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2016年02月10日

ベルナルト——チェコビール列伝(二月七日)



 もう十五年ほど前の話になるが、初めてサマースクールに参加したときに、よく出かけた飲み屋の一つが、ドルニー広場にあるポッド・リンポウだった。この地下蔵のようなお店は、雰囲気がよくビールも美味しいせいか、いつ行っても込んでおり、当時は飲み屋を禁煙にするなんて考える人もほとんどいなかった時代のことで、喫煙者が多く、服に煙の匂いがつくのには閉口させられた。

 このポッド・リンポウで飲めていたビールが、フンポレツという町で生産されているベルナルトだった。このベルナルトというビール会社は、ロディニーという家族のと訳せる言葉を枕につけていることが多いのだが、これは「家族のためのビール会社」ではなく、「家族経営のビール会社」と理解したいところだ。ベルナルトという社名、およびビールのブランド自体が、経営者の名字から取られたものであるし。
 この会社ベルナルトは、チェコの中小ビール会社の雄とでも言うべき存在で、外資に買収されていないチェコ資本のビール会社で、年間生産量が規定量(20万ヘクトリットルだったと記憶している)以下の企業は税制上優遇を受けるという法律があるのだが、この法律の制定に際して、決定的役割を果たしたのが、オーナーのスタニスラフ・ベルナルト氏だと言われている。
 また、生き残りの戦略として高級化路線を選び成功させたことでも、知られている。日本で言うラガービールは、チェコ語でレジャークと呼ばれるのだが、これが各ビール会社で生産する普通のビールの中では、もっとも値段が高く、いわゆるフラッグシップの役割を果たしている。ベルナルトでは、このレジャーク用の瓶に、一般の王冠を使うタイプのものではなく、古風な金具で瓶につながれた栓を使うタイプの専用の瓶が採用されている。一般の瓶よりもデポジットの額が高くなっているのだが、一度は試してみたい、一本手元に置いておきたいと思うのがビール好きの性というものであろう。また、瓶を入れるケースも、一般にはプラスチック製で、24本入りのものが使われるのだが、ベルナルトでは、半分の大きさの12本入りのなかなかしゃれたデザインの木のケースを採用している。これも、デポジットが戻ってこなくていいから一つぐらいは、自分のものにしたくなってしまう。

 そんなベルナルトが、もう限界だと言って、外資を受け入れたのが、2000年代の初頭のことで、チェコのビール業界に詳しい知人が、非常に残念がっていたのを思い出す。確かベルギーのインターブルーの出資を仰いだのではなかったかと思っていたら、昨年末にインターブルーの後身であるインベブと、SABミラーの合併が報じられたときには、インベブがチェコ国内に保持しているブランドはないことになっていた。不思議に思って確認してみたら、インターブルーではなく、ベルギーの別の、ベルナルトと同じく「家族経営の」と枕の付くビール会社であるDuvel Moortgatem社(読み方がわからん)の出資を受けたようである。国際的な大企業ではなく同じような経営理念のところと手を結ぶ当たり、外資の受け入れはしても、ベルナルトの戦略は変わらないということなのだろう。
 最近は、ベルナルト氏自身の顔をラベルにあしらったノンアルコールのビールを発売して、なかなか評判がいいようである。ビールの名前が、日本語に無理に訳すと「さっぱりした頭」というのは、飲んでも酔わないということなのだろう。このオーナー(社長?)自身が表に出て来て、積極的に発言をすることで、ベルナルトのブランドイメージを作るというのも、この会社の戦略の特徴といえるかもしれない。

 ところで、スタニスラフ・ベルナルト氏は、国会議員にも選出されて、日々、チェコのビールのために戦っているはずである。この前、財務大臣のバビシュが、チェコの会社が生産しているビールのうち、レストランや居酒屋で樽から注がれて飲まれる生ビールに関しては、消費税の税率の低い低い基礎的食品のカテゴリーに入れようなどと選挙向けに発言していたけれども、こんなあほな提案の裏にはベルナルト氏はいないと信じたい。

 ちなみに、会社の所在地であるフンポレツは、フリニークという人物で、若しくはフリニークという人物が引っ越した先として有名なので、フンポレツに行く機会があったら、聞いてみると、記念館に連れて行ってもらえるかもしれない。実はフリニークという人物は、チェコ映画「マレチェクくん、ペンを貸してくれたまえ」(仮訳)に名前だけ登場する人物で、夜間学校で先生が出席を取るときに、「フリニーク」と呼ぶと、ある学生が顔も上げずに「フリニークはフンポレツに引っ越しました」と答えるシーンが、何度が繰り返されることで有名になったものである。チェコ人にとっては笑える場面らしいが、私にはあまり笑えない。この非実在人物に関する記念館みたいなのがフンポレツにできたというニュースを見たような気もするので上のようなことを書いたのだが、うーん、チェコ人ならやりかねないんだよなあ。

2月8日18時30分。



 このビール事典、よく見ると表紙にブドバルがある。ベルナルトは、でも載っていないだろうなあ。ベルギーのDuvel Moortgatem社のビールはあるかも。2月10日追記。




posted by olomou?an at 08:03| Comment(0) | TrackBack(0) | Pivo

2016年02月09日

悲劇のストゥデーンカ——あるいは不思議の国チェコ二(二月六日)



 オロモウツからオストラバに向けて電車に乗ると、オストラバ・スビノフに到着する前に、ストゥデーンカという駅に止まることがある。この歴史的なモラビアとシレジアの境界に位置する町は、ここ十年ほどの間に、鉄道事故を象徴する町になってしまった。

 2008年の夏のことであったが、ストゥデーンカで重大な鉄道事故が起こったという緊急ニュースが流れた。橋が落ちて云々と言っていたので、川に架かる鉄橋が落ちる事故だったのかと思ったのだが、そうではなく、鉄道の線路を越える道路の、いわゆる跨線橋が落ちたと言うことだった。
 老朽化した橋の架け替えの工事をしていたところ、橋脚の設計に問題があったのか、工事に問題があったのかはわからないが、載せ替えようとした橋の上部構造を支えきれずに落下し、たまたまその下を電車が走っていたのが悲劇の原因であるという。橋を架ける工事なんて見たこともなかったから、よそで作った車が走ったり人が歩いたりする部分を運んできて、橋脚に載せるというやり方にもびっくりしたが、その工事を電車が走っている時間帯に行っていることに、さらに驚かされた。
 パネル式高速道路として悪名高いD1にも、たくさんの跨線橋が架かっており、こちらも老朽化が進んでいるため、架け替えの工事が進められているが、夜間の交通量の少ない時間帯を使って、全面通行止めにして行われているようである。たまに、工事の時間が予定よりも延びて大渋滞を引き起こすことがあるようだが、それでも安全には替えられないだろう。もしかしたら、ストゥデーンカの事故の後に工事の規則が変わったのかもしれない。
 実は、この事故の前日か、前々日かにオストラバで一仕事片付けるために、このルートを往復していたのだ。工事自体はそのときも行われていたわけで、タイミングが悪ったらと考えるとぞっとするのを禁じえなかった。事故当日にはプラハで世界的に有名なロックバンドのコンサートが行われ、そのコンサートのためにプラハに向かう人が多かったのも、乗客が多く、死者はともかく、負傷者の数が増えた原因の一つであったようだ。オストラバでの仕事の際にちょっと話した人も、コンサートに行くといっていたのだが、確か前日に行ってプラハに宿泊すると言っていたはずだ。

