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2016年03月22日
『羊皮紙に眠る文字たち』『外国語の水曜日』(三月十九日)
この二冊のうち、最初に手にしたのが『羊皮紙に眠る文字たち』のほうだったのは確かに覚えている。ただ、どのようにしてこの本と出合ったのかが、思い出せない。当時はすでにチェコ語の勉強を始めていたはずだから、チェコ関係から広がって、スラブ関係の本にまで手を伸ばしていた我が蔵書癖の一環として勤務先で注文したのだったか、本屋めぐりの最中に題名に惹かれて新宿の紀伊国屋あたりで衝動買いしたのだったか思い出せない。
高校時代から大学時代にかけての学問的好奇心にかられていたころ、言語学はある意味であこがれの学問であった。高校時代は田舎のことでたいした情報が入ってくるわけでもなかったが、小説や漫画などに時々出してくる言語学的な、少なくとも田舎の高校生には言語学的だと思えた説明には、わけがわからないなりに胸を躍らせたものだ。たしか「ピジン」とか「クレオール」なんて言葉の存在を知って、ものすごく興奮したのもこのころのはずだ。実際には「ピジン」「クレオール」のことを誤解していただけで、大学に入ってからこちらが期待したようなものではないことを知って、がっかりすることになるわけだが。
遠く離れたインドとヨーロッパの言葉の間の関係性を証明したインド・ヨーロッパ語族という仮説、もしくは物語には、ロマンを感じたのだが、日本語とタミル語に関係があるいう説には、面白そうだとは思ったけど、違和感を感じた。そしてその違和感は、大学の授業で出てきたソシュールの学説に対して感じた違和感とどこか通底するような気がする。その後、「言語学的な」日本語に関する文章を読むにつけ、だから何なんだという不満を禁じえなかった。理論のための理論、仮説のための仮説、まず理論があってそれに基づいて日本語ができたと考えているかのような書きぶりが多いのも不満を増幅し、言語学系の本は、題名が面白そうでも読まなくなったのが大学時代の後半のことだった。
それから十年ぐらいたって、言語学者黒田龍之助氏の本を手に取ったのは、偶然という言葉では片付けたくない。『羊皮紙に眠る文字たち』に出てくる言語学的な事項は、期待外れの言語学ではなく、私が夢見ていた言語学だった。書かれた文字資料からロシア語の発音の変化を跡付ける部分を読んだ時の感動は、あれから廿年近く経た現在においても色あせていない。題名に「文字たち」とあるように、文字、つまり書かれたものを対象にした内容は、昨今流行の書き言葉よりも話し言葉を重視する風潮にうんざりしていた私にはぴったりと来るものだった。
読みやすい文体で難しい内容のことでもわかりやすく説明されているというのは、称賛されるべきではあろうが、考えてみると、売り物なのだから当然である。その当然のはずのことが当然でないのが当然になっているのが、学者でございと威張っている人たちの書く本なのだ。読者の側にも、本の難しさ、わかりにくさを歓迎する面がないわけではないから困ったものである。俺ってこんな難しい本読んでるんだよ、すごいでしょなんて言われても、困ってしまう。ただ、わが身を振り返るに、自分にもそんな時期がなかったとは言えない。困ったものである。時間の無駄だったとは言いたくないが、もっと有意義な読書が出来たのにとは思う。
話を『羊皮紙に眠る文字たち』に戻すと、何よりもかによりも、オロモウツでのサマースクール体験が書かれているのが素晴らしい。以前からチェコなら、オロモウツが一番いいという意識は持っていたけれども、チェコを知っている人でも、オロモウツなんて何にもないところじゃないかという人も多く、まさか、ここで出てくるとは思わなかった。後に、チェコ語のサマースクールに出かける際に、プラハ、ブルノ、オロモウツという三つの候補があったのだが、迷うことなくオロモウツを選んだのには、この本も一役かっているのである。
『外国語の水曜日』を発見したときには、すでに著者のファンになっていたので、迷わず購入した。何よりも心を打ったのは、工業系の大学で特に卒業に必要でもない外国語の学習に取り組んでいる学生達の姿だった。ロシア語だけでなく、さまざまな言葉を、さまざまな理由で、さまざまな方法で、苦労しながら勉強を進めて行く姿には、感動を通り越して賞賛の気持ちを抱いた。外国語アレルギーを乗り越えてチェコ語の勉強を進めていた自分の姿に重ねてしまったせいもあるのだろうが、恥ずかしながら、この面白い本を読んで、涙をこらえていたのである。
私は、この本を読んで、学問の本質、学ぶということの本質を、見出して、いや、思い出してしまったのだ。学問とは、自らの知りたいという欲求のためにするものであって、何かの目的のためにするものではない。単位のために、卒業のために勉強するなんてのは、不純だと感じて、国文学専攻でありながら、漢文や歴史の勉強に力を入れていた学生時代を思い出させると同時に、英語もできない自分のような人間がチェコ語を勉強し続けてもいいのだ、本格的に勉強してもいいのだと思わせてくれたのが、『外国語の水曜日』に登場する学生さんたちだった。
この本を読んだときには、チェコに来てチェコ語を勉強しようという気にはなっていたから、チェコに来たことをこの本のせいにするつもりはない。でも、チェコ語の勉強がつらくなったときには、この本を読み返して、この本のことを思い出して、心の支えにしていたのである。
『羊皮紙に眠る文字たち』も『外国語の水曜日』も、中学校から英語が得意で、大学では英文科や、外国語学科を選んだというような、言わば外国語エリートよりも、英語なんか見たくもないという外国語アレルギーの人に読んでもらいたい本である。一読すれば、外国語を勉強する気にはならなくても、必要に迫られて英会話教室なんぞに通うのの何倍もの得るものがあるはずである。著者のすごさは、自身が多くの外国語に堪能でありながら、外国語が苦手で苦しんでいる人々への敬意を、優しさを忘れないところにある。
この二冊を、私が日本で購入できるタイミングで出版してくれた版元の現代書館にも感謝を捧げておきたい。それもこれもあれも、すべて含めて、偶然なんかではない。こは運命なりけりとぞ思うべし。
3月20日15時30分。
本について書いた文章でありながら、本の内容はあまりわからないというのが私の文章たる所以である。3月21日追記。
投稿した後で、オロモウツについて言及されたのが、『羊皮紙に眠る文字たち』だったか、『外国語の水曜日』だったか判然としなくなってしまった。確認しようにも貸し出し中で手元にない。好きな本を貸し出して人に読ませる悪癖がいけないのである。返却されたら、確認の上修正を加える予定である。3月22日追記。
2016年03月21日
夏時間(三月十八日)
