に救われた。
「俺達は、どちらも専門家で、仕事に関しては分かり合える。ただそこに言葉の壁があるだけなんだ。その壁をお前が取り去ってくれてるんだから、心配しなくても当然理解し合えてるんだよ」
泣き言を漏らしかけたところに、こんなことを言われて、苦労が報われた気がしたし、通訳と言う仕事も悪くないと思ったのだった。その後あちこちで通訳の仕事を引き受けることになるのは、この経験が大きい。
チェコ人側が予定を組んで、近所の観光地のお城に出かけたり、博物館などを見学したりすることもあった。これは通訳初心者には結構辛い体験だったが、初めてであるということで開き直って、ガイドの言葉がわからないときには、何度も聞き返すようにしていた。最初の通訳体験がこれだったおかげで、わからない言葉をわからないままに通訳しないで、質問して説明してもらってから通訳するという習慣を身に付けることができた。
思えば、初めての通訳がこのようなものであったことは、幸せなことだったのだろう。完全にうまく行ったわけではなく、あれこれ失敗をして頭を抱えたり、穴があたっら入りたいという思いに駆られたりもしたのだが、一緒に仕事をした人たちのおかげで、前向きに仕事を続けることができた。最終日に、日本から来た方々だけでなく、通訳の私にまでも懇切丁寧にお礼の言葉をかけてくれ、一緒に仕事をした人たちからお礼として記念品をもらったときには、不覚にも涙がこぼれそうになった。
機械のようにある言葉からもう一つの言葉に意味だけを移し変えていくという、通訳学会などが称揚する本物の通訳になれたとは思えないし、今後もなれるとは思えないが、言葉だけの問題で理解し合えない人たちの手助けはできたのではないかと思う。通訳としての私にはそれで精一杯で、それができれば満足なのだ。もっとも、自分の通訳に完全に満足できたことは一度もなく、これからもないだろうが。
最初は、具体的な地名などの固有名詞を使って書いていたのだが、ブログという不特定多数(現状では少数だが)の人に読まれる可能性のある形で表に出すのはよくないような気がして、書き直すことにした。そのせいでただでさえわかりにくい文章が、更にわかりにくくなってしまったかもしれない。
2月12日18時30分。
オロモウツに帰ってきたので昨夜の分を投稿。私のやっているのは多分本当の意味の通訳ではないのだろう。だが、工場などの現場の通訳を使い慣れていない人たちの間で仕事をする際には、それでかまわないのだと開き直っておく。2月14日追記。
2016年02月13日
反省其三(二月十日)
元日に始めた毎日文章を書くプロジェクトも、二月目に入り、ここまで四十日ほど毎日書き続けられているのは、自分としても予想外である。うまくいっている点としては、これに尽きる。なので、今回はよくなかった点を並べ立ててみよう。
文章の質に関しては、正直こんなものかと思うのだが、気になるのが、チェコ語の影響なのか何なのか、指示語が多すぎることである。「これ」「それ」などはあまり使っていないと思うが、「この」「その」を使いすぎているような気がする。これは、文章の中に出てきたものであることを示すために使っていると言うよりは、ただの強調表現になってしまっている嫌いがあるので、以後は乱用しないように気をつけることにする。
また、文末の「のである」が多いのも気になる。前の文を受けてびしっと言い切りたいとき、軽く原因理由を示したいときなどに使うのだが、気をつけないと連続で使ってしまって、なんだかしまらない文章になってしまう。二つ目の段落の冒頭のように、「のだが」で始まる段落も多すぎる。自分の考えを書くのに、いちいち前置きをしていては、言い訳が多いという印象になってしまいそうである。最近は意図して減らしているのだが、一時期は、「けれども」で終わる文も連発していた。
この手の表現は、効果的に使うと印象的な文章になるけれども、濫用してしまうと、意味がなくなってしまうことは肝に銘じておきたい。また、文章の与える感じが、無駄に厳しいというか、偉そうなのも何とかしたい。これは、大して内容のないことを偉そうな文体で書いてよくわからんけどすごいと思わせるような文体を追及していた大学時代の名残だなあ。「トルハーク」について書いた文章では、意図的にやったけれども、意図しないのにこんな文体になってしまうのは、弊害としか言いようがない。