 これだけなら特に、ストゥデーンカが悲劇の町と言われることもなかったのだろうが、昨年の夏に、再び大事故が起こってしまった。今度は2008年の事故とは駅の反対側の踏切で、立ち往生した大型トラックにプラハに向かうペンドリーノが衝突するという事故だった。
 一体にチェコの踏切には、遮断機がついているところは少なく、これでいいのかと思わされるところも多いのだが、事故が起こった踏み切りは遮断機もあって、これで事故が起こったら、鉄道側にはどうしようもないという場所である。実際、大型トラックを運転するポーランド人は、電車の接近を知らせる信号が点滅し遮断機が下り始めているにもかかわらず、たかだか数分という短い時間を節約するために、無理やり踏み切りに侵入し、遮断機が降りきったことでパニックになってトラックを踏切内に停めてしまったらしい。そのまま、前に進んで遮断機を押してやれば、遮断機が折れて踏切から脱出できるような構造になっているにもかかわらずである。
 そこにペンドリーノが、運転士が最後の瞬間にかけた緊急ブレーキも空しく、高速で突入したのだから、惨事になるのは避けられなかった。トラックの運転席の部分ではなく、荷物が積まれている部分にぶつかったのも、そして荷物が鉄板であったのも、被害を大きくしたようだ。事故後のペンドリーノの先頭部分の破壊され具合を見ると、亡くなった方には申し訳ないが、死者の数が少なかったのは、運がよかったとか、不幸中の幸いだとしか思えない。運転士も、マニュアルどおりに、とっさに緊急ブレーキをかけた後には、緊急避難用のキャビンに駆け込むことで、最悪の事態からは、奇跡的に逃れることができたらしいし。
 壊滅的な被害を受けたペンドリーノの先頭車両と二両目は、修復を諦めて、廃車処分にすることも検討されたようだが、結局は二年ぐらいかけて修復されることになった。いずれにしても、定期点検、整備に当てるために必要な七編成目が部分的に欠けることになるため、今後の運行体制に大きな負担になることは間違いない。チェコ鉄道にとっては、いい迷惑としか言いようのない事故だったのである。
 この事故現場の踏切では以前から、信号や遮断機を無視して侵入する車や人が多く、事故が起こるのは時間の問題だと言われていたようだが、高速走行をするペンドリーノとの衝突という最悪の形で事故が起こってしまったということになる。いや、最悪なのは、事故が起こった後も、この踏切に於いても、自分だけは大丈夫だろうと考えて信号が点滅を始めてから踏切に侵入する人や車が跡を絶たないことだ。近道として、線路上や線路脇を歩くことが半ば習慣と化しているチェコでは、踏切に関する危険、安全の意識が日本とは違うのだろうが、こういう事故が起こると、電車の先頭車両に乗るのが怖くなってくる。それに、時間に滅茶苦茶ルーズなチェコ人や、ポーランド人が、ほんの何分かのわずかな時間のために、自分のだけでなく他人の命をも危険にさらすのは、笑止千万としか言いようがない。

 交通省では、チェコの道路上における運転の荒さ、マナーの悪さに対して、安全意識を高めるためのキャンペーンを何年も実施し続けているのだが、こういうのは効果が出るまでには時間がかかるものである。
2月7日15時30分。



 現在では、この本に書かれているよりは、鉄道状況がマシになったと思いたい。プラハ周辺のボヘミアで終わらずにモラビアのほうまで足を伸ばしてくれた著者には、モラビア在住の人間として感謝したい。繰り返すが、チェコの素晴らしさはプラハにはないのである。2月8日追記。




2016年02月08日

ふざけんな、チェコ政府(二月五日)



 以前、出張か何かでチェコに短期間来た人の前で、チェコ在住の知人と二人で延々チェコの悪口を並べ立ててあきれさせてしまったことがある。
「チェコを愛しているから住んでるんじゃないの? それをそんな罵詈雑言言うなんて」
と言われて、われわれがほぼ異口同音に返したのが、
「チェコを愛しているからこそ、悪いところが見えるんですよ」
「チェコを愛しているからこそ、改善してほしいと思って悪口を言うんですよ」
というものだった。
 オロモウツでの生活には十分満足していて、特に不満もないのだが、だからこそ、チェコ政府のシェンゲン圏外の外国人を狙い撃ちにしたとしか思えない政策が、目に付き、耳に障り、気に食わず、ふざけるなと叫びたくなるのかもしれない。ことの大本はEUで、罵倒すべきはEUなのかもしれないが、EUへの悪口は別の機会に並べ立てる予定なので、ここはチェコ政府への不満をぶちまけることにある。

 以前は、就労ビザでも、学生ビザでも、最長で一年のものがもらえていた。留学生はたいてい一年の予定で来るし、日系企業に赴任してくる人が半年で帰るというのもあまりないので、大抵は一年のビザを持ってチェコに来て、二年目も残るのであれば、一年目の終わりにビザの延長、もしくは長期滞在許可の申請をするという形になっていた。それが、シェンゲン領域内に入り、シェンゲン圏が拡大したことで、外国人扱いされる外国人が減ったせいか、最初に発給されるビザの期間が半年に短縮されてしまった。
 チェコ政府の言い分では、当時ウクライナやベトナムから出稼ぎに来る人が多く、さまざまな問題を起こしているから、最初の半年は、試用期間のようなもので、半年問題を起こさなかったら本格的にチェコでの労働を認めるという形にしたいのだと言っていたが、そんなのは大嘘である。それなら、問題が起こりやすい職種だけ、労働許可を半年で出すようにしておけば、ビザも半年しか出なくなるのだからそれで十分だろう。それを留学生も含めたすべてのシェンゲン圏外からの外国人長期滞留者に適用するのは、何か別な理由があるはずである。労働許可やビザの延長の申請にかかる手数料収入を確保するためかと疑ってしまう。

 ビザの期間短縮とどちらが先か記憶が定かではないのだが、ビザを受け取るために、保険が義務付けられた。以前は、日本から来る場合には日本の留学保険にでも加入していれば問題なかったのだが、ビザを申請した期間を通じて、チェコ国内で活動している保険会社の健康保険に加入することが、ビザ受け取りの条件とされたのである。
 これについても政府は、病院で治療を受けながら治療費を払わずに帰国する外国人、特にウクライナ人やベトナム人の数が多く、医療機関の負担になっているので、確実に医療費が支払われるように、チェコの健康保険への加入を義務付けるというのだが、どうなのだろうか。保険に入っていれば、診察料がかからないことに慣れているチェコ人と違って、外国人は多少のことで病院に行ったりしない。だから、保険料がそのまま健康保険の収入になることが多くなることを考えると、医療機関よりも経営の厳しい健康保険に対する財政支援の面もあるような気がする。初年度には、年間5.000コルナ程度の保険料の保険でよかったのが、制度が変わって一時期は20.000コルナ弱の保険が求められていたのである。現在は、学生割引や年齢の割引で10.000コルナ弱の保険に入ってくることが多いようである。それでも、チェコの物価を考えるとなかなか高額の健康保険と言うことになる。
 日本人が、仕事や留学で問題を起こすことは滅多になく、医療費を支払わずに帰国するなんてこともないのだけれども、日本人だけを新しい制度の対象外にするのは、人種差別になるのでできないなどという話も聞こえてきたが、言い訳なんぞする暇があったら、ビザの期間だけでも一年に戻して欲しいものである。