ヨーロッパには、サマータイムというものが存在して、冬と夏とでは時間が一時間変わるということは、日本にいるときから知っていた。日本とチェコでは、普段は時差が八時間なのに、夏時間の時期は七時間になる。しかし、廿年以上前に初めてチェコに来たときも、十年以上前に始めてサマースクールに参加したときも、夏時間というものを意識することはなかった。日本に電話することもなかったし、後者の時代でもまだインターネットを使ってはいなかったので、時差そのものを意識する必要がなかった。それに滞在中はずっとサマータイムが適用されていたので時間が変わるという体験をすることもなかった。
ただ、今思い返すと、サマータイムの弊害だったのかなと思うことが一つある。それは、最初にチェコに来たときに、夕食を食べるのが遅くなったり、食べそびれたりすることがあったことだ。当時は、何故だか覚えていないのだが、お天道さんの出ているうちは酒は飲めねえなんて、ことを考えていたので、日没まで歩き回ってから食事に向かうことにしていた。サマータイムの期間なので、日没が、本来は夕方の七時であっても、サマータイム上は八時になってしまう。当時こちらに来たのが五月だったこともあって、日に日に日が長くなっていき、夕食前に疲れ果てて食べる気すら起こらなくなって、結局は意味不明のモットーを破棄することになるのだが、チェコが緯度が高いところにあるとはいえ、夏時間になっていなかったらこんな苦労はしなかったと思いたい。
では、最初にいつサマータイム制度の洗礼を受けたかというと、留学のためにチェコに来て一年目の十月末のことである。チェコ語の師匠からも事前に説明を受けていたので、土曜の深夜、もしくは日曜の未明の、午前二時が三時になるというのはわかっていた。日曜は特に何も感じなかったのだが、月曜日の授業の開始が、実質一時間遅くなるのは非常に嬉しかった。師匠の授業の関係で、毎日午前八時からという拷問のような時間割だったのだ。
しかし、人間というのは慣れる生き物で、一週間もすると朝が一時間遅くなった効果は消えてしまう。また早起きに苦しみながら、夕方の日の入りが早くなっていることに気づいた。これには、参った。だんだん日が短くなって日没も早くなっていたところに、一時間分一気に早まったのだから。それでも、自分の精神状態が普通だったら、そこまで辛いと思うことはなかっただろう。
九月の半ばから、外国人のためのチェコ語のコースで勉強を始めて一ヶ月ちょっと、二回目のサマースクールを経て、多少大きくなっていた自信が完全に打ち砕かれたころだったのだ。勉強すればするほどわからないこと、できないことが増えていくような気がして、師匠にも授業中に泣き言をこぼしたりした。わからないということが、わかるようになった分だけ出来るようになっているのだという師匠の最初の慰めの言葉は、あまり心に響かなかったが、そのあと「勉強すればするほど出来なくなる」というのが言えるようになったのは成長じゃないのと言われたのには、なるほどと思った。
それでも、朝起きて、授業に行って、図書館で夕方まで勉強して、外を見ると薄暗くなっているのに憂鬱になるのを禁じえなかった。それで、毎日夕方の五時ぐらいになると勉強をやめて、夕食がてら飲みに行くようになった。素面では夜勉強する気力が湧かないから、酒の力を借りて、お酒を飲みながら、飲み屋で宿題をやっていたのだ。酔っ払って書いた答には間違いが多く、師匠に笑われてしまっていたが、このころ飲んだくれていたのは、腎臓結石で救急車を呼ばれたときに医者に言われたことだけが原因ではない。
長く辛い冬を乗り越えて、初めて迎える三月の終わりに、夜が短くなったのも辛かった。秋に起きる時間が一時間早くなったのにはすぐ慣れたのに、一時間早く起きるのにはなかなか慣れなかった。電力の節約につながるとか、仕事が終わった後の時間を家庭での仕事に使えるとか、いろいろサマータイムが導入された理由はあるみたいだけれども、早起きが苦手な人間には、一時間長く眠れたほうがありがたい。
秋の日が短くなっていく際の憂鬱さは、今でも感じるが、以前ほどではないし、インターネットの発達で、世界中が二十四時間何らかの形でつながっている現在、サマータイムなんかやめてしまって、毎年一時間ずつ時間を遅らせて行くというのはどうだろう。夜が一時間長くなり、一時間長く眠れる日が年に一回あるのは、なかなかのご褒美のような気がするのだけど。昼夜逆転なんてことにもなるから、実現は無理だろうなあ。
サマータイムのせいで、年に二回時計を進めたり遅らせたりする必要があるのは、チェコ人でも困ることがあるらしい。ある年、友人がサマータームが始まったのに気づかないで、待ち合わせの時間に一時間遅れて、相手に死ぬほど怒られたと言っていた。そんなことを考えると、制服に夏服と冬服があるように、時計の針は動かさないで、夏の始業時間と冬の始業時間とか、夏のダイヤと冬のダイヤという形で、一時間ずらすようにしたほうが効率がいいような気がする。
とまれ、今週末にサマータイムが始まると思い込んでいたので、こんな記事を書いてしまったが、実は来週末だった。まあ、アメリカではすでにサマータイムが始まっているらしいから、ヨーロッパとアメリカの中間を取って、この週末に書いたということに、アメリカなんか行ったことも、これから行く気も全くないけれども、しておこう。
3月19日21時30分。
サマータイムに関係あるのかな? 3月20日追記。
2016年03月20日
スパルタ勝った(三月十七日)
うちに帰ってテレビを付けたら、サッカーのヨーロッパリーグの試合をやっていて、一瞬目を疑ってしまった。ローマでの試合なのに、スパルタがラツィオに勝っていたのだ。前半20分ぐらいで2点差で勝っているというのは、去年の夏のチャンピオンズリーグの予選でCSKAモスクワに逆転されて敗退した悪夢を思い出させるけれども、2点取られても延長にはならずにスパルタの勝ち抜けになるという状況は、十分以上に期待を感じさせた。
先週のプラハでの試合が1対1の引き分けに終わった後に、イタリアでは勝ち抜けがほとんど決まったというような報道がなされていたというから、イタリアのチームがなめてかかって来てくれたというのもあるのかもしれない。油断している相手にも勝てないことの多かった一昔前を考えれば、強い、ヨーロッパでも戦えるスパルタの復活と言っていいのかもしれない。なんてことを考えながら見ていたら、前半終了間際に、若手のFWユリシュが3点目を取って、とどめを刺した。
結局スパルタが3−0で勝って準々決勝に進んだのだが、スパルタがヨーロッパのカップ戦でここまで活躍するのは久しぶりのことだ。チェコに来たばかりの頃に、チャンピオンズリーグの一次リーグを勝ち抜けて春まで生き残ったことが2回あるはずだ。コトルバが監督だったころは、ぎりぎりで勝ち抜けて、春の最初の相手に敗退したけれども、その前のフジェビークが監督だったころに、二次リーグにまで進出して、敗退はしたけれども、強豪相手にも善戦したという年があったはずだ。
