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2017年07月21日
シュテルンベルク2 Šternberk moravský(七月十八日)
モラビアのシュテルンベルクは、オロモウツから20kmほど北に行ったところにある。チェスキー・シュテルンベルクとは違って、形容詞は付かずにただのシュテルンベルクと呼ばれている。ということは、こちらが最初のシュテルンベルクかと思わなくもないけれども、よくはわからない。町の紋章はボヘミアのものとほとんど同じで、シュテルンベルク星の下の山がちょっと違うぐらいである。
この町のことを、我々外国人はつづり通りに発音して、「シュテルンベルク」と呼ぶのだが、チェコ人の中には、発音で手抜きをして「シュテンベルク」と呼ぶ人たちがいる。ブルノに「シュピルベルク」というお城もあるし、最初は別の地名だと思っていたのだが、人名だけでなく地名もあだ名のように単純化してしまうからたちが悪い。
このモラビアのシュテルンベルクに初めて出かけたとき、シュテルンベルクと意識していたのか、シュテンベルクと意識していたのか、確証はない。廿年以上前にオロモウツで滞在していたホテルの人に、勧められた町の一つで、当時はチェコ語はできていなかったから、この町はいいぞ、お城があるぞと説明されて、耳で聞いた音を頼りに駅で切符を買って鉄道に乗り込んだのである。
イェセニークの南の外れあたりから流れ出すシトカ川が、山間を抜けてオロモウツ周辺の平地に抜け出すところに建設されたこの町は、山の麓の緩やかな斜面に築かれている。お城は駅前から北に向かい町の中心を抜けたほとんど町の奥と言ってもいい辺りにそびえているのだが、町の側からは、その雄姿は望めない。
壁に「hrad」という言葉と矢印が書いてあるのに従って、入り口の門のようなところを抜け向きを変えると、 シュテルンベルク城 が目の中に突然のように飛び込んでくる。ここからでも正面しか見えず、奥に伸びる建物や塔などは目にすることはできない。全体像を見るためには、恐らくウニチョフのほうからシュテルンベルクに向かうかつての交易路のほうから見る必要があるのだと思う。試したことがないのでわからないけど。
背後には山がそびえ、眼下には川を見下ろす高みに建てられたゴシック様式の城は、モラビアのシュテルンベルク家の本拠地として13世紀に建設された。チェスキー・シュテルンベルクの城と同様に重要な交易路を守るという役割も果たしていたようだ。こちらの場合は、オロモウツからイェセニークの山間を抜けてポーランドに向かう交易路である。
さて、初めてシュテルンベルクを訪れ、城の敷地内に入って、威容を見上げて感動した後、訪れたのは、ちょっとした失望だった。当時このお城は、なぜか時計の博物館となっていたのだ。こんなところまで来て、時計を見てもしょうがねえよなあと思いつつ、ガイド付きの見学ツアーに参加したのだった。チェコ語なんてさっぱりわからないから、実物を見ておおと思うしかなかった。
中国のものと思われる古い時計があったり、家具などは残っていなかったが、展示室は城の部屋をそのまま使っていたので、壁やなんかにけっこう興味を引かれる部分があったりして、入館したことを後悔する必要はなかったけれども、ボウゾフのお城のような本来の内装に戻して歴史的な城の展示を見たいとは思った。時計なんてお城に展示する意味はないんだしさ。
それが、十年ほど前に再訪したら、時計の博物館は独立して街中の別の建物に移転し、シュテルンベルクのお城は、改修が進みかつての家具(もしかしたらよそのお城から持ってきたものかもしれない。そんなことを言っているお城があったのだけど、どこだか記憶にないのである)を含む内装が復元されていて、見ごたえのある展示に変わっていた。17世紀末に、モラビアのこのあたりに膨大な資産を有していたリヒテンシュタイン家によって買い取られ、第二次世界大戦が終わるまで所有されていたという話だから、復元されたお城の様子も、シュテルンベルク家時代のものではなく、リヒテンシュタイン家の時代のものかもしれない。
シュテルンベルク城も含め、リヒテンシュタイン家がチェコに有していた資産は、第二次世界大戦後にすべて没収された。リヒテンシュタイン家は、他の貴族家と同様に、ビロード革命後に資産の返却を求めたようだが、共産党政権によって没収されたのではなく、その前のベネシュ大統領令にってナチスへの協力者に対する処罰として没収されたものであるため、資産の返却はなされていない。そのおかげで、今でもチェコとリヒテンシュタインの関係はあまりいいものではないのである。
ところで、シュテルンベルク城の上を通って、山の上に登っていく道がある。このあたりでは珍しくつづら折れっぽくなっている道で、自動車のヒルクライムのレースが行われることでも知られている。チェコ最大の自転車のステージレース、チェック・サイクリング・トゥールでも毎年周回コースに組み込まれていて、勝負どころの一つとなっている。
自転車といえば、昔、自転車であちこち走り回っていた頃に、オロモウツからシュテルンベルクまで走ろうとしたことがある。あのときはオロモウツを出て周囲に畑しかない吹きっさらしの平地で、強烈な向かい風に見舞われて、途中で力尽きて方向転換したのだった。追い風だったら楽だったのだけど運がなかった。
自転車ではないけど、歩いて行ったことならある。ただし、オロモウツから歩いたのではない。友人に誘われて、リーマジョフという山間の町まで鉄道で行った後、イェセニークの山の中を、シュテルンベルクの北にあるソビネツの城まで歩いかされた挙句に、ソビネツからのバスに乗り遅れて、シュテルンベルクまで歩く羽目に陥ったのだ。全部で50km以上歩いただろうか。筋肉痛だけでなく、膝を痛めてしばらく動き回れなくなったのだった。滝を見に行こうと言われて行ったけど、日本人的には滝ではなかったのも、いい思い出である。詳しいことはいずれ。
7月18日23時。
チェスキー・シュテルンベルクの城を建設したのはディビショフ家の誰それ、モラビアのシュテルンベルク城を建設したのはシュテルンベルク家の誰それ、ということは、チェコのシュテルンベルクの方が先で、モラビアの方が後ということになる
のか。ならばなぜモラフスキー・シュテルンベルクにならなかったのかが謎である。7月20日追記。
2017年07月20日
シュテルンベルク1Šternberk ?eský(七月十七日)
昨日の話に出てきたように、シュテルンベルクというのは、チェコの代表的な貴族の一族である。ビロード革命後すぐに制作された第二次世界大戦後のすぐのチェコの軍隊を描いた映画「タンコビー・プラポル」だったか、「黒い男爵たち(チェルニー・バロニ)」だったかに、シュテルンベルク家の末裔が登場する。周囲の連中が、あいつ貴族だから血が青いらしいぞ、見せてもらうかなんて話をするんだったかな。チェコの映画の中には、実際に貴族に青い血を流させる超B級コメディも存在するのだけど、この映画では赤い血の流れる普通の人間として描かれていた。