 以上の二点は、それでも、私自身には直接かかわらないので、いいと言えばいいのだが、三点目は、それこそいい加減にしてくれと常々思っていることである。数年前から、日本から送られてくる荷物のほとんどが、税関でとめられ、配達時に税金の支払いを求められるようになった。税金の支払い自体はチェコ郵便が代行する形になるので、委任状を出したり、内容物が何なのかの一覧を書いたりすれば、自分で通関の手続きをする必要はないのだが、知人が送ってくれた著書や、友人が送ってくれたお菓子、ひいては自分が日本から送った私物にまで税金を払えといわれるのは何か間違っている気がする。贈り物などの場合には、所定の手続きを取れば税金を払わずに済ませられることもあるらしいのだが、手続きに何ヶ月もかかることがあるため、税金を払ったほうがましという結論になってしまう。
 本来は、インターネットを通じて、特にアメリカのネットショップで商品を購入して郵送させる人が増え、国内の小売業に影響を与えていることと、国内で購入した場合に国庫に収まったはずの消費税が徴収できないことに対する対策として、EU圏外から送られてくる商品を税関でとめて、消費税相当額を徴収するという制度だったのである。だから、課税対象となる最低金額も設定され、贈り物や、旅行先から送る私物などは対象外になるという話だったような気がするのだが、いつの間にか、ほとんどの荷物が税関で止められ、税金の支払いを求められるようになってしまった。
 最悪なのは、たまに税関でとめられない荷物があるのだが、その規準がさっぱりわからないことである。内容物を贈り物と書いても、価値を安い値段にしておいても、引っかかるときには引っかかって、どういう規準で算出したのかもわからない、へたすりゃ送料と変わらないぐらいの税金を取られてしまうのである。税金を確実に避ける方法としては、2キロ以下にして手紙扱いで送るというものが存在するのだが、それはそれで面倒である。

 結局、政府としては、外国人からお金を取る制度は、選挙に悪影響もないので、気楽に導入できると言う面があるのだろう。今の財務大臣のバビシュと前の大臣のカロウセクは、ことあるごとに対立して批判しあっているが、ある意味同属嫌悪で、目くそはなくその域を出ないのだが、この税金の制度を導入した犯人がカロウセクであるという一点において、バビシュの方がましだと評価できるのである。
 自分の意思で外国で生活している以上、その国の法律を遵守して、住ませてもらっているという謙虚な姿勢でいたいとは思うのだが、時に文句を言わないとやっていられないこともあるのである。だからと言って、外国人を平等に扱えと叫んだり、権利拡大を求めて抗議行動をしたりなんて、みっともないことをするつもりはないのだけれど。
2月6日23時30分。




 適当なものがないので、チェコからはなれて半村良をさがしてみたら、こんなのが出てきた。出版社名も何も書いていないので、どんな本なのかわからないけど、日本にいたら買っていただろうなあ。2月7日追記。




posted by olomou?an at 05:40| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年02月07日

音楽家たちのオロモウツ(二月四日)



 オロモウツのドルニー広場からテレジア門のほうに向かう通りに入る角に、ハナーツカーという名のレストランがある。店名が「ハナー地方の」という意味の形容詞であることからもわかるように、ハナー地方の料理を出す店である。料理が実際にハナー地方独自のものなのか、同じ料理でも独自の味付けや調理法があるのか、なんてことはわからないのだが、メニューがハナー地方の方言で書いてあってなかなか強烈である。壁にも方言であれこれ書いてあったけど、正直ほとんどまったく理解できなかった。普通のチェコ語で「ズビ(=歯)」というのを、「ゾベ」と言われたり書かれたりしても、外国人にはお手上げなのである。

 このハナーツカーは、何度も開店と閉店を繰り返していて、最近の再開店のあとはまだ行ったことがないから、内部は変わっているかもしれないが(名前がレストランから、「ホスポダ」(=飲み屋)に変わっていた。2月5日追記)、この店の入っている建物の壁に、レリーフがはめ込んであって、建物の謂れが書かれている。本当に目立たないひっそりとしたものなので、気付かずに通り過ぎてしまう人も多いだろうが、モーツァルトが、父親に連れられて家族とともにこの建物に滞在したことがあると書かれているのである。
 とはいっても、父親に天才少年音楽家として売り出されて、客寄せパンダとして食い扶持を稼ぐためにドサ回りをしていたころのことだから、あまりいい印象を持って帰ってくれたとも思えない。しかも、ここには書いてないが、もう一ヶ所、モーツァルトが滞在したといわれる建物があって、そちらの説明によれば、ハナーツカーでの滞在環境に不満のあったモーツァルト父が、有力者と交渉して移ってきたのだという。
 その建物が、バーツラフ広場にある、今では大司教関係の文物を集めた博物館となっている建物である。オロモウツの広場の名称「ホルニー(=上の)」と「ドルニー(=下の)」は、土地の上下、高低に基づくものではなく、比較的身分の高い人たちが居を構えていたのが「ホルニー」と呼ばれ、下の身分の人たちが集まっていた広場が「ドルニー」呼ばれるようになったというから、プライドだけは高かったらしいモーツァルト父には、環境がどうこう以前に、「ドルニー」に滞在するというのが耐えられなかったのだろう。
 移転先のバーツラフ広場は、現在でも大司教座関係、キリスト教関係の建物が並ぶところなので、おそらく当時は高位のキリスト教関係者が集まっていて、モーツァルト父を満足させたに違いない。こちらにはハナーツカーと比べると大きく目立つ記念碑が設置されている。それでも、知らなければ見逃してしまうだろうけど。モーツァルトがオロモウツに来る途中の馬車の中で、何とかいう曲を作曲しただのいう話もあるが、この手の神童伝説は真に受けるのではなく、話半分に聞いておくべきものである。その曲が演奏されるの聴いたことないし。

 このバーツラフ広場は、もう一人有名な音楽家とかかわりがあって、それが、モーツァルトの死の謎を、弟子のチェルニー(この名字もあまりにチェコ的で想像を広げたくなるのだが)とともに解決しようとしたベートーベンである(もちろん森雅裕の『モーツァルトは子守唄を歌わない』でのお話)。
 ベートーベンは、当時のオロモウツ大司教と親交があり、大司教が死んだら葬儀用の曲を書き、葬儀にも出席するというようなことを約束していたらしいのだ。それが、ベートーベンの体調などの問題もあって、作曲がなされることはなく、ベートーベンのオロモウツ訪問も約束だおれに終わってしまったということである。スメタナもそうだが、作曲家と耳の問題というのは、余人には推し量りがたいものなのだろう。

 最後に、最後のドイツ系の大物作曲家マーラーを挙げておこう。ホルニー広場のシーザーの噴水のそばの角に、マーレル(マーラーと読んでもいいけど……)という名の喫茶店があるが、これはマーラーにちなんでいるである。この喫茶店と市庁舎をはさんで広場の反対側にあるモラビア劇場で、マーラーが一時期働いていたことがあって、喫茶店が面している広場から出て行く通りの向かい側の建物に、住んでいたらしいのである。
 マーラーという人物は、一般にはドイツ人だと認識されているが、民族的には非常にややこしいところに位置する人物である。出身はボヘミアとモラビアの境界付近の銀山で有名だったイフラバという町の近く、ウィーンに出て音楽の勉強をしているから、ドイツ語ができたことは間違いない。ただ、ウィーンでは田舎者として馬鹿にされ、同じような境遇の仲間たちとチェコ語なまりのドイツ語で話す会というのを開催していたらしい。がんばって気取ったウィーン風のドイツ語で話すのに疲れて、田舎のチェコ語が混ざったような気楽なドイツ語で話す時間を求めたということなのだろうか。
 こういう話は、チェコテレビで、グスタフ・マーラーが大叔父に当たるというズデニェク・マーレル氏が語っていたものである。マーレル氏は、チェコ人として登場し、もちろんチェコ語で話をしていたのだが、マーラーがチェコからドイツ化したのか、マーレルがドイツからチェコ化したのか、答えに悩む問題である。

 ほかにもオロモウツに関係のある有名な音楽家はいるのだろうが、私の関心がある作曲家としてはこの三人ということになる。ベートーベンはちょっと強引だけど、一番のお気に入りだからいいのである。
2月5日14時30分。



 クリムトのベートーベン・フリーズがジャケットに使われていた交響曲のCDがあったはずなんだけど、誰の指揮だったかなあ。スウィトナーも以前は持っていたような気もするのだけど、覚えていないなあ。カラヤンとフルトベングラーは持っていなかったと思う。2月6日追記。






2016年02月06日

いんちきチェコ語講座(四) 場所を表す前置詞



 まだ名詞について書いておきたいこともあるのだが、うまくまとまらないので、先に書きやすそうな、いちゃもんを付けたいことが山ほどあるこのテーマから書いてしまうことにする。いや考え方によっては、この問題も名詞の問題だといえるのである。