調べてみたら、コトルバ監督のもとに一次リーグを突破したのは2003-04年のシーズンで、ラツィオに勝って次のステージに進んだという点では、今年と同じだったようだ。ただこのシーズンのスパルタの試合は、チャンピオンズリーグに限らず、国内リーグの試合もめちゃくちゃつまらなかった。最後のラツィオとの試合も、がちがちに守りを固めて点が入りそうな気配はなかったのに、最後の最後にキンツルが点を取って勝ち抜けを決めたんじゃなかったかな。終わった後に、イタリアの選手たちから、ものすごくけなされていたのを覚えている。
フジェビークのもとに二次リーグに進んで、プラハでレアル・マドリードに善戦したのは2001-02年のシーズンだったようだ。この年の試合は、テレビで見た覚えがないからチェコでは放送されなかったのかもしれない。大学の学生寮に住んでいたころでテレビは部屋になかったから見られなかっただけかもしれないけど。ヤロシークがスパルタで活躍してたのって、このころだったのかなあ。
1999-2000年のシーズンにも、イバン・ハシェク監督のもと一次リーグを突破して二次リーグに進んだみたいだが、このころはまだ日本にいたので、全く印象にない。サッカーの雑誌をたまに買って読んでいたはずなのだけど、当時はまだ、ヨーロッパのサッカーが現在ほどの注目を集めていなかったこともあって、あまり情報が入ってこなかったのだろう。インターネットも今ほどあって当然のものではなかったし。
このころのスパルタは、ヨーロッパのカップ戦で調子がいいと、国内リーグで成績が振るわず、国内リーグで勝ち続けているとヨーロッパでは惨敗するというのを繰り返していた。だから、チャンピオンズ・リーグで勝ち進んでも、国内の成績悪化で監督が解任されていたので、監督の交代が多かった印象がある。コトルバ時代以降は、チャンピオンズ・リーグの予選を突破して、本戦に出場できれば御の字という状態が続いたのも、監督の変え過ぎと無縁ではないだろう。最近それではいけないと気付いた新しいオーナーが、比較的長く監督を任せるようになって、スパルタのヨーロッパのカップ戦での戦績が上向きになっているのは喜ばしいことである。
スパルタはヨーロッパリーグの準々決勝に進出したのだが、チェコのチームが準々決勝に進出したのは、UEFAカップのリベレツ以来のはずである。シュタイネル、ネズマルが前線にいて、中盤に失われた天才コロウシェクが君臨していたあの頃のリベレツは、本当に信じられない勝ち方をするチームだった。リベレツのおとぎ話とか、夢物語とか言われていた快進撃は、ロシツキーとコレルのいたドルトムントにぶつかって終わってしまう。この試合は飲み屋のテレビで見たのを覚えている。最後は、力尽きたという形で大敗したのだが、ご苦労様と言いたくなるような負け方だった。
でも、これ、いつのことだったんだろう。ということで確認してみたら、2001-02年のシーズンだった。ということは、スパルタがチャンピオンズ・リーグで活躍し、リベレツは当時のUEFAカップで活躍していたということか。今のチェコサッカーの現実を考えると、私がチェコに来たばかりだったころというのは、実に贅沢な時代だったのだ。
3月18日18時。
オロモウツに続いてリベレツも出てきた。今いち、用途がわからないのだけど、他の町のもありそうだ。3月19日追記。
2016年03月19日
チェコで見る日本のテレビ(三月十六日)
先日何気なしにテレビのチャンネルを変えていたら、どこかで見たことがあるような番組が放送されていた。懐かしい日本のアニメーションで、中学生か高校生のころに番組を見たのか、雑誌で見たのか覚えていないが、シャーロック・ホームズを犬にしてしまった『三毛猫ホームズ』と『迷犬ルパン』を足して二で割ったようなアニメだった。とはいっても、小説二作とは違って登場人物がみんな二足歩行する犬? なのだけど。
チェコのテレビでは、意外と日本の作品も放送されている。ホームズは、チェコテレビの子供向けチャンネルDで放送されたものだが、NHKのドキュメンタリーが、チェコテレビ第二やプリマ・ズームで放送されることがあるのは、以前にも書いたとおりである。ただNHKインターナショナルなるところの販売のため、日本語が聞けないのは残念である。
「ポケモン」が「ポケーモン」となって放送されていたのは、ある意味当然だとしても、日本の映画が放送されることも多い。子供向けのアニメーションは吹き替えで、一般の映画は字幕付きで放送される。宮崎駿の「千と千尋の神隠し」は、「ファンタジーへの道」と名前を変えて何度も放送されているし、一度「ハウルの動く城」をちらっと見たときには、こんなものまで放送されるのかと思った。黒沢明の作品や、北野武の作品が放送されるのはともかく、最近の藤沢周平の原作をもとにして作られた時代映画が何作か放送されたのには、この手の話が外国人受けするのだろうかと不思議だった。
字幕付きの映画を見るときには、チェコ語の字幕を読みながら、日本語の台詞を聞いてチェコ語の勉強に役立たせようと考えるのだが、たいていすぐに頭が痛くなってやめてしまう。それに聞くのか読むのかどっちつかずになって、話が理解できなくなるのが問題だった。それでも、チェコ語の字幕はわりとちゃんとしているからいいのだ。以前まだスロバキアテレビが見られたころに何度か見たスロバキアの字幕付きの日本の映画は、ところどころ台詞があるのに字幕が出てこないところがあってびっくりした。字幕を作る人が聞き取れなかった部分は省略したとかそんなことなのだろう。
閑話休題。
チェコでは、上記のホームズもそうだが、何でこんな番組がといいたくなるような日本の番組が放送されていた。今でも時々再放送で見かけるのだが、初めてテレビ番組表で、「Takešiho hrad」と書かれているのを見たときには、直訳して「タケシの城」だから、時代劇か、ファンタジーか、とにかく何かのドラマだろうと思った。それが、日本の番組っぽいから見てみようとチャンネルを合わせたら、何と、映画監督になってしまった北野武が、まだ、ビートたけしだったころにやっていた「風雲! たけし城」だった。
誰が、こんな番組を外国に売り出そうと考えたのだろうか。放送されているから需要はあったのだろうし、以前ノバで放送していた視聴者参加型のバラエティ番組のモデルというか、放送のきっかけになったりしたのかもしれない。ある意味で後に世界中で流行ったリアリティ・ショウみたいなもんだし、受けたのかな。とまれ、日本でもろくに見たことのない番組に、チェコで出会うというのは奇妙な体験ではあった。
昔チェコ語の勉強していたころに、知っているかどうか、何度も聞かれた日本のテレビ番組がある。チェコ語での題名は「ゴロー——白い犬」というらしいのだが、題名を聞いても、引越しの際に飼い主の家族と別れ別れになってしまった飼い犬が、北海道から海を渡って飼い主を探す話という内容を聞いても、まったく心当たりがなかった。その後、西村寿行という作家の『黄金の犬』というハードボイルド小説を原作にして撮影されたドラマだということはわかったのだが、そんな番組は存在することも知らない。民放が二つしかない田舎では、東京辺りでは放送されて誰でも知っている番組であっても、放送されないことも多いのだ。もっとも、この番組に関しては、知り合いの日本人の中に知っているという人は、誰もいなかったのであるが。
