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2017年09月30日

チェコ対アイスランド(九月廿七日)



 女性名詞の話を続けようかと思っていたら、ハンドボールの女子代表の試合が行なわれたので、今日はハンドボールの話である。今年の12月にドイツで行なわれる世界選手権の予選が終了したばかりだというのに、来年フランスで行なわれるヨーロッパ選手権の予選が始まった。ハンドボールでは隔年でヨーロッパ選手権と世界選手権が行なわれるので、予選のサイクルが短く、ときどきどちらの予選をやっているのかわからなくなることがある。

 今回の予選で対戦するのは、デンマーク、スロベニア、アイスランドの三カ国。下馬評としてはデンマークが一番強くて、チェコとスロベニアが二位の座を争うというところだろうか。アイスランドの女子は、男子ほど強いイメージがない。このホームでのアイスランドとの試合に勝たないと、二位争いも苦しくなりそうである。アイスランドとはつい最近も予選で対戦したような気がするけれども、あれは男子のヨーロッパ選手権の予選だった。
 チェコ代表は温泉街ルハチョビツェでの合宿を経て、ズリーンでの試合に臨んだ。審判はルーマニアの女性二人、バルカンのチームとの試合ではないので変な笛が吹かれることはないだろう。チェコ代表が実力の差を発揮して大差で勝つことを期待しながら試合が始まるのを待った。

 前半は、ひどかった。最初にフルプコバーが得点を決め、三点差をつけたときには、このまま点差が開いて後半には控え選手を試すことになるかなと思っていたら、チェコ代表がミスを連発して、一進一退の攻防になってしまった。
 チェコの選手たちが新しい予選の最初の試合ということで神経質になりすぎている面もあったし、シーズンが始まったばかりで、試合勘が戻りきっていない選手もいたのかもしれない。最大の原因はアイスランドのディフェンスが予想以上に固かったというか、動きがよかったことである。ルズモバーにマンマークが付けられたのは厄介で、チェコの選手たちがパスミスを繰り返す原因になっていた。アグレッシブに当たってくるディフェンスに、チャンスを待ちきれずにディフェンスが崩れていないのに強引にシュートに行って外したり、ブロックに引っかかったりというシーンも散見された。

 アイスランドの守備は時にアグレッシブすぎて、退場を出すことも多かったが、チェコ側が焦ってミスを連発したせいで、最初の退場では特に点差が開くこともなかった。試合に大きな影響を与えたのは前半終了間際の退場で、そこで一気に三点取れて四点差まで突き放せたのが大きかった。
 それにしても昨年からのルール変更によってキーパーも普通のフィールドプレーヤーと同様に自由に交替できるようになったことで、退場者を出したときにキーパーを引っ込めてフィールドプレーヤーを送り込んで攻撃するという作戦をとるチームが多いのだが、現時点ではメリットよりもデメリットが目立っている。
 この試合のアイスランドもこの作戦をとっていて、そのおかげで挙げられた得点がないというわけではないが、守備に戻る際にキーパーとの選手交代にミスがあって(キーパーが中に入るのが早すぎた)、さらに退場者を出したり、チェコのキーバーのサトラポバーに代表初得点を許したりしていた。相手のシュートを止めて、コートの反対側のがら空きのゴールめがけてボールを投げたわけだ。
 キーパーを引っ込めた場合ディフェンスにパスをカットされたらほぼ100パーセント失点するというのは、二分間の退場時間中に取れるのがせいぜい二点、よくても三点でしかないことを考えると、リスクが大きすぎる。チェコ代表は退場自体が少なかったこともあるが、こんなリスクの高い作戦は取らず普通にプレーして、傷口を広げるようなことはしてはいなかった。

 後半に入ると、地力の差が出た言うべきか、チェコ代表が落ち着いたというべきか、安心してみていられる展開になり徐々にリードを広げ、最大で八点差まで行った。最終的には30対23の七点差での勝利だった。前半を見た限りではここまで点差が開くとは思えなかったのだけど、後半に入ってあれだけアイスランドの守備に苦しめられていたのがウソのように、攻撃の際のストレスがなくなり得点を重ねられるようになった。実際の点数としては前半も後半も15点だから、大きな違いがあるわけではないけれどもさ。