 日本語において場所を表すのに、助詞の「で」を使う場合と、「に」を使う場合があるように、チェコ語でも前置詞の「v」を使う場合と、「na」を使う場合がある。どちらも後に来る名詞は六格をとる。
 日本語の場合、「で」と「に」のどちらを使うかを決めるのは動詞である。動作のある動詞は「で」で、動作でなく存在を表す動詞には「に」を使うなどと言われるが、ちょっと考えただけでも、そんな説明で割り切れるものではないことはわかるだろう。
 チェコ語の場合に、決定権を持つのは前置詞の後にくる名詞である。全体的に見ると「v」をとるものの方が多い印象だが、「na」を使うものにも重要な場所がたくさんあり、しっかり覚えなければならない。例えば、普通の名詞であれば、広場、郵便局、駅、トイレ、小学校、高校、大学、島など、地名ではスロバキア、ウクライナ、マルタ、モラビア、ハナー地方などが、「na」を取る名詞となる。
 チェコ語を勉強して身につけた外国人の目には、そこに何らかのルールがあるようには見えないのだが、チェコ人は、わが師匠も含めてルールがあると言う。壁があって屋根があるような場所、つまり建物の中の場合には「v」を使って、そうではない開放的な場所の場合には「na」なのだそうだ。
 なるほど、広場は建物に囲まれてはいても屋根はないから「na」なのだといわれると、通りや道も屋根がないから「na」なのかなと想像できなくはない。アーケードのある商店街はどうなんだと聞きたくなったが、チェコには日本的なアーケードがないので我慢した。郵便局は、今では建物の中で作業しているけど、以前は中庭のような屋根のないところで郵便物の仕分けをしていたから「na」で、駅は昔は駅舎なんかなくて、線路とホームがあっただけだから「na」なのだと言われると納得してしまいそうになる。
 しかし、そんなのはみんな後付けの理由なのだから、納得してはいけない。この論理で行くのなら、その昔チェコのトイレは、建物の中にはなく野ざらしだったことになるのだから。シベリアほどではないにしても、このチェコの冬の寒さでそれはありえないだろう。師匠は女性なので、こんな尾篭なネタで反論するわけにもいかず、野ざらしというのがチェコ語で言えなかったというのもあるけど、反撃には、別の言葉を使うことにした。
 基礎学校(小中学校が一緒になったようなもの)、高校、大学が「na」を取るのだと聞けば、それらをまとめた学校も「na」をとると思うのが普通であろう。しかし、学校の前に来る前置詞は「v」なのだ。同じ学校なのにどうして違うのか質問をすると、学校という言葉には建物を感じるけど、高校などには感じないというのだ。そんなチェコ人にしか感じられないようなものをルールにされても、外国人としては困るしかない。
 しかし、日本人もあまりチェコ人のことを悪くは言えない。助詞の「で」と「に」の区別に関しては、何かのルールに基づいてというよりは、感覚で判断しているはずである。「外国で勉強する」なのに、「外国に留学する」である理由は、文法的なルールではない。あえて言えば、「留学」の「留」は、訓読みでは「とどまる」で、とどまるが「に」を取るから「留学する」も「に」を取るとは言えるが、ではなぜ「とどまる」は、「に」なのかと聞かれたらうまく答えられない。
 「で」と「に」、「v」と「na」の使い分けに、明確なルールが存在しないことを非難するつもりは毛頭ない。理論が先にあって言葉が作られたのではなく、実際に使われている言葉を元に、文法的なルールが帰納的に導きだされるものであることを考えると、ルール化できない、四の五の言わずに覚えるしかない部分が存在するのは当然である。やめてくれといいたいのは、例外だらけでルールにならないものをルールだと言い張ることである。師匠は外国人に教えた経験も豊富な優秀な先生だったが、それでも「v」と「na」の違いは所与のルールであるかのように説明していたからなあ。あれこれ質問を繰り返して、師匠の言うルールが外国人には受け入れづらいものであることは納得してもらえたけど、その過程で、「v」と「na」の使い分けの間違いが激減したのは確かだから、師匠の手のひらの上で踊っていただけなのかもしれない。

 ついでなので、他の納得できない例も挙げておくと、例えばウクライナやスロバキアが、「na」を取る理由として、両国は歴史上独立国ではなく、別な国の一部であった期間が長いからだと説明される。その証拠として、チェコの一部であるモラビアも、「na」を取るでしょと話が続くのだが、実はこれも駄目な説明である。なぜなら同じチェコの一部であるチェヒ(=ボヘミア)とシレジアは「v」を取るのだから。おそらくは歴史上、王国であったとか、公国であったとか、伯爵領であったとか、そういうことが関係しているのだろうとは思う。しかし高々、前置詞の使い分けを覚えるために、複雑怪奇きわまる近代以前のヨーロッパの歴史、しかも個々の地域の歴史なんか勉強する気にはなれない。
 それから、マルタが「na」を取る理由は、同じく「na」を取る島でできた国だからといわれる。アイスランドやグリーンランドが「na」なのも同じ理由だという。しかし、待たれたい。日本やイギリスだって立派な島国だが、前置詞は「v」なのである。そして師匠自信が認めていたのが、アメリカの州で、それぞれに「v」か「na」か決まっているらしいのだが、そこに何かの規則性を見出すのは、師匠にもできないという。それならハナっから、そういうものだから覚えろと言われたほうがはるかにましである。
 チェコ語の「v」と「na」で困っている人は、上に挙げた例を使って先生に質問してみて欲しい。勝てることは請け合いである。もっとも勝てたからといって、それがチェコ語の能力の向上にはつながらないのだけど。

2月4日23時30分。




 こういう基礎を教える本で、すべての場所を示す名詞に、「v」を取るのか、「na」を取るのか明記してくれると、楽なんだけど。いや「na」を取るものだけ注記すればそれでいいのかな。それにしてもチェコ語の教材が増えているのにびっくり。いい時代になったものだ。2月5日追記。




2016年02月05日

ネドベドの後継者(二月二日)



 以前、「 プラハの巨塔 」というチェコサッカー専門のブログがあって、チェコ代表やチェコ人選手について、ものすごく詳しい記事が結構ひんぱんに投稿されていた。私も毎回楽しみに読んでいて、ときどき現地ネタということで、書き込みもさせてもらっていた。そこに半分以上本気で書き込みをしたのが、フィリップ・イーハ=ネドベド説である。あれは、世界選手権か、ヨーロッパ選手権でのイーハの孤軍奮闘ぶりに感動して思わず書き込んでしまったものであった。
 おそらく、イーハを知っている人はほとんどいないと思うが、ここ十年以上にわたってハンドボールのチェコ代表の中心として活躍している選手である。チェコハンドボール界の至宝という言葉がふさわしく、四字熟語で言えば空前絶後の大選手ということになる。今年の夏に、スペインリーグのバルセロナに移籍してしまったが、それまでは十年近くにわたって、ヨーロッパ最強のチーム、ドイツのキールの屋台骨を背負ってきた選手である。