そしてもう一つ、時代劇が放送されたらしい。映画ならともかく、連続ドラマで時代劇というのも不思議な気がするが、チェコ語では「はやぶさ何とか」という題名らしい。「ゴロー」のほうは、ある程度の年齢の人なら、みんな知っている有名なドラマだが、こちらはチェコ人でも知らない人の方が多いマイナーな番組だという。見たことがあるという知人の調査によれば、日本では1980年代の初めに放送された「幻之介世直し帳」という時代劇で、はやぶさというのは主人公の怪盗の名前なのだそうだ。いや、でも、これも知らんぞ。
日本人の知らない日本の番組をチェコ人が知っているというのも不思議な話だ。いや、不思議でも何でもないのか。文学作品でも日本では忘れられた作家の作品が、翻訳を通してチェコではよく知られていることもあるし、最近の日本の芸能界の動向なんてまったく興味がないから、日本に関心のあるチェコ人のほうが、私よりよっぽど詳しいなんてこともあるに決まっているだろうし。
3月17日23時30分。
2016年03月18日
オロモウツ土産(三月十五日)
チェコから日本にお土産を買って行くとなると、ぱっと思いつくのはボヘミアガラスだろうか。でも、重い。飛行場の荷物の扱いを考えると割れるかもしれない。では、カルロビ・バリの薬草酒ベヘロフカはどうだろう。これも重い。アルコールの国内持ち込み制限があるのも痛い。ガラスなら、グラスなどの大きなものではなく小さなガラス細工、ベヘロフカなら、普通の500mlの瓶ではなく50mlぐらいのごく小さい瓶を買えば、問題なさそうである。でも、そこにオロモウツ的な要素はまったくない。
では、オロモウツ的な、オロモウツを代表するようなお土産として、何があるかと考えても、思い浮かんでくるものがない。もちろん、観光案内所などに行けば、オロモウツの名所の写真の印刷されたT-シャツや、マグカップなどの、いかにもという観光グッズは手に入るけれども、旅行者が旅の記念に買うならともかく、オロモウツ在住の人間がお土産にするには物足りない。
いや、必要なのは自分が日本に持って帰るお土産ではなかった。日本からお客さんが来てくれたときにお礼に差し上げるお土産を考える必要があるのだ。初めてオロモウツに来られる方なら、上記の観光グッズ的なものの中から、趣味のいいもの(ほとんどないけど)を選んでもいいし、ガラス細工の小物でもいいのだが、大抵はすでに何度かオロモウツに来たことがある人だ。
瓶の重さや、割れることを考えなければ、地元のビール、ワインなどはいいお土産になるだろう。しかし、オロモウツには、以前も書いたがビール工場はない。いや、工場の建物はあるがビールの生産はしていないし、二つあるミニ醸造所では瓶や缶の持ち帰れるビールは作っていない。ワインも一番近いワイン生産地はおそらくクロムニェジーシュになってしまう。
ところで、チェコでオロモウツ名物と言ったときに、多くの人が思い浮かべるのは、トバルーシュキとか、シレチキといわれる一種のチーズである。オロモウツ地方の特産であり、EUの生産地に基づく特別商標にも登録されているはずである。EUのこの原産地商標も、チェコのような新しい加盟国には対応が厳しく、なかなか認められないのに対して、昔からの加盟国が申請するとすんなり通ることが多いのは気のせいだろうか。とまれ、このオロモウツのトバルーシュキと同じようなチーズは、オーストリアのどこかでも作られているらしいのだが、2010年に原産地に基づく商標として認定されたのである。
ただ、このチーズをお土産にするには問題が一つある。それはにおいである。チーズが好きな人は気にしないのかもしれないが、なかなか強烈なにおいがする。ちゃんと密封してスーツケースに入れないと、一緒に入れた服などににおいがついてしまって大変なことになる。以前、師匠がトバルーシュキを使った揚げ物は、自宅のキッチンで作ってはいけないと言っていたことがある。においがひどくて、一週間ぐらいは作るものにトバルーシュキのにおいがついてしまうのだそうだ。ただ、最近のものはそれほどひどい匂いはしないような気もする。それでも相手を選ぶお土産であることには変わりはない。ここまで書いて日持ちの問題もあることにも気づいてしまった。いや、長持ちするかもしれないんだけど。
このトバルーシュキは、オロモウツを中心としたハナー地方で作られてきた伝統的なチーズだが、現在生産している会社は、オロモウツではなくリトベルから更に北に行ったところ、ボウゾフからも近いロシュティツェという村にある。ここには、トバルーシュキの博物館もあり、世界で最初のトバルーシュキの自動販売機もあって、トバルーシュキ好きの人たちが訪れているらしい。最近、オロモウツの街中では、トバルーシュキを使ったデザートを食べさせる洋菓子屋も見かける。トバルーシュキとデザートの組合せがうまく想像できなくて、入ったことはないけれども、好きな人にはたまらないのだろう。
さて、話をお土産に戻そう。結局、誰にでも喜ばれるようなオロモウツ的なお土産をさがすのは大変なのである。だから、オロモウツ的を、モラビア的にちょっと広げて、自家製の蒸留酒スリボビツェを差し上げることが多い。これも好き嫌いの分かれるお酒だが、日本に帰ってからお客さんにチェコのお酒として勧めると喜ばれるらしいので、今のところこれが一番のお土産ということになる。
それとは別に、おいしいビールを飲むのがお土産と称して、モリツや聖バーツラフの醸造所に一緒に飲みに出かけることが多いのだけど。
3月16日17時30分。
半分以上冗談で「オロモウツ」で検索してみたら、こんなのが出てきた。オロモウツ市の紋章入りだけど、お土産にするのはどうなんだろう。それはともかく、楽天侮るべからずである。3月17日追記。
2016年03月17日
複数の迷宮(三月十四日)
チェコ語も、ほかのインド・ヨーロッパ系の言語と同じで、単数と複数をしっかり区別する。人称代名詞でも、私と私たちは別だし、一般の名詞でも単数と複数はそれぞれ別の格変化をする。名詞の前につく形容詞なども単数と複数では違った格変化をする。そして主語が単数か複数かで動詞の活用形も変わる。単数複数の概念があいまいな日本語で生きてきた人間にとっては、その区別をしっかり意識できるようになるだけでも大変だった。
それでも、双数とか両数とか言われる形のあるスロベニア語に比べれば、ましといえるかもしれない。双数というのは、私、私たち二人、私たち三人以上というように、単数と複数の間に出てくる、二人だけのときの特別な形を言い、動詞の活用形が、チェコ語の六つから三つ増えて九つあるということになるらしい。
しかし、この双数は、チェコ語にもないわけではない。動詞の活用には影響しないが、人間の体に二つあるもの、つまり目、耳、手、足の格変化に、両目、両手という場合の、「二つ」の特別な形があるのである。ただし、たとえば同じ「oko(=目)」という言葉を使っても、人間の目を指さない場合には、二つでも普通の複数形を使うというからややこしい。しかも、この双数の七格の語尾「-ma」が、口語的な表現では、複数七格の語尾「-mi」や「-y」の代わりに使われるようになっているので、時々どちらが正しいのかわからなくなる。