それはともかく、シュテルンベルク家がボヘミアとモラビアの二系統に別れたように、シュテルンベルクという町も、ボヘミア、モラビア双方にある。ボヘミアのシュテルンベルクは、中央ボヘミア地方のベネショフの近く、ビソチナ地方に源を発し西流してブルタバ川に合流するサーザバ川が作り出した深い谷間にある。町を見下ろす河岸の高台には、ゴシック様式の巨大な チェスキー・シュテルンベルク城 がそびえている。
かつて東西を結ぶ重要な交易路だったサーザバ川とそれに沿った街道を扼する位置に十三世紀に城を築いたのは、シュテルンベルク家の先祖に当たるディビショフ家の人々だという。地図を見たら高速道路D1を挟んだ反対側にディビショフという小さな町がある。ここの出身の一族がチェスキー・シュテルンベルクに拠点を移して、シュテルンベルク家が誕生したのだろうか。
シュテルンベルク家の紋章は、青地に黄色い星である。ただしよくある五芒星でも六芒星でもなく、そんな言葉があるのかどうかは知らないが、八芒星である。星ということで、ドイツ語ができる人はぴんと来たかもしれない。シュテルンベルクの名前はドイツ語のシュテルン=星から来ているのである。そして、黄色い八芒星は、シュテルンベルクの星と呼ばれている。町の紋章のほうは、星の下に緑色の山が付け加えられている。こちらもドイツ語のベルク=山から来ているようである。
だからと言って、シュテルンベルク家がドイツ系だとは断言できない。チェコの貴族の家名は、地名の前に、出所を現す前置詞の「z」をつけて表すことが多い。ディビショフ家の場合には、名前の後に、「ズ・ディビショバ」が付き、シュテルンベルク家の場合には「ゼ・シュテルンベルカ」が付く。シュテルンベルクという名詞自体はドイツ語起源のようだが、つづりも含めてチェコ語化しているのである。前身のディビショフはいかにもチェコっぽい地名ではあるけど、この辺りで、地名や姓をもとにしてドイツ系、チェコ系なんてこだわるのは意味のないことなのだろう。領民にチェコ人、ドイツ人の両方がいれば、貴族家の当主もどちらの言葉もできたはずなのだし。
実は、このチェスキー・シュテルンベルクには行ったことがない。廿年も前にチェコ各地をうろうろしていた頃には、チェコ語もできなかったし、チェスキー・シュテルンベルクなんて町が存在するなんてことは知らなかった。いわんやシュテルンベルク家なる貴族をやである。
こちらに来てからはオロモウツを基点に動いているので、一年目、二年目のあちこち旅行した時期にも足は伸ばさなかった。電車のスピードが上がって、遥に鉄道での移動の便がよくなった現在でも、コリーンまで行って乗り換え、さらにもう一度レデツコという駅で乗り換える必要があって、三時間ほど時間がかかるのである。あの頃であれば、四時間、いや五時間以上かかったとしても不思議ではない。ちなみに、プラハからも鉄道だと二時間前後かかるので、自動車で行くのが一番いいようだ。地図を見ると意外と高速道路のD1の近くにあるし。
ところで、このチェスキー・シュテルンベルクのお城の近くには、日本にキリスト教を伝えたことで有名なフランシスコ・ザビエルの像もあるようだ。チェコ語で「フランティシェク・クサベルスキー」と呼ばれるザビエルは、プラハのカレル橋に像があることは知られているだろうが、イエズス会によってフス派戦争、三十年戦争後の再カトリック化が進められたチェコ国内には、意外とあちこちに象や絵が残されているのである。オロモウツの共和国広場にある聖母マリア教会にも、ザビエルに捧げられた祭壇があって、ザビエルの生涯を描いた絵が飾られている。教会にはできるだけ足を踏み入れないようにしているので、実際に見たことはないけどさ。
チェコの人はフランティシェク・クサベルスキーが日本にキリスト教を伝えたことを知らないし、日本人は、フランティシェク・クサベルスキーがあのザビエルであることに気づかないので、見逃してしまうことが多い。注意していると、意外なところでザビエルに出会え、戦国時代の日本とチェコがつながっているような感覚になれるかもしれない。ザビエルについて大したことを知っているわけでもないんだけどさ。
7月18日15時。
ザビエルの名前は、チェコ語ではFrantišek Xaverskýと書かれる。7月19日追記。
2017年07月19日
オロモウツの戦い(七月十六日)
1241年にオロモウツ近郊で起こった戦いのことを聞いたことがある人はいるだろうか。東方から押し寄せ、キリスト教徒の軍隊を粉砕しヨーロッパを恐怖に陥れたモンゴルの遠征軍を、ボヘミア、モラビアの諸侯の軍隊が、オロモウツの近くで打ち破り、モンゴル軍をモラビアから撃退することに成功したというのである。
チンギス・ハンの孫に当たるバトゥを総司令官とするモンゴルのヨーロッパ遠征軍は、ロシア、ウクライナの地にあったキエフ公国を滅ぼし、ポーランドに侵入する。そして、1240年4月にシレジアの都市レグニツァ(ドイツ名リーグニッツ)郊外のワールシュタットにおいて、キリスト教世界を守るべく結集したポーランド、ドイツ諸侯の連合軍を打ち破った。
このときモンゴル軍は、バトゥの本隊から分かれた別働隊でバトゥの従兄弟のバイダルに率いられており、ポーランド=ドイツ連合軍を率いたのは、ポーランドのピアスト王家の血を引いた下シュレジエンの侯爵インドジフ(もしくはハインリッヒ)だった。キリスト教世界の守護者たる神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ二世は、ローマ教皇との抗争に忙しく、モンゴル軍との戦いを呼びかけるだけで実質的には何もしなかったに等しい。
下シュレジエン侯インドジフの妻の兄(弟かも)であったボヘミア王バーツラフ一世は、4万人の軍を率いて救援に駆けつけようとしていたが、間に合わなかったという。レグニツァから南下してきたモンゴル軍の一部隊と、現在ではポーランド領となっているクラツコで会戦し打ち破ることに成功した。その後、モンゴル軍がザクセンの都市マイセンを目指していることを知ったバーツラフ一世は軍隊を率いてマイセンへと向かう。
しかし、マイセンを襲ったモンゴル軍は、クラツコの場合と同様に、単なる一部隊に過ぎなかった。バイダルの率いる別働隊は、オパバを破壊してモラビアに侵入していた。モラビアに侵攻したモンゴル軍がボヘミア、モラビアの諸侯からなる軍隊と激突したのが、オロモウツだったのだ。
バーツラフ一世は、ボヘミア、モラビア軍の主力を率いてドイツに向かっており、モンゴル軍との戦いでモラビアを守り、オロモウツの要塞を守るために派遣された約8000人の軍隊を率いたのは、チェコの代表的貴族の一つモラビアのシュテルンベルク家のヤロスラフであった。もともと城塞都市のオロモウツに籠城して、陥落を防ぐために派遣された軍隊を率いて、ヤロスラフは、籠城戦ではなく果敢にも野戦を挑んだ。そして、見事モンゴル軍に勝利したというのである。
その結果、バーツラフ一世は、援軍を送っただけで実際には戦闘に参加していないにもかかわらず、「モンゴル人を打ち破りし王」という呼び名を獲得したと言われている。部下達の功績とはいえ、モンゴル軍の主力部隊に勝利するというポーランドにも、ドイツにも、ハンガリーにもできなかったことを達成したのだから、国王が国際的に称賛されるのも当然だと言えるのかもしれない。