 イーハ=ネドベド説を唱えてしまったころのチェコ代表チームは、センターにイーハがいて、両サイドにノツァルとフィリップ、守備要員として超ベテランのクベシュがいるという今から考えると贅沢な布陣だったのだが、それだけで勝てるほど、ヨーロッパ選手権は甘くない。イーハにマンツーマンでマークを付けて、サイドをしっかり固めて、イーハ以外のセンタープレーヤーにロングシュートを打たせるような守り方をされると、途端にチェコ代表の攻撃力は激減した。それに、現代の高速化したハンドボールでは、キーパーを除けば、六十分フル出場するということはほぼありえず、イーハの体力回復の間の代役が必要になるのだ。
 当時の代表のセンタープレーヤーで、イーハ以外にある程度得点やペナルティーにつながる反則を取ることを計算できたのは、ドイツの二部リーグにいたスクレナークぐらいしかいなかった。決して背が高くて体格に恵まれているわけでも、技術的に素晴らしいものがあるわけでもなかったが、どたどたと相手ディフェンスの間に入り込んで無理やりシュートを打ったり、ディフェンス選手の手を顔に受けて反則を取ったりしていた。見ていて不思議なくらい点が取れて、ペナルティーがもらえたり、相手を退場させたりするのだが、そのプレーは本当に身を削るという感じで、痛々しかった。イーハのロングほどの効率のよさも衝撃もなかったが、イーハが休んでいる間の攻撃を支えたのはスクレナークだった。
 他のセンタープレーヤーは、イーハに次ぐ大砲となれそうな予感を秘めたホラークは、ドイツに移籍をしたばかりでヨーロッパレベルでの戦いになじんでいなかったためもあって、まだ本領発揮とはいかなかった。左利きで背が高くフランスでプレーしているステフリークも、たまに目の覚めるようなシュートを決めるけれども、シュートを打つのを避けてパスすることが多かったし、結局はマークについた相手プレイヤーを引きずるような形で、イーハが強引に、強引過ぎる形でシュートに行かざるを得なくなることが多かった。
 一次リーグの最終戦ともなると明らかに疲れているのが見える体を引きずって、無理やりシュートを決めるイーハの姿に、一度や二度外しても、俺に任せろとばかりにシュートに行くイーハの姿に、サッカー代表で周囲を鼓舞するネドベドの姿を重ねてしまったのである。

 チェコのスポーツドクターがいろいろなスポーツ選手を評して、一番頑丈で痛みに強いのはハンドボールの選手だと言っていた。サッカーの選手が痛がって転げまわって泣きを入れるような怪我でもハンドボールの選手は平然と立ち上がってプレーを続けるし、テーピングでがちがちに固めて無理やりにプレーできる状態にもっていくこともあるから、ハンドボールの選手が痛いとか、プレーできないと言うときには本当に動くのも辛いと言うことなのだそうだ。日本のラグビー選手みたいなのが、チェコのハンドボール選手らしい。
 もっとも、この怪我への対応も良し悪しで、だから選手寿命が短くなって、以前のサッカーのように三十歳を過ぎると、若いころからの無理がたたって体が思うように動かなくなって代表を引退したり、クベシュのように守備専門になったりすることが多いとも言えそうだ。イーハもその例に漏れず、最近は怪我がちで欠場することも増えている。
 昨年の夏に、イーハが、数々の栄光を手にしてきたキールを出て、バルセロナ移籍を選んだとき、金銭的な問題を抱えているために移籍を選んだんだというゴシップ紙の報道があった。イーハがすごいのは、そこで簡単に否定するのではなく、信頼していた知人に裏切られてお金を失ったのは確かだが、移籍の一番の理由は金ではなく選手寿命を延ばすためだと答えていた点だ。北ドイツでの生活は気に入っていたけれども、寒冷に過ぎる気候の中でプレーするよりも、温暖なところでプレーしたほうが怪我も少なくなって選手寿命が延ばせ、またドイツは試合数が多くてスケジュール的に、辛い面があったので、バルセロナを選んだのだと言う。
 こういうメディアへの対応を見ていると、イーハと言う人は頭がいいのだろうと思わされる。インタビュー何かの受け答えでも、出来合いの言葉ではなくて自分の言葉で、聞いている人にわかりやすく話すし、スポーツ選手が連発することで冗談になってしまった「タク・ウルチチェ」(「そうですなんです」とでも訳しておこうか)という表現も滅多に使わない。使うのは、冗談か、インタビュアーの質問がどうしようもなさ過ぎて他に答えようがないときに限られている。この辺はサッカーのペトル・チェフも共通していて、息長く活躍できる選手は、学校の成績どうこうではない意味で、頭がいい人が多いのだろう。
 とまれ、鉄人イーハも永遠にチェコ代表でプレーし続けることはできないのだから、イーハのいるうちに、世界選手権やヨーロッパ選手権でメダルを取ってほしいものである。監督が代表での盟友クベシュとフィリップになって、外国でくすぶっている実績のある選手よりも、国内で大活躍した選手を優先して呼ぶようになったこともあって、期待しているところである。

 ハンドボールの日本代表は、ロサンゼルスオリンピックで期待を裏切られて以来、応援はするけど、期待するのはやめてしまった。「世界のガモー」というのは、結局のところ、本当の世界を知らなかったあのころの日本にたくさんいた「世界の○○」の一つに過ぎなかったのだ。

2月3日23時。




 リンクというものに挑戦。それから、この雑誌だと思う。ロサンゼルスオリンピック前の日本代表の親善試合での好調ぶりを伝えて、メダルが取れたりするかもと思わせてくれたのは。応援するチームの親善試合の結果を信用しなくなったのは、このときの経験が大きい。2月4日追記。





2016年02月04日

壊れかけのモーツァルト(二月一日)



 チェコサッカー界の誇る天才トマーシュ・ロシツキーが、小さなモーツァルトと呼ばれて賞賛されていたのは昔の話、今ではプレーしている期間よりも怪我で欠場している期間のほうが長いという選手になってしまった。そのため、以前では絶対に考えられなかった、健康であっても、いつ怪我をするかわからないから、ロシツキーをチェコ代表から外すべきだという意見も出るようになって、ファンとしては悲しい限りである。今回も昨年の夏のEURO予選のアイスランド戦での負傷から、半年ぶりにようやく復帰したと思ったら、またすぐに怪我をして一月以上の欠場が見込まれていると言う。怪我せずにプレーできたのは四分だけという情報もある。
 以前は、代表にネドベドが君臨していて、ロシツキーがその庇護のもとにプレーしていたころには、線の細さは感じさせたけど、そんなにひんぱんに怪我をしていた印象はない。ここで思い浮かべているのは、2004年のユーロの予選から本戦にかけての歴代最強のチェコ代表の姿だが、あのころの、ロシツキーとコレルの組み合わせはとんでもなかった。ドルトムントでも一緒にプレーしていたおかげか、相手の動きが目をつぶっていてもわかるのではないかと言いたくなるようなコンビネーションを見せてくれていた。恐竜と呼ばれた巨人コレルと、小柄なロシツキーの組み合わせは見ていて本当に楽しかったのである。この二人にネドベドがいれば、チェコの攻撃陣は無敵だと思えたのだけれども……。
 ネドベドが代表から引退して、名実ともにロシツキーのチームになったとき、一番狙われやすい立場に立ったのが怪我を増やしたのかもしれない。気合が入りすぎて無理をしたのかもしれない。それでも、せんなきこととは知りながら、気候も試合内容も試合数も過酷なイングランドに、アーセナルなんかに行かないで、ドイツでプレーし続けていたら、ここまで怪我が多く、欠場が長引くことにはならなかったのではないかと思ってしまう。