そして、更に厄介なのが、数詞が加わった場合である。たとえば五人の男の人がいて、それを数を示さないで、「男たちがいる」と言えば、名詞は男の複数一格、動詞は三人称複数の形を使うことになる。これはいい。しかし、「五人の男がいる」と言おうとすると、名詞は男の複数二格、動詞は三人称単数の形を使わなければならないのだ。そして過去形にすると、動詞は中性の単数の過去形を使うことになる。
チェコ語では、数詞がついた名詞は、一の場合はもちろん単数、二から四までは複数の扱いになり、性は名詞の本来の性で使う。しかし数が五以上の場合、それから「たくさん」という意味の言葉が付く場合には、名詞は複数二格となり、単数、名詞の本来の性が男性でも女性でも、中性扱いとなる。「五人の男がいる」と名詞の前に数詞が出てくる場合だけでなく、「男が五人いる」と後から数が出てくる場合にも、名詞を複数二格で使わなければならないので、数を使う場合には、事前に決めておかなければならないのである。
この問題を解決するために、いや頭に叩き込むために、一時期は日本語で話すときでも、「一コルナ」「二コルニ」「三コルニ」「四コルニ」「五コルン」「六コルン」……と、チェコでの形に合わせて使っていた。日本語でチェコ語のまま使える名詞としては通貨ぐらいしかなかったので、あまり練習にはならなかったのだけど。
この五以上が、複数二格で中性単数の扱いになるというのを覚えても、それで終わりではない。一格、二格、四格で使う場合には、名詞は複数二格でいいのだが、それ以外は複数の本来の格で使わなければいけない。これには苦しめられた。いや、今でも苦しめられている。五以上は複数二格という意識が強すぎて、数詞の格変化はできても、名詞を正しい格で使えないことが多いのだ。これは、いつまでたっても完璧にはできるようにならない予感もある。諦めたらそれでおしまいなのだけど。
他にも、単数と複数で性が変わる名詞「dít?(=子供)」や、単数が存在せずに複数でしか使わない名詞「toalety(=トイレ)」などもあって、複数には悩まされ続けているのである。複数の各変化は、単数ほど書き込んでいないので、覚えきれていないというのも、原因の一つではあると思うのだけど。
これからも、名詞の複数は間違えながら使っていくことになるのだろう。あーあ。
3月15日10時。
このよた記事よりは、この本の方が役に立つと思う。3月16日追記。
2016年03月16日
大統領選挙 その一(三月十三日)
以前まだチェコ語を真面目に勉強していたころ、ハベル大統領の二期目の任期が終わって、初めてハベル大統領以外の大統領を選ぶ選挙が行われた。チェコの大統領の任期は五年で二期までしか務められないという規定があるため、1993年にチェコ共和国の初代大統領に就任したハベル大統領は、2003年の大統領選挙には出馬できなかったのである。ただ、二期目は健康に大きな問題を抱えながら仕事をこなしていたようなので、出馬できてもしなかった可能性はある。
当時、勉強の一環として、大統領選挙に関する新聞記事を読むことにした。チェコの一般紙として一番有力な二つの新聞「ムラダー・フロンタ(=青年戦線? 別名ドネス=今日)」と、「リドベー・ノビニ(=人民新聞)」で、まず実際に選挙が行われる前の、選挙制度の説明の記事から読んだのだが、見事に理解できなかった。自分のチェコ語のせいかと思って、当時習っていた先生のところに記事を持ち込んで、授業中に意味がわからないんだけどと言って、先生に渡したら、ひとしきり眼を通した後、俺もよくわからんと言われた。その後、記事から先生が理解したことを説明してくれたけれども、実際の選挙のやり方とはちょっと違っていた。
何が問題だったのかというと、大統領選挙の説明で、一回目の選挙、二回目の選挙という言い方と、一回目の投票、二回目の投票、という言い方が混在していたことだった。もしかすると一回戦、二回戦と訳せる言葉もあったかもしれない。とにかく、この二つ、場合によっては三つの表現が同じ物を指すと思ってしまったのだ。だから一回目の投票(一回戦)で各議院で一番多くの票を集めた候補者が二回目の投票(二回戦)に進むとあって、同時にゼマン氏は一回目の選挙には立候補しないが、二回目の選挙に立候補すると書いてあったのを読んで、途中で候補者を入れ替えていいのかと不思議に思ってしまった。
実際に行われた大統領選挙は、一回目の選挙で最大三回の投票が行われるというもので、三回の投票で当選者が出なかった場合には、期日を改めて二回目の選挙を行うというものだった。それまでの選挙では、二回目の投票が行われたことはあったが、後日改めて二回目の選挙となったことはなかったため、チェコ人の先生にもよくわからなかったらしい。
2003年の大統領選挙では、ODS(市民民主党)はもちろん元首相で党の創設者でもあるバーツラフ・クラウス氏を擁立したが、もう一つの大政党である?SSD(社会民主党)は、党内で派閥抗争が激化していて元首相のゼマン氏を擁立するグループとそれに反対するグループに分かれて争っていた。ゼマン氏が一回目の選挙には出ないといったため、反ゼマングループの中から候補者が出て、もちろん共産党と、キリスト教民主同盟を含む四党連合からも候補者がでて、第一回目の投票には四人の候補者が立候補した。二回目の選挙に進んだのは、下院で票を集めたODSのクラウス氏と、上院で票を集めた四党連合の上院議長ピットハルト氏だった。当時政権与党であった?SSDは党内をまとめることができずに、惨敗を喫したのである。この一回目の選挙では、二回目の投票でも、三回目の投票でも、クラウス氏のほうが多くの票を集めたが、当選の条件を満たすほどではなかったので、後日二回目の選挙が行われることになった。
二回目の選挙には満を持してミロシュ・ゼマン氏が登場してきた。おそらく一回目で惨敗した?SSD内部の反ゼマン派に、自らの力を見せ付けようという目論見だったのだろう。しかし、ゼマン氏は、クラウス対ゼマンの一騎打ちにしたくなかったという理由で四党連合から立候補した女性に負けてしまう。四党連合は上院に多くの議員を抱えていたので、こちらで四党連合の候補者が勝ち残るのは予想されなかったことではない、しかし、ゼマン氏が上院、下院で獲得した票数は、予想をはるかに下回ったのである。この結果の裏側には、?SSDの反ゼマンの中心人物だった当時の首相シュピドラ氏と、後に首相になるグロス氏の存在があるとも言われている。この?SSD内部の分裂をどうにかしようとしていたころのシュピドラ首相の青ざめて同時に鬼気迫るような病的な表情は見ていてかわいそうになるほどだった。このときも、クラウス氏が最多の票を集めたが、選出には到らず、最後の第三回目の選挙が行われることになる。