 後半には、滅多に見られないシーンが二つあった。一つは、二人の審判のうちの一人が、こけるか何かして片手の骨を折るけがをしたため、途中で笛を吹けなくなって、コートの外で治療を受けていたことだ。これが接戦だったらどうなっていたかはわからないが、すでにチェコの勝利はほぼ確定と言えるだけの点差が開いていたので、他にどうしようもなかったとも言えるけれども、残りの10分ほどは審判が一人しかいない状態で試合が続けられた。
 サッカーだと主審、副審に第四審判がいて、問題があったら交替できるようになっているけれども、ハンドボールの試合に予備の審判が置かれるということはないのである。中継を担当したチェコテレビのアナウンサーも解説の元ハンドボール選手も、こんな審判が怪我をして一人で笛を吹くというのは初めて見たと言っていた。子供たちの試合なんかだと最初から一人ということもあるけどそれはまた別の話である。

 もう一つは、アイスランドのペナルティースローで、交替で入ったチェコのキーパーのクドラーチコバーが、ペナルティーを止めただけでなく、そのリバウンドからのシュート、さらに二度目のリバウンドからのシュートまで三本連続で止めたことだ。男子のガリアや、シュトフルが当たっているときに二本連続で止めたのは何度か見たことがあるけど、連続三本というのは初めてじゃなかろうか。ペナルティを止めただけでも会場がわくのに、さらにに二本連続でだったので、会場だけでなくアナウンサーも解説者も大興奮であった。

 とまれ、いつものようにフルプコバーとルズモバーが中心の攻撃で、この二人がそれぞれ九点、五点取ったのだが、今回は若手のセンタープレーヤー、イェジャープコバーが六点、再度のマラーが四点と二人に頼るだけでなくなってきたのが、今後に向けて楽しみである。相変わらずポストプレーからの特典が少ないし、クネドリーコバーやサルチャーコバーというベテランのサイドプレーヤーの活躍が少ないのが気になるが、日曜日のスロベニアでの試合での活躍を期待しよう。
 サッカーの試合だと片手間に見てしまうことも多いが、ハンドボールの試合はやはり見入ってしまうなあ。
2017年9月29日17時。





2017年09月29日

女性名詞硬変化——チェコ語文法総ざらえ(九月廿六日) 



 副題がまた変わったような気もするが細かいことは気にしてはいけない。男性名詞については一通り復習し終わったので、しかもこれまで勘違いしていたことにも気づけたし、次は女性名詞の番である。その中でも今回は母音「a」で終わる硬変化を取り上げる。女性名詞であれっと思うかもしれないのは、活動体はないということである。男性では厳しく分別しなければならなかった生きているものと、いないものの区別は女性名詞にはない。
 この硬変化の女性名詞も日本でチェコ語を勉強すると最初に出てくるものなので、覚えてしまって間違いにくいのだが、そのせいで「a」で終わる名詞はすべて女性名詞の硬変化だと思い込むという間違いをしてしまうこともある。いやしてしまったのだけど、特に人の名字は、本来が女性名詞になる言葉であっても、男性を指す場合には男性名詞になる。女性の名字は原則として「オバー」をつけるというのを忘れてはいけないのである。

 とまれ、この女性名詞の硬変化、特に単数の変化は日本人には覚えやすい。日本人の中でも国語文法が得意だった人には、順番と数はちょっと違うけれども、動詞の五段活用みたいなものだといえば、その覚えやすさがわかってもらえるだろうか。動詞の五段活用は、未然形から命令形まで行ってもう一度未然形に戻って二つ目の形を使うと、語尾が「あ・い・う・う・え・え・お」 になる。それに対して、チェコ語の女性名詞硬変化の単数の語尾は、一格から「あ・い・え・う・お・え・おう」となる。これも一般に例として使われる「?ena(=女性)」の格変化を掲げておく。

1格 ?en-a
2格 ?en-y
3格 ?en-?
4格 ?en-u
5格 ?en-o
6格 ?en-?
7格 ?en-ou


 注意が必要なのは二格で、硬変化の語尾「い」は「i」ではなく、「y」で書かれるのである。チェコ語では「i」と「y」はどちらも母音で、原則として発音は同じである。「i」は軟子音に接続し、「y」は硬子音につけるため、「i」を軟らかい「い」、「y」を硬い「い」と呼んで区別している。また、「t」「d」「n」の後にはどちらも使えるが、どちらを使うかで発音、母音の発音ではなく子音の発音が微妙に変わってくる。日本人には発音し分けるのも大変だし、聞き分けるのはさらに大変だけどさ。