 しかし考えてみれば、あれからすでに十二年、代表の第一線で活躍している、いや活躍が期待できるだけでも賞賛に値するのかもしれない。当時の中心選手は、軒並み引退してしまって、今でも代表で頑張っているのは、ゴールキーパーのペトル・チェフぐらいしかいない。当時は控え組で期待の若手だったプラシルでさえ、ベテランになって、ここ数年は代表におけるモチベーションの低下を指摘されているのだ。
 当時代表にいたと記憶する若手選手たちの中でも、バロシュは、チェコに帰ってきて、いまいちだったオストラバを出てムラダー・ボレスラフで再スタートを切ったばかりだし、オロモウツ育ちのロゼフナルも代表に呼ばれなくなり、ここ二、三年はフランスのリールで控えに甘んじていたし、ネドベドの後継者と目されていたポラークは、あれ今どこにいるんだろう。トルコに行く行かないでクラブともめていたのは覚えているけど。ガラーセクの後継者ヒプシュマンは、ウクライナからスパルタではなくヤブロネツに戻ってきて頑張っているけれども完全に代表復帰という感じでもない。
 しかし、ここに名前を挙げた選手たちは、それでもまだ、代表に定着してある程度の活躍をしたのだから幸せなのである。期待されながら期待だけに終わった選手や、一瞬の輝きに終わってしまった選手たちの山を考えると、みんな期待通りに活躍してくれていたらロシツキーの負担も減って、リハビリも余裕をもってやれたのかなと思ってしまう。
 ロシツキーと並ぶ天才と言われたシマークは、若くして移籍したドイツで、大金を手にしたせいか身を持ち崩しサッカーどころではなくなっていたらしい。チェコに帰って来てから、アルコール依存症と言われていたけれども、実はギャンブル依存症であることを告白し、治療のプログラムに参加していた。テプリツェ育ちのボスニアの英雄ジェコの後釜として活躍したフェニンも、ドイツでいろいろ問題を起こした挙句に、チェコに帰ってきたが、全くいいところがなかった。
 ここ数年の間でも、プルゼニュから何人もの選手がドイツに移籍したが、ピラシュも、イラーチェクも、ライトラルも、ペトルジェラも、みんな怪我や監督に嫌われたなどの理由で、一瞬だけの活躍でチェコに戻ってくる羽目になっている。ボヘミアンズ・プラハが生んだ最後の才能であるバーツラフ・カドレツも大して活躍できずにスパルタに戻ってきたりしていたが、結局デンマークに移籍するらしい。スラビア出身でコレルの系譜をひく電柱型フォワードのペクハルトは、ドイツでプレーしている期間は長いけどほとんど試合にも出ていない。
 最近、ドイツで本当に活躍できている選手はダリダしかいないのである。ちょっとタイプは違うが、このプルゼニュでホルバートの薫陶を受けたダリダが、チェコ代表が長年にわたって探し続けてきたロシツキーの代役ということになるのかもしれない。ロシツキーにネドベドがいたように、誰かダリダの脇で支えてくれるベテランがいればチェコ代表は今年のEUROでもいいところまで行けそうな気がするのだが、ロシツキーは怪我だし、プラシルはちょっと頼りないしで、適任者が見つからないのが残念である。ロシツキーが元気ならそれが一番なのだけど。

 ロシツキーの能力と、これまでの代表への貢献を考えたら、本人が希望する限り、怪我をしていない限り、いや、リハビリ中でも代表に呼んでもらいたいものだ。前任者、前々任者が、まずロシツキーありきの戦術でチームを作って、ロシツキーが欠場するとどうしようもなくなったのと違って、今の監督は、ブリュックネル的な戦略家なので、ロシツキーあり、ロシツキーなしのどちらでも、対応できるチームを作るはずだ。もう一度、ヨーロッパの舞台で、躍動するロシツキーを見たい。それがかなえられれば、結果はどうでもいいけど、結果もついてくるような気がする。
 一月書き続けたということでスポーツネタを解禁。思ったより時間がかかってつらかった。

2月2日18時。




 マリー・モーツァルトはもちろん、こちらのモーツァルトもオロモウツを訪れて滞在したことがあるのだ。まだ稚い子どものころの話らしいから、本人の記憶に残っていたかどうかはわからないけど。2月3日追記。



2016年02月03日

プラハ嫌い(一月卅一日)


 多くの日本人にとって、チェコと言えばプラハで、プラハが大好きと言う人も多いのかもしれないが、私は嫌いである。観光客としての立場からなら魅力を感じなくはないが、チェコに住んでいると、その俗悪性とプラハ中心主義には頭に来てしまうことが多い。
 師匠は、プラハはいい意味でも悪い意味でもチェコの典型だと言っていたが、悪い意味でなら、メーターを使わないボッタクリタクシー、数字を使わないで小さなローマ字で書かれたチェコ人向け料金の脇にその何倍もの大きさで外国人料金が数字で書いてある観光名所、ビザ延長の申請者を人間とは思っていないとしか考えられないような対応をする外国人警察などなど、いくらでも思いつくのだが、いい意味でとなると観光名所がたくさんあることぐらいしか思いつかない。その観光名所も、あることないことでたらめを並べ立てる似非観光ガイドがセットになっているので、必ずしもいい意味でとは言い切れないのだが。旧市街広場のヤン・フスの像を、カレル四世の像だと言ってみたり、聖バーツラフの騎馬像をヤン・ジシカだと断言してしまうようなガイドがいくらでも転がっているのがプラハの町なのである。

 昨日、ほぼ半年ぶりに出かけたプラハは、いつものプラハだった。旧市街の歴史的な建物の中に、きらびやかな商店が入り、中にはショッピングセンターのようにされてしまった建物もある。中世と現代の融合と言えば言葉はきれいだが、実際は、現代の醜悪性が近代以前を凌駕して、派手なばかりの街になってしまっている。昨日は冬だったから、それほどでもなかったが、夏に行くと、歩道にまではみ出して商品が並べられそれを見るために立ち止まる人のせいでまともに歩けない。そんな雑然性が中世の象徴だというのなら、むしろ中世の醜悪さと現代の醜悪さが同居していると言うべきなのだ。
 プラハの旧市街にだって、一本通りを外れれば、落ち着いたたたずまいのいい意味で近代以前を感じさせる通りはある。そんな通りを何も考えずに歩き回るのは気持ちのいいことであるが、ちょっと間違えると、別にプラハで買う必要のないお土産もどきが並んだ土産物屋に突き当たり、何が悲しくてチェコで、マトリョーシュカ人形や、恐らくは中国製の英語でプラーグと書かれたTシャツを買わなければならないのだろうかと思わされることになる。

 道行く人の顔を見て国籍を判断するなんてことはできないけれども、プラハの中心で耳に飛び込んでくる言葉は、ほとんどチェコ語ではない。ごくたまにチェコ語が聞こえてきても、例のプラハ的な発音なので耳が聞くのを拒絶してしまう。昨日は午前十一時ぐらいから午後四時半ぐらいまでプラハにいたのだが、その間に聞いた一番まともなチェコ語は、駅の構内放送を除けば、一仕事終えて昼食に入った中華料理店の中国人かベトナム人の店員さんの話すものだった。ちょっとした訛りはあったけれども、私のモラビア育ちの耳にも聞きやすいチェコ語だった。プラハで一緒に集まって話をしたのが日本人ばかりだったせいもあるのだが、この町の中心部は、またチェコ語ではなく、外国語の町となろうとしているのである。
 昔こんなことを書いたことがある。プラハではプラハ人は外国人に対して英語で話しかける。外国人がチェコ語で返しても、チェコ語で話してほしいと言っても、英語で話し続ける。ブルノでは外国人に対して英語で話しかけるが、外国人がチェコ語で返せば、チェコ語に切り替えてくれる。それに対して、オロモウツ人は、相手が外国人であろうとなんであろうとチェコ語で話しかけてくれる。わからなそうな顔をしたら、ゆっくりもう一度言ってくれる。
 チェコ語のことを世界で二番目に美しい言葉と言ってはばからない私にとって、オロモウツというのはある意味で理想の町なのである。それに、レギオジェットが予想外に気に入ってしまった理由の一つも、乗務員が、下手に英語で話しかけるような無駄な努力をせず、最初っからチェコ人相手であるかのようにチェコ語で話しかけてくれて、チェコ人に勧めるように、チェコ語の新聞や雑誌を勧めてくれたからかもしれない。
 最後にこれはプラハのせいというわけではないのだが、ニュースなどでプラハが出てくると必ずのように、「首都プラハ」という言い方がなされるのも、ものすごく気に食わない。プラハが首都だということにけちをつける人間などいるまいに、特別な事情があるわけでもないのに「首都、首都」連発するのには、何の理由も意義も見つけられない。アメリカのワシントンD.C.を意識しているのかもしれないが、あれにはワシントン州との区別をつけるという立派な理由があるはずだし、チェコ語でも、ただ「ワシントン市」と言うことが多いような気がする。