三回目の選挙は既にハベル大統領の任期が切れて、大統領不在の状態で行われた。この大統領不在の状態が続いたまま、国会議員の任期が切れたらどういうことになるんだろうと楽しみにしていたのだが、クラウス氏と?SSDが擁立したヤン・ソコル氏の選挙では、両院の議員総数の過半数を獲得したクラウス氏が三回目の投票で大統領に選出された。
結局当時の大統領選挙の制度は次のようなものだった。第一回目の投票では、上院、下院別々に集計し、それぞれの議院で最多数の票を獲得した候補者が第二回目に進む。上院、下院で最多数を獲得した候補者が同じ場合には、二回目に進むのは一人だけとなり、最多の票を獲得した候補者が、上院、下院でそれぞれ過半数を獲得した場合には、その時点で大統領に選出される。
二回目の投票では、上院、下院それぞれに集計し、両方の議院で過半数の票を獲得した候補者が大統領に選出されれる。二回目に進出した候補者が一名の場合には、承認するか否かで投票を行う。そして三回目の投票では、両院の票をあわせて集計して、過半数の票を獲得した候補者が大統領に選出される。
三回目の投票は、単純に両院の議員数を合計した数の過半数でいいので、候補者が二人の場合には、勝ったほうが過半数だろうと考えたのだが、残念ながら棄権するという権利もあるため、選挙が一回で終わらなかったのである。2003年だけではなく、クラウス氏と、?SSDが擁立したシュベイナル氏の一騎打ちとなった2008年の大統領選挙でも、一回の選挙では決着がつかず、二回目の選挙が行われた。
この延々と続く国会での大統領選挙に嫌気が差していたのか、2013年の選挙からは、国民が直接投票する直接選挙へと制度が変更された。こちらは二回目の投票に進むのは、一回目の上位二名だけで、二回目では得票の多い方が大統領に選出されるという形になったので、大分すっきりした。さすがに直接選挙で有権者数の過半数を条件にすることはできなかったようである。これやると、絶対、いつまでたっても選出されないし。
2013年の選挙では、政界を引退していたゼマン氏が復活して、当時の外務大臣シュバルツェンベルク氏と共に二回目の投票に進み、二回目の投票で選出されることになる。このときの選挙の経緯については、また稿を改めることにする。
3月14日23時30分。
大統領にちなんで、ゼマン大統領の大好物だというベヘロフカを。3月15日追記。
2016年03月15日
ベチェルニーチェク(三月十二日)
午後七時から始まるチェコテレビのニュースの前に、他に見るべきものがなかったので、久しぶりにチャンネルをベチェルニーチェクに合わせた。以前はニュースと同じ第一放送で六時四五分から放送されていたので、チャンネルを第一に合わせて見るともなく見ていることも多かったのだが、子供向けの専用チャンネルDが誕生して以来、第二放送とDに移動してしまって、目にする機会がめっきり減っていたのだ。
このベチェルニーチェクは、1965年にチェコスロバキアテレビで放送が始まり、それ以来五十年以上にわたって、毎日午後六時四五分から、十分弱、子供たちを楽しませてきた。いや、今でも楽しませている。時間になるとテーマ曲と共にキャラクターのベチェルニーチェク君が登場し、一輪車、自動車と乗り物を変えながら宣伝のチラシを投げるというオープニングがあり、番組が終わった後には、もう一度登場して「お休みなさい」と言って頭を下げる。小さい子どものころには、このお休みなさいを聞いたら、寝るのが決まりだったという人もいる。
ただし、ベチェルニーチェクと一口に言っても、五十年以上も同じアニメやドラマが放送され続けているわけではない。子供向けに製作された短編のシリーズを放送する番組をベチェルニーチェクと読んでいるのである。内容はさまざまで、日本でも知られているモグラの「クルテク」や、パペットアニメーションの傑作「パットとマット」などは、本来ベチェルニーチェクで放送されたものである。他にも実写版映画も作られたアニメーション「マフとシェベストバー」、ひげ面の盗賊が主人公の「ルムツァイス」、クルコノシュ山脈の主が登場する実写版の「クラコノシェ」などが、よく知られている。 今でも毎年新しい作品が作られてはいるが、過去の人気作品が再放送されることも多い。親子で同じ作品を見る、いや孫まで入れて三代同じ番組を見て育ったなんて人もいそうだ。
この番組で放送されるシリーズの特徴としては、実写であれ、アニメーションであれ、声を当てるのはナレーター役の俳優一人しかいない点が挙げられる。「クルテク」や「パットとマット」のように、そもそも台詞のないものもあるが、登場人物が多く台詞のあるものであっても、声や話し方を変えることで、違う人物であることを示しながらナレーターが一人で進めていくのである。これはおそらく、ベチェルニーチェクのコンセプトが、おばあさん(お母さんでもお父さんでもいいけど)が、子供に語って聞かせる昔話、物語のテレビ版というものだからだろう。
ポーランドの外国番組の吹き替えは、一人の俳優が台本を淡々と読んでいくだけという話だが、チェコの吹き替えは共産主義の時代から評価が高い。フランスのルイ・デ・フィネーという俳優が、チェコ語に吹き替えられた自分の映画を見て、吹き替えた俳優の声のほうが自分の声よりも役に合っていると言って賞賛したという話もあるぐらいだ。だから、ベチェルニーチェクで一人の俳優が語るのは予算の削減のためではないと断言できる。
現在放送中のベチェルニーチェクは「ビドリーセク」という動物が主人公の実写版である。ビドラ、つまりカワウソの子供が穴にはまって動けなくなったところを釣り人に救われて、町の中の家に連れて帰られ、部屋の中であれこれやらかすというのが、十二日の分のストーリーだった。この後は、家から逃げ出して、町を出て自然に帰るまでが、さまざまなエピソードを重ねて描かれるはずである。初めて放送されたのが2003年だから、すでに十年以上前の作品だけれども、古さは感じさせない。可愛い動物に対する愛情というものは普遍なのだろう。
ベチェルニーチェクには、このビドリーセクのように、動物が主人公となるシリーズがいくつかある。いずれもバーツラフ・ハロウペクという映像作家の作品である。キツネ、オオカミ、ヤマネコ、イノシシなどの子供を使った作品が制作されているが、一番有名で評判の高い作品は「メーデョベー」という熊の子供たち三兄弟を主役にした作品だろう(自分が一番最初に見たものなのでそう感じるのかもしれないが)。動物園で母親が育児放棄した子熊を引き取って育てながら映像を撮影し、一つの物語を作り上げている。物語上はもちろん、そんな話にはならず、モラビア東部のベスキディの山の中で木こりが切り倒した木の下に、三匹の子熊がいたという話になっている。
動物と子供に演技をさせるのは大変だとはよく聞く話ではあるが、このドラマでは、演技なんかさせずに、普通に過ごすさまを、もちろん、いろいろ起こりやすいように、熊たちのいる部屋の中に中身の入った買い物籠を置いて出て行ったり、車に乗せてチェコの各地に出かけて未知の環境の中に放り込んだりなんてことはするわけだが、全体としてドキュメンタリー的な手法で撮影されている。小さな子供のころはともかく、ある程度成長してくると餌代が大変だっただろうし、あちこち連れて歩くのも大変そうである。