ところで、モンゴル軍が、ヨーロッパで戦争に負けて撃退されたという話は聞いたことがないぞという方、その意見は正しい。上に書いた話は、チェコの一部の年代記に記されている出来事であるが、この戦いが実際に起こったという証拠はどこにもないらしい。
そもそも、軍隊の指揮者とされるシュテルンベルク家のヤロスラフの実在が疑わしい。シュテルンベルク家は後にモラビアとボヘミアの二系統に別れ、モラビアのシュテルンベルク家は、16世紀には断絶してしまうのだが、17世紀にプラハのある修道院の墓地に置かれていたヤロスラフの墓を、ボヘミアのシュテルンベルク家が獲得した修道院の地下墓地に移設しようとして、棺を掘り出したところ、中には何も入っておらず、仕方なくオロモウツの戦いでの功績の記された墓碑だけを移設することになったらしい。
結局、バイダルの別働隊がモラビアを離れハンガリーを攻略中だったバトゥの本隊に合流したのは、モラビアで敗戦したからではなく、やはりモンゴル帝国第二代皇帝のオゴデイ・ハンの死を知ったことによるのだろう。フス派による戦争の技法の革新が行なわれる前のボヘミア、モラビア軍が、モンゴル軍に勝てたとは思えない。
さて、そこで疑問となるのは、誰がオロモウツの戦いなる架空のモンゴル軍に対する勝利をでっち上げたかである。バーツラフ一世が王の権威を上げるためにでっち上げたのだろうか、それとも、シュテルンベルク家だろうか。いや、民族覚醒の時代に過去の年代記が書き換えられた可能性もあるか。ヨーロッパで唯一モンゴル軍の侵攻を自力で撃退した民族がチェコ人であるなんてのは、偏狭な民族主義者には好まれそうな言説である。
ハプスブルク家のオーストリアからの独立を企てる民族主義者でありながら、チェコ民族が他民族よりも歴史も古く優れているはずだという無駄な自民族至上主義とは無縁だったからこそ、マサリク大統領はチェコスロバキアを独立させることに成功したのだろうとまとめてみたけど、取ってつけた感は拭えないなあ。
7月16日23時。
2017年07月18日
失われたチェコの領土3(七月十五日)
最後の失われた領域はシレジアである。チェコ語でスレスコ、ドイツ語風にシュレジエン、もしくはポーランド風にシロンスクと言ったほうがいいかもしれない。オパバ、クルノフなど一部はチェコ領であるが、大部分は現在ではポーランド領となっている地域である。
チェコをプシェミスル王朝が支配し、ポーランドをピアスト王朝が支配していた時代、シレジアは両国の王権がぶつかり合う場であった。ポーランド王が、ボヘミアで族滅された一族の生き残りを迎え入れたり、ボヘミア王を捕らえてその目をつぶして送り返したり、逆にボヘミア王がポーランド王を兼ねたりするという両国の争いに、中間に位置するシレジアも巻き込まれていったのである。
プシェミスル家の時代にも、分家をオパバ地方の領主として封ずるなど、ボヘミア王によるシレジアの領有は徐々に進められていたのだが、シレジア全域を獲得してチェコの王冠領につけ加えたのはまたしてもルクセンブルク家のカレル四世であった。カレル四世は、1353年に三人目の王妃アナ・スビードニツカーとの婚姻によってシレジア全土を継承した。
このカレル四世の戦争ではなく、経済力と婚姻によって領土を拡大するという政策は、領内の発展にも大きく寄与したはずである。これはヨーロッパの王家、貴族家の継承制度が、男系だけでなく女系にも継承権を認める一方で、実際に継承するのは男性であるというややこしいことになっていたから可能になったことである。しかし、その一方で、同じ制度が後にマリア・テレジアがハプスブルク家を継承するのを困難にし、シレジアの大部分を失うきっかけになるのだから、何とも複雑である。
カレル四世の没後、息子の世代になるとチェコの王冠領は、フス派の宗教戦争に翻弄され、本体のボヘミア王位の継承さえ混乱していく。ボヘミア王位が空位になったこともあるし、ハンガリーから出てきたマティアーシュ・コルビーンがカトリック系の諸侯を集めてオロモウツでボヘミア王に選出された結果、ボヘミア王が二人存在するという異常事態も発生している。このとき、ポデブラディのイジーの後を継いでボヘミア王に選出されたのはヤゲウォ家のポーランド王であった。
カトリックの勢力の強かったシレジアは、フス派の影響をあまり受けることなく、この分裂時代には一貫してモラビア、ラウジッツとともにハンガリー王の側に立っていたという。つまり、この時期チェコの王冠領は、ボヘミアとそれ以外の領域で完全に二分されていたのである。その後、ドイツの宗教改革を受けてのプロテスタント化の波を経て、チェコの王冠領がシレジアを含めて再び一体化するのは、17世紀半ばの三十年戦争終結後のことであった。
三十年戦争の終結後、シレジア全体はハプスブルク家の支配下に入り、一度はプロテスタント化したシレジアの再カトリック化が進められるわけであるが、北方で勢力を増すホーエンツォレルン家のプロシアの圧力が大きくなり、ドイツ化の進んだシレジアでもオーストリアよりもプロシアに近づこうとする勢力が増えていく。
プロシアのシレジア獲得のための努力は、1740年にオーストリア継承戦争として現れる。マリア・テレジアによる全ハプスブルク領の相続に異を唱えて引き起こされたこの戦争は、8年にわたって続いたが、オスマントルコとの戦いで弱体化していたハプスブルク家は、シレジアの大部分を失うことになった。その後、マリア・テレジアは、失われたシレジアの回復を目指して、プロシアと七年戦争を戦うが、目標を達成することなく1763年のフベルトゥスブルクの和約で、シレジアの大部分がプロシア領であることが確定した。これによって、このときマリア・テレジアの手に残された一部分以外のシレジアはチェコの王冠領から失われたのである。
チェコに残されたシレジアでは、チェコ人、ドイツ人、ポーランド人が民族の違いを超えて問題なく生活していたのだが、19世紀に入って所謂民族の覚醒の時代に入って、各民族の民族意識の高まりとともに、民族間の対立が強まった。20世紀に入ってチェコ人とポーランド人の対立は、第一次世界大戦後にチェシーン地方の領有を巡っていわゆる七日間戦争を引き起こす。その結果として、本来川を挟んでひとつの町であったチェシーンが、チェコスロバキア領とポーランド領に分割されることになる。このシレジアの領土を巡るポーランドとチェコスロバキアの対立が完全に解決されたのは、第二次世界大戦後の1958年のことであったという。
このボヘミア王の王冠に周辺のモラビアやシレジアなどの爵位を結びつけて、チェコの王冠領という一つの領邦のようにしてしまうというのは、ルクセンブルク家のカレル四世によって、導入され活用されたものである。だから、それ以前のプシェミスル家の王や大モラバの時代に勢力を拡大して一時的に領有していた地域は含まれない。またカレル四世以後に追加された領域も存在しない。これもカレル四世が、チェコ史上で最大最高の君主として尊敬され続ける理由の一つになっているのだろう。
7月15日23時。
2017年07月17日
失われたチェコの領土2(七月十四日)
二つ目の失われた領土はチェコ語で「チェスカー・ファルツ」と呼ばれるドイツのバイエルン州の北東部である。西ボヘミアのドイツに突き出した部分から南西に尻尾のように垂れ下がる形でニュルンベルクの近くまで延びている領域が、一時期とはいえチェコの王冠に結び付けられていた。この地域を獲得したボヘミア王は、カレル四世である。