文体に関しては、ここ二、三年仕事上の要請でさまざまな文章を書いてきて、いろいろなタイプの文章を書いたけれども、制約が多かったのでそれほど好き勝手に書けたわけではない。誰かの要請で書いているわけでもないので、好き勝手書けばいいのに、同じような文体になってしまうのが問題なのだ。今後はテーマを見て、時間に余裕のあるときに試行錯誤してみよう。
文章を書くことについての、改善点はもう一つ。これが一番大切な気もするが、表題に入れた日付のうちに書き終わることである。十日の文章を今十一日に書いている時点で、本日も達成不能なのだが、最近はその日のうちにちょっとだけ書き始めて、残りは翌日回しと言うことが多すぎる。以前は、翌日にちょっとだけ書き加えて完成だったのに、最近忙しくなってきたからだろうか。
ブログの使い方に関しては、可もなく不可もなくと言うか、とりあえずはこんなものだろうとしか言いようがない。毎日何らかの形で記事に関係しそうなものを探して、コメントをつけるのは意外と楽しい。スビェラークの子供向けの本を、読むためではなくてインテリアとして売るというのには、驚愕したけれども、家にあった本を読むためにチェコ語を勉強しようと言う子供が出てくるといいなあ。それにしても、チェコのものが手に入りやすくなっているのには、時代の移り変わりを感じさせられる。昔は、手に入れるどころか、情報を集めるだけでも大変だったのに。
そういえば、タグというのを試すのを忘れていた。時間がある時に試してみようか。でも、40以上になってしまった記事全てに設定するのは面倒だ。勝手にタグを付けてくれるような機能はないのかな。もう、面倒くさいのでなくてもいいやという気もしている。
それから、意外なことに、ブログの開設以来誰か彼か読みに来てくれる方がいるようで、本当にありがたいことである。こんな自己満足に過ぎないような文章を、ブログを始めた目的を書き続けるためと答えるような人間の文章を読むのは苦痛ではないかとも思うのだが、毎日投稿の際に、PVの前が0になっていないことが、毎日何とか書き続けられている原動力の一つになっているのは確実なので、これからも続くといいなあ。
読者を想定して書くようなことは、まだできていないし、今後もできるかどうかわからない。そもそも、どんな読者を想定していいのかがわからない。その結果として、チェコやチェコ語のことをあまり知らない方には、何のことやらわからない文章を量産してしまった気もする。これも今後への反省点として、あれこれ考えてみよう。
当初は一月続けられたら、知り合いに報告しようかとも思っていたのだけど、当面はこのままで行くことにした。何かの間違いで知り合いが、このブログに到達した時点で、正体がばれるようなタイトル、プロフィール、ブログのアドレスなので、ばれるまではこのままにしておこう。もっとも、ばれる前に、書き続けられなくなっているかもしれないけれど。
何はともあれ、書くという作業の辛さ、大変さだけでなく、楽しさも感じられているので、しばらくはがんばれそうである。
2月11日12時30分。
明日から出かけて投稿できるかどうかわからないので、予約投稿に挑戦。ブログねたのときには、この広告にすることにした。でももう少しバリエーションが欲しいなあ。2月11日追記。
2016年02月12日
我がチェコ語学習の記(二月九日)
二十年以上も前の話になるが、初めてチェコ語を勉強しようと思って購入した教科書は、旧版の『エクスプレスチェコ語』だった。著者は日本のチェコ語界では並ぶものがないぐらい高く評価された方だったが、この教科書は外国語アレルギーのある私にはまったく合わなかった。ものすごく早い段階で、時制の問題、未来形などが出てきて、英語も時制でつまづいた私にはついていけなかった。日本語、特に古文、漢文に関しては、文法オタクの毛があって国語文法の範囲内なら、どんな文法用語がでてきても楽しめるのだが、外国語の文法用語は日本語で書いてあってもお手上げ状態だったのだ。