しかし、一番大変だったのは、大人になった熊たちの引き取り手を探すことだったらしい。他の小さな動物達なら、ペットとして家で飼える人たちもいるだろうが、熊を自宅で飼うというわけにはいくまい。最終的にはベロウンという町の自然公園みたいなところに引き取られて暮らしていて、インターネット上には今年の一月に熊たちの十六歳の誕生日をお祝いするイベントの告知が出ていた。ハロウペク氏は、今でも時々訪れて、旧交を温めているらしい。
3月13日16時30分。
女の子向けっぽいのでちゃんと見たことはないが、これもベチェルニーチェク。3月14日追記。
2016年03月14日
一体何人? その一(三月十一日)
以前もちょっとだけ触れたがトミオ・オカムラという人物がいる。日本人であると主張して、名前を売り国会議員にまでなってしまったのは書いたとおりであるが、実はれっきとしたチェコ人である。
以前からラジオやテレビに日本人のような顔をして出演し、日本の人口を増やしてくれたり、テレビの外国のクリスマスを紹介するニュースに浴衣着て帯刀して出てきたり、料理番組で和食としてオムライスを紹介していたり、となかなかとんでもないことをしてくれていたが、実害はないので笑いのネタとして見ていた。
この人物、実業家として旅行業で成功したようで、旅行業の業界団体の会長みたいな立場で、大手の旅行代理店が倒産したときなどに、しばしばテレビに登場してコメントしていた。つまりは、あるときは日本人として、またあるときはチェコ人としてテレビに出ていたのである。
それが、2012年の秋に行われたズリーン地区の上院議員の補欠選挙で当選してしまい、その勢いのまま、2013年にチェコで初めて直接選挙で行われた大統領選挙に立候補すると言い出した。信じられないことに支持者が集まり、必要な数の署名を集めて立候補のための書類を提出した。結局は大量の不正な署名があるという理由で立候補は受け付けられなかった。最初は差別だとか政治的な陰謀だとか、裁判に訴えるとか息巻いていたが、どうなったのだろう。最初から選挙資金は五万コルナとか、本気で当選する気はないようなことを言っていて売名行為であろうと言われていたが、立候補の際にも、立候補が認められなかったときにも、見ているこちらがうんざりするほど、ニュースで取り上げられていたから、目的は十分以上に達成されたのだろう。この立候補のニュースは日本でも話題になって、すわ第二のフジモリかと思われたかもしれないが、実態はこんなもんだったのである。
そして、次の国政選挙である下院の選挙には政治団体を結成し多数の候補者を立てると共に、自らも出馬した。「ウースビット」というチェコ語の党名は、日本語に訳すと「夜明け」とか「黎明」と訳せるのだが、日本とのかかわりで考えると、新党魁あたりを意識したのだろうか。でも、最近のチェコやスロバキアの政党名は、読んでも何のことやらわからないものが多いので、その一つと考えたほうがいいのかな。「TOP09」とか、「SMER」とか、いい加減にしてほしい。日本の「みんなの党」とかいうのに比べればマシなんだけど。
とまれ、その上院選挙でかなりの得票数を得て、アンドレイ・バビシュの新政党ANOと共に、ウースビットは、新しい勢力として下院に議席を得ることになった。これに調子に乗ったのか、オカムラ氏は、とんでもない発言や行動を繰り返すようになる。その最たるものが、ネオナチと目されている極右政党が主催する不法移民排斥を主張するデモに参加して、積極的に外国人排斥を訴えたことだろう。ウースビットの議員達の中には以前から党のイメージを悪化させるオカムラ氏の不穏当な発言に反感を抱いていた人たちがいて、この人たちが、党首であったオカムラ氏を党から追放してしまうのである。それにしても、党名の後に説明のように二格で「直接民主主義」なんて言葉がついている政党の党首が、ネオナチとつるむってのはどういうことなのだろうか。
もう一つ、オカムラ氏には理解できないことがある。この人、母親がチェコ人で、父親が日本人だと言うことになっているが、実は父親は朝鮮系の人らしい。それがいわゆる在日の人なのか、日本に帰化した人なのかは知らないが、だから日本人というのは正しくないということではない。日本語が不自由なく使えて、日本語で話が通じるのであれば、その人は日本人で何の問題もない。
もし、オカムラ氏が本人の言うとおり日本で育って、日本で学校に通ったのなら、母親がチェコ人で父親が朝鮮系というのはかなり大変だったはずだ。子供というものは残酷なもので、ささいな違いを理由に差別したりいじめたりする。親も、建前上は、外国人だからという理由で差別してはいけないなどと言いながら、自分の子供に対しては、あの子は外国人だから近づくなとか、遊ぶなとか言ってしまうものだ。少なくとも九十年代の半ばまでは、差別はいけないと言いながら、自分の子供が在日の人と結婚したいと言い出したら反対するという人も多かった。
だから、オカムラ氏が日本の学校で、排斥されそうになったという体験をしただろうと考えてもあながち間違いではあるまい。少なくとも日本人の中に入りきれない疎外感を感じさせられることはあったはずだ。その一方で日本を出てチェコに来たときにも苦労はあったと推測する。外国人であることで苦労したはずの人物が、どうして外国人排斥を訴えるのだろうか。それとも、だからこそ排斥を訴えると考えるべきなのだろうか。よくわからない。
オカムラ氏は、日本的なものをチェコに導入することを主張して支持を集めているという話も聞くので、もしかしたら、日本の外国に対する閉鎖性、異質なものに対する非寛容性を、外国人に対して寛容なチェコの社会に導入しようとしているのかもしれない。その結果として、チェコを、日本の経済的な成功の原因の一つだという人たちのいる日本的な単一民族国家にしようというのかもしれない。では、そのチェコ人の単一民族国家に、半分日本人であるオカムラ氏の居場所はあるのだろうか。
最近、差別の原因は無知だという意見をさんざん聞かされてうんざりしているのだが、それは違う。本当に何も知らない無知であれば、差別なんてできはしない。問題なのは、無知ではなく、中途半端な知識、誤った知識なのである。そして、それは、差別だけでなく、このような喜劇の原因にもなる。
当初の予定ではオカムラ氏は話の枕で、シュバルツェンベルク氏の話になるはずだったのだが、迷走してしまい、その分時間がかかった上に、いつも以上にしょうもない文章になってしまった。
3月12日23時30分。
2016年03月13日
我が読書の記憶 推理小説の時代(三月十日)