カレル四世は、二人目の王妃アナ・ファルツカーとの結婚と買収によって1355年にこの地域の領有権を得た。アナは当時バイエルン地方を領有していたウィッテルスバッハ家の出身で、結婚の持参金代わりに領土を割譲されたのだろうか。同時に、当時財政的に困窮していたウィッテルスバッハ家からチェスカー・ファルツの大部分を購入したのだという。
この地域がファルツと呼ばれるのは、ラインファルツ地方と同様に、領主のウィッテルスバッハ家が、宮中伯という特殊な爵位を得ていたことによるようだ。本来王宮をさす普通名詞であった「ファルツ」が、その長官である宮中伯(ファルツ伯)の地位を有するウィッテルスバッハ家の一族の領地を指す固有名詞に変わった変わったらしい。
カレル四世は、当時のバイエルンで最大の交易の中心地で裕福な都市であったニュルンベルクの近くまで領土が広がったという利点を生かすべく、積極的に設備投資を行い多くの建造物を建てると同時に、減税などの商工業への支援策を実施した。このチェスカー・ファルツをボヘミアとニュルンベルクを結ぶ隊商路として定着させようとしたものと考えられている。
そのカレル四世の意図を示す証拠といえそうなものが、ラウフという町のお城に残っている。カレル四世が建設した当地の城塞にはチェコの守護聖人である聖バーツラフに捧げられた礼拝堂があり、広間の壁には、当時チェコの王冠に属していた領土や町の112にも及ぶ紋章が描かれているのだ。そこに長期にわたってチェコのものにしようという意志を見て取ったとしてもあながち間違いではあるまい。
しかし、このカレル四世の意志は長続きしなかった。1373年には、チェスカー・ファルツの大部分に多額のお金を加えて、ウィッテルスバッハ家の領有していたブランデンブルク辺境伯領と交換してしまうのである。残された部分もカレルの後継者バーツラフ四世の時代に失われた。その後、フス派戦争の後のポデブラディのイジーの時代に一時回復されたこともあるが、1779年に最終的にチェコの王冠領から離れることになった。
1778年にボヘミアの女王でもあったオーストリア大公マリア・テレジアが、チェスカー・ファルツの一部がチェコの王冠領であることを口実にバイエルンの領有を求めた。これによって反対するプロシアとの間で、いわゆるバイエルン継承戦争が勃発した。この戦争の講和の条件として、オーストリアは、ひいてはボヘミア王はバイエルンの領有権を放棄することになる。チェスカー・ファルツは、チェコの王冠領から完全に失われたのである。
三つ目の失われた領土は、カレル四世がチェスカー・ファルツを捨てて獲得したブランデンブルク辺境伯領である。チェコ名はブラニボルスコであるが、名前の由来となった町ブラニボルはもともとスラブ人が建設したものだという。
12世紀に最初にブランデンブルク辺境伯領に封じられたアスカニエル家が1319年に断絶した後、辺境伯領を手に入れたのはバイエルンを領有していたウィッテルスバッハ家だった。ウィッテルスバッハ家は、上記のようにカレル四世に領地バイエルンの一部を売却せざるを得ないような経済的危機に見舞われていたのだが、それだけでは足らず、更なる金銭を得るために、チェスカー・ファルツとブランデンブルク辺境伯領の交換をカレル四世に申し出ることになる。
カレル四世にとっても、多額の金銭を追加する必要はあったとはいえ、ラウジッツの北に直結する広大なブランデンブルク辺境伯領は、バイエルンの一部に過ぎなかったチェスカー・ファルツよりも魅力的だったのだろう。ウィッテルスバッハ家からの申し出を受け入れることをためらわなかったらしい。それが1373年のことである。
しかし、ブランデンブルク辺境伯領がチェコの王冠の下にあったのは、それほど長い期間ではなかった。すでに15世紀の前半には、カレル四世の息子でハンガリー王、兄バーツラフ四世の死後ボヘミア王を兼ね、後に神聖ローマ帝国皇帝にも選出されたジクムントが、ホーエンツォレルン家をブランデンブルク辺境伯領に封じている。
ジクムントはボヘミア王としては、フス派戦争の真っ只中でフス派との抗争に明け暮れ、思うに任せない日々を送り、最後はチェコを出てハンガリーに戻る途中ズノイモで病死している。兄のバーツラフ四世もそうだが、チェコの王冠の領土を拡大し大きく発展させたカレル四世の息子達の時代には、すでに没落が始まっていたのである。
このとき、ブランデンブルク辺境伯領を獲得したホーエンツォレルン家は、その後勢力を拡大し、プロシア王国として、オーストリアのハプスブルク家と対立しチェコの歴史にも大きな影響を与えることになる。もともとドイツ西部を拠点としていたホーエンツォレルン家がドイツ東部に拠点を確保し発展する基礎を築いたのがこのブランデンブルク辺境伯領の獲得だと考えると、余計なことをしてくれたものである。
7月15日11時。
2017年07月16日
失われたチェコの領土1(七月十三日)
歴史的にチェコの領土のことを、チェコの王冠領などという言い方をすることがある。ボヘミア王(チェコ語だとチェヒの王)は、あくまでもチェコの西側のボヘミアを支配する者の称号であるため、ボヘミア王がモラビアやシレジアを支配する正当性を確保するために、ボヘミア、モラビア、シレジアをボヘミアの王冠(ボヘミア王と区別するために以下チェコの王冠と記す)に附属する領土とししたのだ。つまり、ボヘミアの王位を継いで、チェコの王冠を被ったものは、ボヘミアの王位と同時に、モラビア、シレジアの爵位も継承することになったのである。
このチェコの王冠領というのは、現在でこそ、ボヘミア、モラビアとシレジアの一部だけでしかないが、かつてはさらに多くの領地がチェコの王冠に結び付けられていた。一つ目はチェコ語で「ルジツェ」と呼ばれるドイツの南東の端、チェコとポーランドに挟まれたシュプレー川流域を中心としたラウジッツ地方である。このあたりは、ドイツ化が進んではいるものの、西スラブ系のソルブ人の居住地域となっている。中心となる都市バウツェンは、チェコ語ではブディシンと呼ばれる。
中央ヨーロッパの王家の複雑な血縁関係とそれに基づく継承権争いや、戦闘による領土争い、領地の売買などがあって、ラウジッツの領域自体にも複雑な歴史があるわけだけれども、とりあえずチェコの王冠との関係で簡略して説明をすると、最初のこの地域を領有したチェコ王はプシェミスル家のブラティスラフ二世で、1076年のことだったという。ただし、それは書類上の話で、実効支配していたかとなると疑問が残るらしい。ちなみに、大モラバ国の勢力が最大だった時期にも、ラウジッツ地方は支配下に入っていたようである。
その後12世紀に入ってソビェスラフ一世が上ラウジッツの実効支配に成功し、13世紀半ばまでは、ボヘミア王による領有が続いたが、ラウジッツをチェコの王冠に結びつけたのは、プシェミスル家が断絶した後、ボヘミアの王位を継いだルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝カレル四世(ボヘミア王としてはカレル一世)であった。下ラウジッツを金銭で買い取るこことで、全ラウジッツを、チェコの王冠領に加えたのである。