 そんなこんなでチェコ人の間にもプラハを嫌っている人は多く、特にライバル関係にあるモラビアの首都ブルノ(「首都ブルノ」とは言われない)では、酔っ払ってプラハナンバーの車にいたずらをする人が多いので、プラハ出身や在住ではないのにプラハナンバーの車に乗っている人の中には、方言で「私はプラハから来たんじゃないんです」なんて書かれたステッカーを貼っている人も多いらしいのである。ブルノではプラハ人に理解できないようにという理由で、半ば人工的に作られたハンテツという方言もあるという。
 モラビアに住んでいると、プラハ在住の日本人には申し訳ないけど、プラハ万歳よりは、プラハなんかくそ食らえといいたくなることのほう多いのである。
2月1日22時30分。




 この読んだことのない本の著者には悪いけど、プラハは中に入っていく街ではなく、ブルタバ川の両岸の上から眺めおろすべき街だと思う。それなら、外国語しか聞こえてこなかろうが、チェコ人の対応が冷たかろうが、実害はないし。2月2日追記。



posted by olomou?an at 05:07| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2016年02月02日

ペンドリーノ賛歌のつもりだったのだけど——チェコ鉄道事情(一月卅日)



 今日は、久しぶりに事情があってプラハに行くことになったので、最初はいつものようにチェコ鉄道の最新、最速のペンドリーノを使おうと思っていたのだが、所用に適当な時間の便がなく、いろいろ考えた結果、レギオジェットという私鉄を使うことにした。私鉄と言っても、チェコはいわゆる上下分離で、路線を管理する会社と電車を走らせる会社が分かれているため、JR的存在であるチェコ鉄道も、レギオジェットも、もう一つのレオエキスプレスも同じ路線を走っているのである。
 今回はどうしても移動時間を使って仕事をこなす必要があったので、一番高い座席を選んだ。レギオジェットでは、下からスタンダード、リラックス、ビジネスというクラス分けになっているので、ビジネスと言う奴を試してみたのだ。運賃は、往復の金額で、ペンドリーノの二等を使ったときより50−60コルナ高いだけだから、大した違いはない。だが、乗ってみてびっくり。座席は大きく、テーブルも、ノートパソコンを持ち込んでも問題なく使えるぐらいには広く、ペンドリーノでは、毎回窮屈な思いをしながらこなすことになる仕事も、今回は思いっきりお店を広げてすることができた。コンパートメント内に四席あるのに、他の乗客がいなかったおかげでもあるのだが、レギオジェットの最安値の席の倍近い額を出して快適さを求める人はそんなにいないだろうし、いたとしてもペンドリーノよりは、広いスペースを使えるのである。それに、それぞれの座席脇にはコンセントもついているので、パソコン仕事を持ち込むこともできる。
 これは、ペンドリーノがプラハ−オストラバ間で試行運行を始めたとき以来、これまでほぼ十年にわたって続いてきたペンドリーノと付き合いも終わりに近づいているのかもしれない。仕事がなくて移動だけなら……、いや、レギオジェットで無料で提供されたコーヒーのほうが、ペンドリーノで購入するコーヒーよりはるかに美味しかったから、ペンドリーノを選ぶ理由としては、プラハまでの乗車時間が15分ほど短いということしかなくなってしまった。

 十年ほど前に、当時チェコ鉄道が最新鋭の新世代車両として導入し運行を始めたのが、イタリアの、さらに十年以上前の最新車両だったペンドリーノである。ヨーロッパでは国ごとに鉄道の管制システムが違っており、特に旧共産圏であったチェコへのローカライズには、チェコ鉄道側の想定を超える時間がかかったようで、車両の納入後、主要幹線であるプラハ—オストラバ間での試行運行にこぎつけるだけでも数年の時間を要した。当初は鉄道の線路が老朽化していたこともあって、その実力を十分に発揮できてはいなかったのだが、それでもプラハ−オロモウツ間の所要時間はかなり短縮されたのだった。
 当時、週一でオストラバに通訳のアルバイトに通っていた私は、帰りだけはペンドリーノを使うという贅沢をしていた。もともと直通であれば一時間ちょっとしかからなかった路線なので、時間的にはそんなに大きく短縮されたわけではなかったが、八人掛けのコンパートメントに詰め込まれるのと比べたら、個々の座席が独立していて背もたれが倒せもしてはるかに快適だった。競合他社も参入しておらず、現在と比べるとサービスも何もあったものではなかったが、比較的まともな車両の多かったICやECなどの電車でも特急料金を取られていた時代なので、座席指定券にお金を払う価値は十分以上にあったのだ。
 しかし、初期のペンドリーノに関して記憶しているのは、むしろ問題が起こったときのことだ。特別仕立てで別窓口まで設置されていた座席予約のシステムがダウンして、適当な席に座れと言われたり、寒さでドアが凍りついて開かなくなった車両が出たり、なぜかトイレが使えなくなったり、オストラバ行きのペンドリーノが人身事故を起こしたために、折り返しの車両がなく代替のおんぼろ車両に乗せられた挙句に、それが二時間半も遅れたり、定期運行を始めたばかりのペンドリーノは問題山積だった。そもそも座席指定券の料金も、あったりなかったり、上がったり下がったりして、混乱を極めていた。そんな生みの苦しみを乗り越えて、運行に問題がなくなり、チェコ随一の高級電車として定着し利用客も増えるころには、オストラバでの仕事が終結し、以後は年に一回か二回、プラハに出かけるときに使うだけになっていた。
 2010年前後に、私鉄のプラハ−オストラバ路線への参入が現実的になるころから、車内でミネラルウォーターが無料で配られるようになり、その後新聞や雑誌なども配布されるようになるなどサービス面でも大きく向上した。車内販売のコーヒーは高級化して価格が上がってからもインスタントだったが。
 実は、以前参入直後ぐらいに、レギオジェットを使ったことがあるのだ。乗ったのがスタンダードで、運賃は多少安かったけれども、サービスは似たり寄ったりだったし、座席がペンドリーノよりも余裕がなかったこともあって、二度と使うことはなかったのだが。便によって微妙に運賃が変わるのも、使う気になりづらかった理由のひとつで、もう一つの私鉄のレオエキスプレスは、料金体系がさっぱり理解できないために、一度も使っていない。

 毎年、時刻表が改定されるたびに、少しずつプラハ−オロモウツ間の所要時間が短くなり、もうすぐ二時間の壁を破りそうである。ペンドリーノの導入以前は、三時間以上はかかっていたことを考えると大きな進歩である。しかも、所要時間が短くなったのはペンドリーノだけではない。ペンドリーノの実力をある程度発揮させるために、線路の改修工事が進められ、プラハ−オストラバ間の多くの部分でチェコ国内で許容されている最高時速である160kmで走らせられるようになったおかげで、他の急行、特急などの平均速度も上がり、停車駅の多い一部の電車を除いて、二時間半未満でプラハからオロモウツまで着けるようになった。その恩恵を私鉄のレギオジェットもレオエキスプレスも被っているのである。もちろんペンドリーノがなくてもいずれは鉄道網の近代化は行われただろうが、ペンドリーノの存在によって促進されたのもまた事実であろう。
 頻繁にプラハに行くわけでもなく、多少切符の値段が高いのはまったく問題はないのだが、コーヒーの味さえ何とかしてくれたら、今回発見したレギオジェットのビジネスではなく、ペンドリーノを選んでしまうだろうと思うぐらいには、思い入れがあるのである。未練だなあ。

1月31日17時。




 ここでチェコ国内の鉄道の切符は買えるのかな? 日本で切符を手配してから来る人たちはいるので、どこかで買えるのだろうけど。2月1日追記。




2016年02月01日

チェコ映画「トルハーク」に於ける爆発を利用した施肥法の蓋然性について(昔書いたもの)