小学生の中学年ぐらいまで熱心に読んでいた児童文学や子供向けにリライトされた外国産の推理小説は、お話として読んでいて、小説を読むという意識はなかった。作り物の小説であることを意識して読むようになったのは、シャーロック・ホームズやエルキュール・ポワロなどの登場する作品の子供向けではないバージョンが最初だった。同じころにSFにも出会っているのでどちらが先とは言いにくいのだが、1980年代前半に小学校を卒業し中学校に入学した人間の例に漏れず、すぐに赤川次郎の洗礼を受けることになる。
戦後退行していた言文一致を作品の中で(恐らく無意識に)推し進めていた赤川次郎の作品の文体は、児童文学の子供向けにきれいな文章で書かれた文体に比して生き生きとして魅力的だった。最初に読んだのは、『三毛猫ホームズ』だったか、『幽霊なんとか』だったか、はたまたソノラマ文庫に収録されていた学生が主人公の推理小説だったか覚えていないが、一冊読んだ時点でとりこになっていた。
価格: 596円
(2016/3/13 08:06時点)
感想(11件)
当時の、せいぜい月に千円ほどの小遣いでは、自分が満足できるほど本は買えなかった。親はベストセラーや話題になった本は比較的買っていたが、活字狂というほどの読書家ではなかったため、自分が読みたい本を買わせるのは難しかった。そこで取ることができた方法は二つ。一つは図書館を使うことである。小学校、中学校の図書館には赤川次郎は入っていなかったので、町立の図書館へと出かけるようになった。児童閲覧室ではなく一般向けのの閲覧室で本を探して借りるようになったのだ。
もう一つの方法は、友人達と本を貸し借りすることだった。本を読む友人達のグループがあって、自分が買った本を人に貸し、友人が買った本を借りて読むというようなことをしていた。買うときにも、同じ本を買わないように多少の調整が必要だった。赤川次郎であれば、それぞれに担当するシリーズがあるというような形で買っていたのかな。ただ、今思い返すと、友人達も経済状態の悪さには大差なく、それぞれ、せいぜい月に一冊買えればいいという状態だったので、図書館で借りた本の方が多かったような気がする。そして、読書傾向が違ったのか、女の子達とは本の貸し借りをした記憶はない。赤川次郎なら女の子も読みそうなものなのだが、不思議なものである。いや、あの時期特有の気恥ずかしさというものがあったのかもしれない。高校になると平気で貸し借りしていたのだから。
『三毛猫ホームズ』は、ノベルズ版でもちょっと高くて買えず、時期的にも特に初期の何冊かは既に文庫化されていたので、文庫版で読み、もしかしたら一次文庫の光文社文庫ではなく、二次文庫の角川文庫版で読んだかもしれない。ちょっと変わったところでは、集英社文庫の女の子向けのレーベルコバルトシリーズに入っている『吸血鬼』シリーズも読んだ。これは中学校に入って知り合った先輩に借りたのだったか。当時はコバルトが女の子向けのシリーズだというのは知らなかったから、ぜんぜん気にしなかったけど、今考えるとあの先輩よく買えたなあ。
価格: 1,512円
(2016/3/13 08:08時点)
感想(0件)
それから、赤川次郎の影響で、作中に登場する欧米の文学作品にまで手を伸ばしたのもこのころだ。『悲しみよ、こんにちは』『異邦人』『老人と海』などの作品は、名作と言ってもいいのだろうが、赤川次郎の作品で出会わなかったら、読むことはなかっただろう。ゲーテの『若きウェルテルの悩み』も読もうとした記憶はあるけど、読んだ記憶はない。この時期は、変な話であるが、友人達と競うようにして本を読んでいたのだ。この欧米文学に手を出し始めた辺りから、我が読書の迷走が始まり、高校時代の一時期、よくわからないままに純文学の作品を読むようになってしまったのである。
赤川次郎の作品は「ユーモア推理」とか「ユーモアミステリー」と言われるけれども、本を読みながら推理するというよりは、ストーリーと登場人物たちの掛け合いが楽しくて読んでいたような気がする。一部の作品を除けば、悲惨な事件を描きながらも、決して残酷な描写にも暗い話にもならず、登場人物たちも明るさと希望を失わず、何らかの意味でハッピーエンドで終わり、読後感がさわやかだったのも、赤川次郎を読む理由だったろう。
推理小説の推理の部分を意識しながら読んだ作者としては西村京太郎がいる。こちらは両親が好きだったのか結構たくさん(すべてではないけれども)うちにあって読みやすかった。もちろん図書館でも借りたし、友人からも借りて、いっぱしの、今思えば噴飯物の推理談義をしていたのだ。十津川警部が、部下の協力も得ながら証拠を集め推理を重ねて犯人を追い詰めていく緊迫感がたまらなかった。実のところは、読みながら推理するなんて頭は持っていないので、あれこれ考えながら最後まで読んだ挙句に、読後感はいつも「そうだったのか」でおしまいだった。
当時は文庫版には必ず解説がついていて、西村京太郎の作品の解説でほぼ必ず触れられていた作品が、ポワロ、メグレ、クイーン、そして明智小五郎という四人の名探偵を集めて書かれた『名探偵』シリーズだった。これがものすごく読みたくて、最初の『名探偵なんか怖くない』を読んだときには、読めたことに対する感動のあまり、ポワロやクイーンの作品まで読み耽ってしまったのである。ただ、メグレの本だけは、田舎ではどこを探しても見つけることができなかった。東京に出てからなら見つけられたのだろうが、大学時代には名探偵熱はおさまっていたので、あえて探すこともなかった。だからいまだに読んでいないのである。
この時期に読んだ推理小説やミステリーの作家は、この二人以外には、他にも読んだと思うのだけど。『迷犬ルパン』シリーズを友人の一人が貸してくれた辻真先ぐらいしか覚えていない。社会派といわれた松本清張や森村誠一は、名前を知っていたのは確かだが、作品を読んだ記憶はない。経済的に制約があったので、誰でも彼でも読むというわけにはいかなかったからなのだろう。作者で読む本を選んでいたのだから。
この推理小説、ミステリーを熱心に読む時代は、赤川次郎の影響で欧米の文学作品を読み始め、それが日本の純文学を読むという病に到った高校時代に終わりを告げる。それ以後も、機会があれば読みはしたが、以前の追い求めるような読み方はしなくなった。読書というものに、文学というものに、無駄に重い意味を求めるようになってしまって、読みやすい軽く読めてしまうものは価値がないものだという愚かな観念に支配されてしまって推理小説を読んでいるなんて公言できなくなったのだ。
赤川次郎や西村京太郎の作品を再び評価して読むようになるまでには、かなりの年月を要した。大学時代の友人が漏らした「辛い現実から本を読んでる間だけでも離れたいんだから、文学なんて読めない。そんなときに最適なのが赤川次郎の作品なんだ」という言葉も再び読み始めるきっかけとなった。とまれ、赤川次郎のような何を書いても売れる作家の存在が、1980年代以降の日本の出版業界を支えてきたことは間違いない。赤川次郎が出現していなかったら、文芸書の出版部数は大きく減らされ、値段も高くなっていたに違いない。活字狂としては、作品を読めたことだけでなく、この事実に関しても感謝しておきたい。
3月11日23時。