このときから、三十年戦争中の1635年にボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝であったハプスブルク家のフェルディナント二世が、ラウジッツを戦費の借金のカタとしてザクセン辺境伯に譲り渡したあとも、公式にはラウジッツはチェコの王冠領の切り離せない一部分であり続けた。いや現在でもあり続けている。もちろん、現実的な支配となるとすでに15世紀には、ボヘミア王の手を離れようとしていたようであるけれども。
興味深いのは、ドイツ化の波に苦しんでいたラウジッツ自体、いやラウジッツのソルブ人たちがチェコスロバキアへの併合を求めたことだ。一回目は第一次世界大戦後のチェコスロバキア第一共和国が成立した際のことで、二回目は、なんと1989年の東側ブロック崩壊の際だという。98年はともかくとして、1918年にチェコスロバキアが独立したときのチェコ側の領土に関しては、チェコの王冠に属する領土というのが、国境を決める基準になったのではなかったか。しかし、チェコの王冠領に属するとはいえ、すでに何百年も前に実行支配権を失った領域を、領土として要求できるほどマサリク大統領もあつかましくはなかったということなのだろう。
それに、地域の民族構成を無視して、チェコの王冠領をチェコスロバキアの領土とすること自体が、第一次世界大戦後の諸民族の独立の理念となった民族自決の考え方には完全に即していたわけではないし、ドイツ化の進んでいたラウジッツをも領土に加えたら、ただでさえ高すぎた国内のドイツ人の割合がさらに上昇してしまうという事情もあったのかもしれない。ラウジッツがチェコスロバキアに、後にはチェコに併合されることはなかったのである。
ラウジッツでは、1913年に設立されたソルブ人の民族文化を守るためのドモビナという組織が、ナチスドイツによって存在を禁止された時期を除いて、現在に至るまで活動を続けている。東ドイツ時代はいざ知らず、現在では少数民族としての権利が認められており、ソルブ語に学校教育が行なわれており、地名などの看板表記もドイツ語とソルブ語の二重表記になっているらしい。
とはいえ、ソルブ語の使用人口は10万人ほど、しかも上ソルブ語と下ソルブ語に分かれているというから、大変である。モラビアとボヘミアの方言をあわせて共通の統一チェコ語ができたように、歴史的に二つの地域に分かれていたという事情をこえて統一したソルブ語を制定しておいた方が、将来の生き残りにはいいのだろうけれども、今となっては難しいことである。
ちなみに、このソルブ人のことを、チェコ語でスルプという。これは南スラブに属するセルビア人と同じである。かつてのチェコ人たちは、ソルブ人とセルビア人に何らかの共通性を感ていたのだろうか。
7月14日14時。
2017年07月15日
チェコ選手のウィンブルドン(七月十二日)
昨年末に強盗に利き手の左手を大怪我させられたクビトバーが、何としてでもプレーしたいと復帰の目標に掲げていたのがウィンブルドンである。目標の設定がよかったのか、もちろん本人の血のにじむような努力の結果であろうけれども、クビトバーは予定より早く全仏で復帰を果たし、一回戦を突破して見せた。ウィンブルドンに向けて期待も高まろうというものである。
いったいに、ウィンブルドンが始まる前のチェコは、特に女子に関しては楽観論にあふれていた。ウィンブルドンの前哨戦となる芝のコートでの大会で、全仏の翌々週はクビトバーが優勝を果たし、その翌週のクビトバーが出場を取りやめた大会では、プリーシュコバーが優勝したのである。そして、ウィンブルドンの組み合わせが発表されて、クビトバーとプリーシュコバーが別々の山に入って、決勝まで対戦しないことがわかると、決勝がチェコ人同士の対決になる可能性が高いなんて、今にして思えば、超希望的観測も流れていた。
それとは別に、プリーシュコバーについて、世界ランキングで一位になる可能性も取りざたされていたが、上の二人、ケルバーとハレプの二人が準々決勝までに敗退すれば、プリーシュコバーの成績にかかわらず一位になるというのだから、こちらのほうがありえそうな印象だった。去年のウィンブルドンで早期敗退して失うポイントが少ないので、一回戦負けでも一位になる可能性があるらしい。
ウィンブルドンの前の時点では、女子選手については大いに活躍が期待されていたけれども、男子選手に関しては、長年維持してきたランキングの10位以内から陥落して、なかなか調子と成績の上がらないベルディフを筆頭に、あまり期待されていないようだった。準決勝に進出した去年の再現は難しいと評価されているようだった。他の選手たち、ベセリー、ロソル、パブラーセクは一回戦を勝ち抜ければ御の字である。
いざ、大会が始まってからも、一回戦は期待通りだった。女子では、少なくとも、クビトバー、プリーシュコバー、シャファージョバーの三人は、危なげなく二回戦に進んだ。他にも何人か二回戦に進んだ選手はいるが、数が多くて全部覚えていられないし、上位進出が期待できるとすればこの三人だから、チェコにとってはこの三人が勝ち進むことが重要なのである。
男子のほうでは、同じような立場のベルディフが問題なく二回戦に進んだ。以前はランキングが自分より上の選手には滅多に勝てないけど、下の選手はほとんど負けないという良くも悪くも安定した成績を残していたベルディフも、下の選手に負けることが増えてランキングも下降中である。だから、ここにあげた四人のチェコ人選手の中で最初に負けるとすればベルディフだと思っていた。
それなのに、今年のウィンブルドンの二回戦は、チェコの女子選手たちにとって悪夢のような結果をもたらした。最初はクビトバーが、アメリカのブレングルに負けてしまった。一セット先取されて、二セット目を取って追いついたときには、勝てると思ったのだけど……。これまで二回優勝しているウィンブルドンで優勝して、クビトバーの選手生命を危惧されるような大怪我からの復活の物語がハッピーエンドで終わるという期待は、期待のままに終わった。実現していたらあまりにできすぎで予定調和的なんて言われそうな期待だったけどね。
続いて、プリーシュコバーもスロバキアのリバリーコバーに逆転負けを喫した。一セットとって、二セット目もリードして、勝利は確実だと思われたところからの敗戦だっただけにショックは大きかった。リバリーコバーって、同じスロバキアのツィブルコバーと違って、安定はしているけれどもどこかの大会で突然爆発的に上位に進出するような印象はなかった。そんな選手に負けた時点で、ウィンブルドン後にプリーシュコバーがランキング一位になる目は消えたと思われた。
他の二回戦に進出していた選手たち、ストリーツォバーもプリーシュコバーの双子の妹(姉かも)も、アレルトバーも軒並み敗戦し、最後の砦となったのがシャファージョバーだった。しかし、シャファージョバーは試合前からついていなかった。ダブルスのパートナーであるアメリカのマテック=サンズが試合中に芝に足を取られて大怪我をするという悲劇に見舞われたのだ。それが頭に残っていたのか、シャファージョバー本人も試合後に第三セットは試合に集中し切れなかったと語っていたが、アメリカのロジャースに逆転負けしてしまった。同時に優勝の本命だったダブルスでも棄権ということになり、踏んだりけったりである。