それで、この教科書は本棚の肥やしとなり、数年間省みられることはなかったのだが、ある日チェコ語を勉強しようという意欲が高まり、せっかく教科書があるのだから使おう、読んでもよくわからないから耳から入ろうということで附属のカセットテープ(CDにあらず)を注文した。すると、届いたのは新版のほうのカセットテープで、新版が出版されていることを知って、慌てて書店に向かったのだった。新版は、文法事項の配列がきわめて穏当なものだったので、何とか私にも使えそうだった。
チェコ語の勉強を始めるに当たって考えたのは、中学校で英語を勉強し始めたときのことを反面教師にすることだった。小学校や中学校であまり勉強しなくてもそれなりの成績を残せていたので、自分は頭がいいんだという誤解をしてしまった。その結果、基礎よりも応用を求め、最小限の努力で最大の効果を求めるという勉強の仕方をするようになってしまったのだ。英語以外は小学校からの蓄積があったおかげで、それでも何とがごまかせていたのだが、英語だけはごまかせず、成績は下降線をたどり、平均点を取れるか取れないかというあたりに落ち着いてしまった。その結果、高校に入ってからも、大学入試でも非常に苦労させられ、大学に入ったときにはもう顔も見たくないと思うほどだった。
だから、チェコ語を勉強するために、とにかく基礎は覚える。無理やりにでも頭に詰め込む。読むだけでは覚えても忘れそうだから、全部書く、繰り返し書くというのを自分に課すことにした。名詞や形容詞の格変化も、動詞の活用も、覚えたと確信できるまで繰り返し書いた。覚えた後も確認のために何度か書いてみて、間違えた部分があったらまた何度も書いた。一番たくさん書いたのは、男性名詞不活動体の硬変化hrad(城)の単数の変化だろう。複数が出てきたときも念のために単数の変化を書いてから複数の変化を書いたし。そのおかげでこれだけは間違えないという自信がある。一方、書いた回数が比較的少ない中性名詞の特殊変化などは、今でもあやふやになることがあって、ときどき教科書や辞書で確認する必要がある。いや、しないことも多いけど。
そのやり方でじっくりと時間をかけて、エクスプレスを20課まで終わらせたのだが、答の得られない疑問点が山のように出てきてしまった。これは、できるだけ簡潔に易しくという教科書のコンセプト上仕方がないことなのだろう。
そこで、『チェコ語初級』に移行したのだが、こちらはもう、例外事項まで事細かに説明がされていて、一課から順番に疑問点を解消しながら、同じようにひたすら書くことで勉強を進めていった。
エクスプレスにもお世話になったのは確かであるが、やはり我がチェコ語の基礎は『チェコ語初級』によって築かれたと言いたい。エクスプレスはなくても何とかなったと思えるが、『チェコ語初級』がなかったら、私のチェコ語はものにならなかったと断言できる。新しい言葉の勉強を始めやすいように、内容も量も絞って、簡単さを強調する教科書が巷にあふれている中、これだけ内容も説明も濃厚な教科書が出版されたと言うだけでも偉業である。著者と出版社に感謝を捧げておきたい。
その後、友人が発見して教えてくれた出版社の大学書林がやっている語学学校に通って、チェコ人の先生と日本人の先生に直接習い、質問することで、さらなる疑問点を解決することができたし、チェコ語のサマースクールに対して、日本のチェコ大使館が奨学金を出していることも知ることができた。運よくサマースクール用の奨学金がもらえることになって、チェコ移住への第一歩を踏み出すことになったのである。サマースクール以後のことは、長くなったし、またいずれということにしよう。
思い返してみると、基本的な知識を何度も繰り返して書くことで頭に詰め込む勉強をしたのは、中学時代のことだった。毎年夏休みの宿題に、国語の教科書に出てくる新出漢字、新出語彙をノート一冊分書くと言う課題が出ていた。当時はいやいややっていたのだが、そのおかげできれいに書けるかどうかはともかく、漢字の読み書きで苦労したことはない。いやいやながらも毎年やり遂げていたのだから合った勉強法ではあったのだろう。それにもかかわらず、英語の勉強にこの方法を取り入れなかったのは、その効果に気づいたのが大学に入ってからだったからだ。高校時代に面倒くさいと抵抗しながらもいつの間にか頭に詰め込んでいた、古典文法の活用も、漢文の訓読の基礎も大学での勉強に非常に役に立ったし、詰め込み式の勉強はよくないという、どこで身に付けたのかも思い出せない固定観念は完全に払拭されていた。