 この映画は、チェコ映画の最高傑作でありながら、そのあまりにチェコ的な内容のため国外では、特に日本では、ほとんど知られていないというのが実情であろう。そのため、まずこの映画について簡単に説明を加えておきたいと思う。

 簡単に言えば、映画撮影の様子を描いたコメディーである。若い脚本家の書いたシリアスな脚本をもとに、頭のねじが何本か抜けているような映画監督が、ミュージカル映画を撮影するのだ。映画は冒頭のキャスティングのシーンから始まり、有名な俳優たちが次々に階段を下りてきて一つだけ台詞を言うシーンや、犬が跳ね回ってボクシングの真似事をするコミカルなシーンを挟みながら、次々に配役が決まっていく。ちなみに、この映画の中で映画を撮影するという構造は、1980年代に文学の世界で流行った「物語の入れ子型構造」とか「シアター・イン・シアター」などの文学理論と通じる面があるので、文学理論の勉強にも役に立つ映画なのである。
 一方、映画内のミュージカル映画は、上から下まで白ずくめの農業技師ティハーチェク氏が、新しい農業技術を伝えるために舞台となる村を訪れるところから始まる。村を紹介するために、突如として小学校の子供たちをはじめ、村人たちが歌を歌い始める辺りがミュージカルということになるのだろうが、そのストーリーは正直理解不能である。しかし、それで構わないのだ。なぜなら、撮影シーンとミュージカル内のシーンが入れ替わり立ち替わり現れるため、そもそも最初からわかり難いし、湯水のごとく無駄に予算を使う監督のせいで、資金不足に陥り、プロデューサーも資金集めを拒否したため、途中でシナリオの大幅な改変を余儀なくされることになるからである。
 もともと結婚を拒否していたはずの男寡の森林管理官を結婚させるために、存在していなかったティハーチェク氏の姉を、出会いの場を設定するために郵便配達員として登場させ、ティハーチェク氏と結婚させるために、小学校の先生は貴族のように振舞うプラハの肉屋と別れさせる(肉屋というのも実は設定の変更だったのかもしれない)。森林管理官は、三人の娘のために、花婿を狩る。そのうち、一人は文字通り鉄砲で打ち落とすのである。そして全部で五組の合同結婚式で映画内映画はハッピーエンドを迎えることになる。
 映画本体の方は、野外映画館に於ける公開初日に出演者と関係者の舞台挨拶が終わった後、映画の上映が始まる。途中までは順調だったのだが、嵐に襲われ、観客は雨に濡れ、強風でスクリーンはびりびりにやぶれ、上映が終わる頃にはスクリーンの役割を果たさなくなってしまう。映画監督は、「最後が最後が」と残念そうに叫ぶのだが、観客たちにとっては嵐もまた映画の仕掛けの一つだと思われたようで、「最後の嵐もあの人たちが呼んだのかなあ」などと満足げな感想を漏らしながら野外映画館を出て帰途につくのである。

 さて、この映画では、二つの爆発シーンが重要な役割を果たしている。一つは、村内の不満分子でティハーチェク氏を敵視する人物が火薬を盗み出して村の広場の建物を爆破するという、映画内映画の山場の一つとなるシーンを撮影する場面である。爆発物の準備が整った後、取材を受けて上機嫌になっていた監督が、撮影用のカメラの準備が整っていない状態で、取材陣に撮影の方法を説明するために、爆弾のスイッチを入れる合図をして見せる。当然のように、カメラが回らないままに、爆破のスイッチが押され、この撮影のために建てられた(ということになっている)広場の建物が次々に爆破され、なぜか小学校の先生と生徒たちが出てきて歌を歌いだす。この事件のせいで、深刻な予算不足に陥り、最終的にこの爆発シーンはカットされることになり、上述の通り、シナリオは大幅に改変され、ストーリーはさらに混迷を極めていくのである。
 もう一つは、映画内映画の主人公であるティハーチェク氏が、新しい農法、具体的には肥料のまき方を指導するシーンである。爆発物を畑に等間隔で置いていき、その上に山のような肥料(牛糞に藁が混ざったもの)を積んでいく。そして、人びとが十分に離れたところで、爆破スイッチを入れる。轟音と共に肥料が一面に飛び散り、一部は見学していた小学生にかかる。実験は大成功ということで華麗に頭を下げるティハーチェク氏は、人々の喝采を浴びる。

 これまで私は、このシーンは社会主義時代の農業政策に対する風刺、もしくはカリカチュアだと思っていた。農業体験など自宅の猫の額のような小さな庭で野菜を何度か育てたことがあるに過ぎない私には、こんな肥料のまき方が実際に役に立つとは思えなかったのだ。だから、これは馬鹿馬鹿しいことを国民に押し付ける共産党政権に対する隠れた批判なのだろうと考えていた。当時は検閲というものもあったらしいが、いかに検閲官の目をかいくぐって政府批判をするかが、文学や演劇などに携わる人たちにとっての腕の見せ所であったのは、戦前戦後の日本を考えれば想像に難くない。
 ところが、先日、日本の国語教育の歴史についての授業のレポートを書くために必要だったので、昭和30年代に出版された中学生向けの国語の教科書を読んでいたところ、中谷宇吉郎氏の文章が目に入ってきた。中谷氏は、北海道大学の教授で雪の研究で有名な人である。北海道は雪が多く、雪をかぶった畑では何もできないので、春になったらできるだけ早い時期に雪を融かしてしまうことが、農家にとっては非常に重要である。しかし、降り積もった雪は白く太陽の光を反射してしまうので、日が当たっても融けにくい。そこで、雪に黒い土をかぶせて融けやすくするのだが、人の手で一か所一か所、土をかけていくのは労力がかかり過ぎる。
 この問題を解決するために中谷氏たちのグループが思いついた方法が、ティハーチェク氏の肥料のまき方と同じなのである。爆発物の上に肥料ではなく、黒い土を積んで、爆発させることで土をある程度均等にまくという方法で、畑の雪が解けるのを早めようというのである。実験の結果、かなり有望なデータを取ることができ、今後は農作業の実態を考えながら実際にどのようにこの方法を活用していくのか、研究が必要だということで中谷氏の文章は終る。
 考えてみれば、北海道とチェコは雪が多いと言う点では同じである。同じようなことを考えた人はチェコにもいたかもしれない。ばら撒くのが土であれ、肥料であれ、爆発物の使い方は大差ないだろうことと、知る人ぞ知る『腹ハラ時計』によれば、肥料から爆弾が作れるらしいことを考え合わせると、『トルハーク』の中に出てきたこの農法は、実際に使われていたのではないかと思われてくるのである。そして、そのように考えると、映画を見終わった観客たちの満足そうにもらす感想が一層生きてくる。すなわち、他が全てありえることだからこそ、嵐さえも映画の一部だと観衆は感じることができたのではないだろうか。そして、ある観客のもらす「我々、チェコ人ってのは、こういうのがうまいんだよね(意訳)」という言葉も、爆発物による施肥法も対象にしているのではないかと思われるのである。そうなると、監督の「最後が最後が」という言葉も、不満の表れなどではなく、実は「終わりよければすべてよし」という、世界中どこにでもありそうなことわざそのままに、最後まで計算通りだったという、してやったりの言葉だったのかもしれない。




 事情があって他人の振りをして書いた文章だが、これ以上に「トルハーク」についてかけるとも思えないので、同じ映画関係の次に載せておく。もう一本「トルハーク」関係の文章があるのだが、そちらは後悔するかどうか検討中である。また、
 『チェコ語の隙間』には、もっとちゃんとした「トルハーク」論があるので、興味のある方は読まれたい。「トルハーク」がきっかけでチェコ語の勉強を始めて、「トルハーク」が理解できるようになる人がいたら、私は幸せである。1月31日追記。





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