一回戦が終わった時点では、チェコテレビは、ツール・ド・フランスじゃなくて、ウィンブルドンを放送するべきだと思っていたのだが、二回戦が終わってチェコテレビの選択が正しかったことを認めざるを得なかった。
男子のほうでは、ベルディフが二回戦、三回戦を勝ちあがり、ランキングが上の選手と当たる四回戦では若手のティエムに第五セットまでもつれ込む接戦の末勝利を収め、準々決勝ではジョコビッチにぶつかった。これまで二回しか勝ったことがない相手だというし、善戦はできても勝てはしないだろうと思っていたら、ベルディフが第一セットを取った後の第二セットでジョコビッチが棄権してしまった。ベルディフ本人は長いキャリアでジョコビッチには散々負けてきたんだからたまにはこんな勝利があってもいいだろうなんてコメントを残していた。
次の相手は、これも対戦成績で圧倒的に負け越しているフェデラーである。これまでベルディフが唯一決勝に進出した2010年の大会では、フェデラーとジョコビッチに連勝したらしいから、今年もその再現を期待してもいいのだろうか。いや期待すべきは放映権を持っているノバが、有料チャンネルのノバスポーツではなく、ノバ本体か、ノバアクションで中継してくれることである。
それだけではなく、女子のほうでは、ランキング一位のケルバーが四回戦で、二位のハレプが準々決勝で負けた。これで来週の月曜日発表のランキングで、プリーシュコバーがチェコ人としては初の一位になることが決まった。民族的なチェコ人としてはマルティナ・ナブラーティロバーが一位になっているが、アメリカに亡命したナブラーティロバーは、初めて一位になったときにはすでにチェコスロバキアの国籍を喪失していたので、チェコの選手扱いにはならないのである。
本稿を投稿するころには、ベルディフとフェデラーの試合の結果も出ているはずである。もしベルディフが優勝したりしたら、それをねたに一本書いてみようかねえ。マレーも負けたしフェデラーに勝って決勝に進めば、可能性は高いと思うんだよなあ。いや、期待はするまい。期待しない方がいい結果が出そうである。
7月13日22時。
期待通り、ノバアクション(旧ファンダ)で中継してくれた。でも、ベルディフ、健闘したんだけどね。フェデラーが強かったとしか言いようがない。7月14日追記。
2017年07月14日
お酒の話5(七月十一日)
アブサンというと、どうしても水島新司の初期は名作だった野球漫画『あぶさん』を思い出してしまう。たしか、主人公のあだ名の由来になったのが、アブサンというお酒だという話だったのかな。酒好きとしては、漫画を読んで興味を持たなかったわけではないのだけど、酒屋では見かけたことがなかった。
当時は、ビール以外のお酒といえば蒸留酒、つまりはウイスキーと焼酎だったので、ただしどこぞの酒造会社が流行らせようとしていたスピリッツなんてのは飲む気になれなかったけど、ワインにすら手を出していなかったのだ。だからリキュールなんて気取った呼ばれかたをするお酒を探してまで飲もうという気にはなれなかった。
その後、仕事の関係で、フランスの詩人、ランボーやらボードレールやら存在を知り、彼らが夜な夜な痛飲しての悪夢の果てに思想を得ていたのが、このお酒であることを知る。フランス文学を専門とする知人に、フランス語での発音は、むしろ「アプサン」に近いことを教えられ、ボードレールなど、アブサンを常飲していた詩人も含む芸術家の多くは酒毒に犯されて早世したことも知る。これを命を削って作品を制作したと解釈するべきなのかどうか悩むところである。
その知人の話によると、アブサンには精神に毒になる成分が含まれていて、大量に摂取すると精神を病んでしまうことがわかったらしい。それで、フランスでは生産も販売も禁止されたというのだった。かくて、どんなお酒なのかは知らないまま、飲まなくてもいい酒にカテゴリーされることになった。
アブサンの原料がニガヨモギであることは知っていたが、それがどんな植物でどんな方法でお酒になるのか想像もできなかった。ニガヨモギ自体は、チェルノブイリの原子力発電所が爆発したときにも、オカルト系の論者の口から名前が出てきていたのを覚えている。ただ、ニガヨモギとという名称の響き、与える印象に寄りかかっていて、言葉を口にしている人も実物は知らないんじゃないかという印象を抱いた。
ニガヨモギがどんな植物かなんて、今ならネットで検索すれば一発なのだが、って、検索してみたら英語名は「ワームウッド」だって。そういえば高千穂遙の作品『ワームウッドの幻獣』に、ワームウッドはニガヨモギとか書いてあったっけねえ。どちらの言葉で書かれても、具体的なイメージがわかずに、ヨモギに似た植物なんだろうと考えておしまいにしてしまう点では大差はない。
そんな、存在だけは知っていた、ある意味なぞのお酒に出会ったのは、チェコに来てチェコ語の勉強を始めてからのことだった。いや、最初はそれがアブサンだとは気づかなかったのだよ。何せチェコ語では、フランス語のつづりをチェコ風に発音して「アプシント」と言ってしまうから。いや、つづりもすでにチェ語化しているといってもいいかもしれない。
知り合いにアプシントを飲みにいかないかと言われて、どんなお酒と聞いたら、強烈なお酒で嫌なことを忘れるために酔っ払うときに飲むお酒だという答えが返ってきた。自棄酒用のお酒ということなのだろうけど、つたない外国語で愚痴こぼしまくりになるのは目に見えている自棄酒には付き合いたくなかったので、そのときは断ったのだった。
実際に目にしたのは、その知り合いがビンごと学校に持ち込んできたときのことだ。特徴的な青と言うか、緑と言うか、ただの色として見るならきれいな色だと言えそうだったのだけど、飲み物、お酒の色として考えると、鉱物でも入っていそうな印象を受ける色だった。緑青って言葉にぴったりの色じゃない? この毒々しさがいいというのは知人の言である。
瓶に書かれた酒の名前を見て、もしかしたらアブサンじゃないのかと思いついて聞いてみたら、フランス語の発音はわからないけど、元はフランスのお酒だから、多分そうだという答えが返ってきた。製造も販売も禁止されているんじゃなかったのか。そう言うと、フランスは禁止されているかもしれないけど、チェコにはそんな禁止は存在しないと言う。
毒性があると聞いたというと、悪酔いするからその可能性は高いと言う。何でそんなもん飲むんだと聞くと、嫌なことを忘れるためにはぼろぼろになるまで酔わなければならないと言う。そんな強烈な酔いをもたらしてくれるのはアプシントだけだ。だからそれがたとえ毒であっても俺は飲むのをやめないとか、EUが禁止するならEUなんか入らなくてもいいなんてことを言っていただろうか。
2000年代の初めのチェコがEUに加盟するかしないかのころのEUは、すでに中央集権化が始まりつつはあったけれども、現在のように、加盟各国の事情を無視してEUが正しいと判断したことを押し付けてくる独善性には染まっていなかった。その緩やかなEUの象徴がチェコでアプシントが生産販売されていることなのだと理解していたのだけど、いつの間にかフランスでも生産と販売が解禁されていたようだ。毒性はなかったのか?