大学では、英語教育がいい加減だったのと今更勉強する気にもなれなかったのとで、英語を一から詰め込み勉強なんてことはしなかったが、チェコ語を勉強しようと決意したときに、勉強法として詰め込み法を選んだのは、必然だった。
時々、英語もチェコ語のように勉強していたらできるようになっていただろうかと考えることがあるのだが、どうだろう。英語とは相性が悪かったからなあ。とまれ、英語ができるようになっていたら、チェコ語の勉強を始めることはなかっただろうから、どちらもできるようになるという結果には絶対になっていないはずだ。どちらかを選ぶのなら、断然チェコ語なので、英語ができるようにならなかったのは私にとっては、幸運で幸せなことであったのだ。
2月10日23時。
こんなカバーではなかったと思うのだけど、お世話になりました。私が使ったのには結構誤植があったので、直っていることを期待したい。2月11日追記。
2016年02月11日
最も偉大なチェコ人——もしくは不思議の国チェコ三(二月八日)
十年ほど前に、恐らくBBCの作ったフォーマットを購入して、チェコテレビが、歴史上もっとも偉大だと思うチェコ人に関するアンケートを行って番組を作っていた。最も偉大なチェコ人として公式に選ばれたのは、多くの予想通りルクセンブルク家のチェコ王で、神聖ローマ帝国の皇帝にもなったカレル四世であった。しかし、真の勝者は別にいると言われている。それが本稿のテーマとなる人物ヤーラ・ツィムルマンである。
ヤーラ・ツィムルマンは、チェコの偉大な発明家であり、思想家であり、作家であり、画家であり、一言で言えばあらゆることに才能を持った万能の人であったとされる。だから、最も偉大なチェコ人として選ばれるのになんら不足はない。ただ一点だけ、実在しないと言う点を除いては。
チェコテレビでは、アンケートの結果を発表するに当たって、ツィムルマンをどう扱うかについて、BBCに相談したらしい。その結果、架空の人物は対象外であるということになり、選外扱いで、実際にどれだけの票を集めたのかも公開されなかった。ただ、恐らくツィムルマンのほうが、カレル四世よりも票を集めたのではないかと考える根拠としては、アンケートの結果を公表する番組の前に、特別編としてツィムルマンを扱った番組を作成して放送していたことが挙げられる。
義母の話では、最初はラジオ番組として始まったらしい。日本でも知られている「コーリャ」で主役の一人であるバイオリン奏者を演じたズデニェク・スビェラークが、盟友ラディスラフ・スモリャクたちと組んで、どこどこの農場の倉庫から、ツィムルマンが発明した何々、使用していたカニカニが、発見されたというようなニュースレポート風の番組を放送していて、それを初めて聞いたときには本当のことだと思ったと回想していた。
そんな助走期間を経て、ツィムルマンの全貌を明らかにするために撮影されたのが、映画「ヤーラ・ツィムルマン——横たわり、眠りし者」(仮訳)である。この映画は、ツィムルマン関係者が撮影した映画の例に漏れずなかなか複雑な構成である。
映画は、ヨゼフ・アブルハーム演じるツィムルマン研究者がリプターコフという村を訪れるところから始まる。同時にドボジャークに関係する土地を巡る観光ツアーもガイドと共に到着し、ドボジャークではなく、ツィムルマンの記念館に一緒に入る。イギリスからわざわざ訪れたドボジャーク研究者に何を言えばいいのかと尋ねる通訳に、ガイドが返す「ドボジャークの親戚の伯父さんとでも言っとけば」とかいうシーンを挟んで、記念館の案内役の老婆が案内を始める。無愛想な上に、自分で説明せずにカセットテープに吹き込んだものを再生して聞かせ、言葉を発するのは次の部屋に移るときぐらいというのは、当時の実態を示しているのだろうか。
とまれ、映画はこの老婆の案内で記念館を見て回る部分と、ツィムルマンが何をしたのかが直接に語られる部分が交互に現れる形で進んでいく。最初のツィムルマンが現れる部分では、子役が演じているのだが、ウィーンでの子供時代に女の子として育てられ、女子校に通っていたときに、初めて自分が男であることを知ったという事実が明らかにされる。