とまれ、悪酔いするために飲む酒という知人の言葉に、ビールですら量を過ごせば悪酔いできる酒に弱い左利きとしては、そんなお酒は飲む気にはなれず、知人の再びの誘いも丁重にお断りさせてもらったのだった。酒は楽しく飲むべかりけりなのである。
7月12日22時。
これがフランス物。色合いがいまいちなのは瓶のせいだろうか。7月13日追記。
タグ: アプサン
2017年07月13日
大スランプ(七月十日)
まともな人様に読んでもらえるような文章が書けないという意味では、万年スランプというか、このブログを書き始めて以来解消できていない問題なのだが、いや、そこは単なる実力不足だと言われればその通りなのだけど、前を見るのをやめたら、ほら終わりだし、いつかはまともな文章が書けることを夢見て書き続けているのだから気にしないことにして、ブログを始めて一年半、今年の七月に入って筆が全く進まなくなった。
これまでも何度か筆が進まないとか、必要以上に時間がかかるとか、ねたがないとか、しょうもない愚痴めいたことを書き散らしてきたけれども、今回の大スランプに比べればかわいいものだった。何だかんだで、ネタが見つかって、ネタさえあれば、それなりに書くことも思いついて、それなりに、このブログ内のレベルでは、そこそこのものが書けていたのだ。ただし、よそ様の読める文章と比べてはいけない。
それが、今年もきゅうりの季節が始まって、書くことがなくなりよなあと思っていたのがいけなかったのか、七月に入って、いや六月末に久しぶりに『小右記』のまとめ記事を投稿したあたりから、何について書くのかを決められなくなった。いくつか暖めてあるテーマはあるのだけど、その中のどれを頭の中でいじくりまわしてみても、話が広がっていかない。断片的な文章、文は思いつく。それをどうつなげて一つの文章にするのかが見えてこなかった。
そもそも、このブログの文章は、それほど構成に気を使っていないので、書き出しから最後の部分まで、かっちりと結びついたものにはなっていない。こう書くと、意図的にそうしているように感じられてしまうけれども、構成的にきっちりしたものを書くには、時間と気力と体力をつぎ込んで意識して書く必要があるから、普通に書いたらこんな文章になるという面もある。
それで、きっちりと結構のある文章ではないけれども、それぞれの部分が、緩やかに結びついて、何となく一つの文章として読める、書いた本人としてはそう感じられる文章を書いてきたつもりである。それなのに、具体的にどの文章がとは言わないが、それぞれも文が別の方向を向いていて一つの段落にならない。段落にはなっても文章になっていないような、そんな感覚に襲われてしまった。
頭の中で文章の展開が出来上がらないまま無理やりに書き始めたから、まとまりのかけらもない文章になったという面はある。それでも頑張れば何とかなると思っていたのだ。結局、書き始めた文章を没にして、別なテーマで書き直すことも何度もあったし、文章全体ではなく、書きかけた段落や、分を丸ごとカットしてしまうこともあった。こっちは普段でもないわけではないけど、途中まで書いた文章を没にするというのは、これまでほとんどなかったんだけどねえ。
その結果、書くのに遅れが生じ、毎日のように投稿直前まで二日前づけの文章を書いていた。文章末尾の脱稿日時は、見得も入っているからフィクションの部分もあるのだよ。仕事の都合であまり時間が取れなかったとか、酒飲んで酔っ払ってかけなかったとか、そんなまっとうな理由がないのに書けないのがつらかった。
そう、久しぶりに書くことの辛さを味あわされたのだ。もう、今年の正月のように、一時休んでしまおうかと思ったくらいである。正月は寝込んでしまって物理的にかけなかったのであって、書きたくなくなったわけではない。今回は書きたくないという気持ちが芽生えてしまっていたのが危険な気がして休むという選択はできなかった。自堕落な人間なので、一度休んだら永久に休んでしまう可能性が高いので、嫌がる自分に鞭を打って書き続けることにしたのである。
そのため、普段からどうしようもない文章を垂れ流しているこのブログのレベルからいっても、どうしようもなさ過ぎる文章をお目にかけることになってしまって、申し訳ないの一言なのだけど、大スランプ中の文章の方がましだったとか思われていたら悲しい。本当はこのテーマも、大スランプのどん底のときに書こうと思いついたのだけど、ただでさえややこしい話になりそうなものを、文章に脈絡が付かない状態で書いたら、えらいことになると思って、多少回復するまで待つことにしたのだ。
それで、何とか最悪の状態は脱したことを確信できた今日になって、書くことにしたのだけど、冒頭部分のぐだぐだっぷりは、完全回復には程遠いことを思わせる。しかし、書きたくないという気持ちは消えたし、書き始めるに当たって、段落一つ、いや二つ分ぐらいまではめどが立ち、そこまで書く間に、次が見えてくるようになっているから、大スランプは終わったということにしよう。後はまた毎日毎日、愚にも付かない文章を書き続けるだけである。
久しぶりに当日分の記事を終わり近くまで書き進めることもできた。完成させるのは翌日のことになるだろうけど、ほかのことに使える時間が増えるのはありがたいことである。何をどう書くか考えるだけで、何時間も費やすのは時間の無駄以外の何物でもないし。
それにしても、何故に六月末にこんなことになったのだろうと考えて、去年夏越の祓について書いたことを思い出した。昔の人の知恵ってのは侮れないね。一年の真ん中に当たる六月の末に、大きな祓をして、次の半年に向けて気持ちを立て直していたのだろう。来年は茅輪くぐりの真似事でもしてみようか。
7月11日20時。
トマソンのことを書いたのがいけなかったのかもしれないとふと思ってしまった。トマソンの呪いなんてのなかったっけ? 7月12日追記。
タグ: 愚痴
2017年07月12日
森雅裕『サーキット・メモリー』(七月九日)
1986年6月にカドカワノベルズから刊行された『サーキット・メモリー』は、森雅裕の本としては4冊目で、角川書店からは2冊目にして最後の刊行作品となった。裏表紙に「将来を嘱望される大型新人」と記された割には、すげないあつかいである。『推理小説常習犯』に示唆されているように、この時点では角川関係者との間には修復しがたい溝ができていたのだろう。出版社も商売だからして、売り上げがよければ、そんな溝なんぞ無視して次の作品を依頼することになるのだろうが、森雅裕の作品がそこまで売れたとは思えない。
キャッチコピーが「オートバイ・ミステリー」とあるように、バイクレースを描くことが一番の目的ではなかったかと言いたくなるような作品である。デビュー作の『画狂人ラプソディ』について著者本人がいろいろ詰め込みすぎてと言うような発言をしていたが、こちらも多少その嫌いがある。バイクレースに、芸能界の賞取りレース、複雑な人間関係に、二十年も前のレーサーの死の謎を絡めてミステリーに仕上げているのだが、一番印象に残るのは、やはりロードレースのシーンである。
この作品には、出版社にとって問題になったであろう点が、少なくとも二つある。一つは、ヒロインのアイドル歌手の名前「梨羽五月香」で、講談社から二ヵ月後に出版された『感傷戦士』の主人公の名前と全く同じなのである。名前の由来については、それぞれ違った物語が準備されているけれども、出版社としては困ったであろうことは想像に難くない。
『サーキット・メモリー』は、90年代の初頭には、すでに入手困難な幻の森雅裕作品となっていて、実際に読んだのは。『感傷戦士』を読んで十年以上後のことだったから、名前が同じであることを大きな問題だとは感じず、「梨羽五月香」という名前が著者にとって大切な名前で、『歩くと星がこわれる』に出てきた沢渡黎のモデルになった人物の名前であろうと想像して喜んだだけだが、刊行当時からの森雅裕の熱狂的なファンがいたら、二冊連続で同じ名前の別人が主人公になっている本を読まされてどんな印象を持っただろうか。森雅裕は、出版社にも読者にも優しくないのである。
こちらの梨羽五月香については、森雅裕が『推理小説常習犯』に、デビュー当時のインタビューで、よく聞く歌手を聞かれて答えたら石川秀美に間違えられたというエピソードが紹介されている石川ひとみがモデルになっているという話である。答えるのも恥ずかしかったけど、間違えられたのはもっと恥ずかしかったと言うけど、いわゆる歌謡曲を聞かない人間にとっては、どっちもどっちで、特に目くじらを立てる必要もなかろうと思ってしまう。
石川ひとみモデル説の根拠の一つとなっているNHKの人形劇「プリンプリン物語」については、世代的には見ていてもおかしくないのだけど、多分断片的にしか見ておらず、そんなのもあったねえと言うぐらいの記憶しかない。だから、思い入れも持ちようがないである。NHKの人形劇と言えば何と言っても「三国志」なのである。「三国志」の次の、多分「ひげよさらば」もちゃんとは見ていないし。
『サーキット・メモリー』におけるモデル問題で、重要なのは梨羽五月香ではなく、企業、もしくはレーシングチームとしてのナシバのモデルである。これがもう、世界選手権のレースの実績から、開発中のマシンに至るまでホンダそのままなのである。違うのはマシンに付されたエンブレムで、羽根の付いた矢というのは、チェコの自動車メーカーシュコダのエンブレムを想像させて、当時すでにチェコにどっぷり浸かっていた人間としては妙に嬉しかったのを覚えている。
とまれ、あからさまにホンダをモデルにした企業で次々に人が殺されていって、二十年前のレース中のレーサーの死も事故ではなくて殺人だったという内容は、出版社としてはどうだったのだろう。主人公の二人は、創業者の社長の子で、娘の五月香は本妻の子、息子の保柳弓彦は愛人の子という設定も、人間関係に関してはモデルにしていないのだろうけど……。
ミステリーとしてのできは知らないが、作品としては十分以上に面白い。面白いのだけど、最初の読後感が、「いいのかこれ」だったのは、多分にこのホンダをモデルにしているのが原因だった。これが、もっと違った形での事件であればあまり気にならなかったのだろうが……。まあ、刊行当時は存命だったホンダの創業者が、読んでクレームをつける気になったかどうかはまた別の問題だけどさ。ホンダとかソニーに過度に思い入れのある世代からすると、ちょっとやりすぎである。
この二点の問題が、「この作品は、ずっと以前に世に出るはずだったが、諸般の事情で遅れたものである」という裏表紙の作者の言葉につながるのではないかと想像するのだがどうだろうか。もちろん、森雅裕が繰り返し書いている編集者の怠慢な仕事ぶりにも原因があるのだろうが、仕事が進まず怠慢に見えてしまう原因にこの二点の問題があったとしても不思議ではない。森雅裕の編集者たるというのも大変だったのだろう。その意味では、単なる読者でいられるのは幸せである。
実際にこの『サーキット・メモリー』を手に入れたのは、90年代も終わりに近づく頃で、ワニの本から「森雅裕幻コレクション」が刊行された後である。当時刊行されていた森雅裕の作品としては最後に読んだことになる。高校時代の80年代の半ばには、田舎の本屋でも見かけたから、それなりに数は出ていたはずなのだけど、90年代に入ると、新刊本屋はもちろんのこと、古本屋でも見かけないファンにとっては稀覯本と化していたのであった。定価よりも遥に安かったのは、一般にはあまり知られていなかったことを反映しているのだろうから、喜ぶべきか悲しむべきか。
高校時代に買えなかった理由は、一つは金銭事情であるけれども、バイクレースを描いた小説にアレルギーがあったのかもしれないし、あんまりぱっとしない装丁に買う気が薄れたのかもしれない。特に表紙の「1965/FILM」と書かれた丸いものを小脇に抱えたレーシングスーツに身を包んだ主人公らしき男の姿は、あんまり購買欲をそそるものではない。もう一人の主人公梨羽五月香がアイドル然として歌っている姿があしらわれていたら、別の意味で買う気になれなかっただろうけど。
「森雅裕幻コレクション」に『サーキット・メモリー』ではなく、『マン島物語』が選ばれた理由は簡単である。バイクレースを描いた小説としては、『マン島物語』のほうがずっと出来がいいのだ。三冊の中にバイク小説を二冊入れるというわけにもいかなかっただろうし。その結果、『画狂人ラプソディー』を超える幻の作品となってしまったのである。
例によって例の如く、この文章を読んだ人に、読みたいと思ってもらえるような文章にはならなかった。書評じゃないのだよ書評じゃと開き直っておく。
7月10日22時。
ナシバならぬホンダのレース活動、とくに主人公が駆ったNR500についてはこちらに詳しい。7月12日追記。