その後は、スビェラークがツィムルマンを演じ、さまざまな分野での活躍が語られる。例えばチェーホフが、「二人の姉妹」という作品を書いていると言うのに、「ちょっと少ないんじゃない?」と言ったり、エッフェル塔を設計中のエッフェルや、オーケストラと自作の曲の演奏の練習をしているシュトラウスにアドバイスをしたりする。プラハの街を歩けば、ドボジャークなどのチェコの有名人たちと出会って、チェコ人にとっては笑えるらしい会話を交わす。またダイナマイトや、電話などさまざまなものを発明して特許の申請をしに行くが、すべて直前に、実際の発明者たちが現れて申請を済ませたと言われるのである。結局ツィムルマンの特許が認められたのは、女性用のセパレートタイプの水着、つまりはビキニだけという落ちがつく。でも、実際に発明したのは誰なんだろう。
その後も、大きな紙に海を描いてプラハに砂浜を再現したり、ハプスブルク家の子供たちの家庭教師をして思想教育をしたり、皇太子の影武者を使ってチェコの独立を目指したり、どうしようもない戯曲を書いて素人劇団と一緒に飲み屋などで公演をして逃げ出したりしたあとで、姉の後を受けてリプターコフで小学校の先生になる。そして、チェコ人であるための教育を子供たちに施し、リプターコフを出て行くツィムルマンを子供たちが見たのが、最後の目撃例だというのである。
ここで、気になるのはツィムルマンを演じるスビェラークのほおに、T字型の傷があることで、記念館の老婆の頬にも同じような傷跡が残っていることを考えると、老婆はツィムルマン本人なのかもしれないと思わされる。しかも、見学が終わって夜になると、老婆はツィムルマンの吸いさしと書かれた葉巻に火をつけなおして吸い、ツィムルマンのベッドと書かれた展示物のベッドに横たわって眠るのである。
全編を通して外国人にはよくわからない冗談がちりばめられていて、全て理解できているわけではないが、非常に楽しい映画である。どうしてこんなに気に入ったのだろうと考えて、『石の血脈』や『産霊山秘録』などの半村良の小説とつながるところがあるのに気づいた。どちらも、スケールの違いはあるけれども、歴史的事実の裏側に架空の存在を設定することで、その事実の意味を改変していくという点で共通している。チェコの歴史に関して半村良的な歴史読み替え小説を読みたいと思ったが、十分に楽しむためにはチェコの歴史に堪能である必要があることに気づいてしまった。
閑話休題。
ツィムルマンはこの映画で終わったのではなく、その後もスビェラークとスモリャクが中心となって、演劇の形で、さまざまな展開をすることになる。テレビで公演の様子が放送されることがあるのだが、普通は前半部分は、ツィムルマン研究者にふんした俳優達が、自分たちの研究成果を発表する学会の形式を取り、その学会で発表された新発見の戯曲やオペラなどが、後半部分で演じられることになる。この劇内劇ともいうべきツィムルマンの作品(ということになっている)を基に、映画化されたものもあり、ツィムルマン劇場の活動を題材にして撮影された映画もある。
また、スビェラークたちとは別れて独自の活動をしている劇団もあってツィムルマンはチェコ人にとっては、実在の人物以上に重要な自分であるようだ。チェコ各地に、個々にツィムルマンが来なかったことを記念した記念碑というような、半分冗談で、半分真面目に作られたツィムルマン関係の記念物が存在するらしい。
だから、外国人ではあるけれども、私のようなツィムルマンを知る者にとっては、最も偉大なチェコ人として選ばれても何の不思議も感じないのである。私自身、ハベル大統領の後任は誰がいいと思うかと聞かれて、半分本気でツィムルマンと答えたことがある。クラウスやゼマンなんかよりは、スビェラークが、ツィムルマンの名前で、ツィムルマンの思想に基づいて大統領を務めたほうがマシなんじゃないかと思われたのだ。
チェコ的、あまりにチェコ的で、外国人には理解しにくいであろう、このツィムルマンを理解できるようになったら、チェコ語も十分な力があると言えるのだろうが、道は果てしなく遠いような気がする。
2月9日23時30分。
こういう売り方があるとは思わなかったんだけど、スビェラークの本が手に入るのであれば悪くない。この五冊なら、一冊目の「お父さん、うまいわね」(仮訳)だけあれば、十分。この本だけで元が取れるぐらい面白いし。2月10日追記。