 それから3格と6格で子音が変わってしまうのも忘れてはいけない。「?ena」の場合には、「?en?」なので、換わっていないようにも見えるが、「n?」の子音は「n」ではなく、「?」である。「t」「d」「n」のように、「e」にハーチェクをつければいいものを除くと、子音が変わってしまうのは「ka→ce」「ha→ze」「ga→ze」「cha→še」ぐらいである。「p」「b」のように後に「?」が付けられるものもハーチェクをつけると覚えておくといい。それに対して「s」「z」のように子音にハーチェクがついて「?」が付けられないものは、そのまま「e」を使う。
 仮に3格、6格で子音を変えるのを忘れてしまっても、あまり気にすることはない。間違えてしまって指摘された場合に言い訳をしたかったら、「スロバキア語と交じっちゃった」と言っておけばいいのだ。スロバキア語というのは、全体的にチェコ語よりも発音がやわらかいくせに、ところどころ硬い発音が出てくるからたちが悪い。普段「ネ」ではなく、「ニェ」もしくは「ニエ」と言っている口から、「マトケ」(matkaの3格)とか、「フ・プラヘ(=プラハで)」なんて硬い語尾が聞こえてくると、チェコ語になれた耳が落ち着かないのである。

 この音、特に格変化の語尾の硬い、軟らかいというのが感覚的にわかるようになったら、チェコ語に対する感覚が鋭くなってきたと喜んでいいのだと思う。そのためにスロバキア語を勉強する必要はないけれども、たまに聞いてチェコ語の発音と比べるのも悪くない。その意味でもスロバキア人の意外と多いオロモウツはチェコ語の勉強にいいのである。

 とこれで終わりそうになってしまったが、複数の変化も忘れてはいけない。

1格 ?en-y
2格 ?en-
3格 ?en-ám
4格 ?en-y
5格 ?en-y
6格 ?en-ách
7格 ?en-ami


 複数では、1、4、5格が同じ形になるものが多いが、女性名詞の硬変化も同様である。注意が必要なのは、2格で語尾の母音が消えることである。一般に名詞が子音で終わるのは男性名詞の単数1格だが、女性名詞と中性名詞にも、複数2格が子音で終わるものがあるのだ。そして、語尾の母音を取り去った後、末尾が二つの連続する子音となる場合には、二つの子音の間に「e」が出現する。
 例えば、女学生を意味する「studentka」は、語尾の「a」を取ると「studentk」となるが、「e」を追加して、複数二格は「studentek」となるのである。子音が三つ連続する「mzda」の場合には、一つ目と二つ目の間に出現して「mezd」となる。これも最初は覚えるのが大変だけど、そのうちに感覚的にどの言葉の複数2格に「e」が必要になるかがわかるようになる。時間は、もちろんかかるけどね。それはもう、嫌になるほど。

 7格で「mi」が出てくるのは形容詞の複数7格などと共通で、複数七格の特徴となるから(そうならないものも多いけど)覚えておいたほうがいい。プラハ方言、いや普通の話し言葉かな? では、ここが「?enama」と「ma」になってしまうが、自分では使わないことにしている。こういうくだけた表現を外国人である自分が使うのがいいことだとは思えないのだ。我がチェコ語を築いてくれた師匠にも申し訳ないし、受け狙いで使うなら、今ではあまり使われなくなった古い表現の方がずっと気が利いている。
2017年9月28日18時。









2017年09月28日

ヤン・トシースカ死す(九月廿五日)



 チェコの俳優ヤン・トシースカが死んだ。享年80歳。土曜日にプラハのカレル橋からブルタバ川に転落し救急隊員によって救出され軍の病院に搬送されたものの、転落した際の怪我がもとで日曜日の深夜に亡くなったということらしい。80歳を超えていたとはいえ、毎日ジョギングするなど健康には問題なさそうだっただけに、その死は驚きを以て迎え入れられた。
 トシースカという名前を聞いて、すぐにあの俳優だとわかる人は、チェコ映画のファンか、チェコ語を勉強する目的でチェコの映画をあれこれ見てきた人ぐらいだろう。アメリカに渡ってからのミロシュ・フォルマン監督の映画のファンにも知られているかもしれないが、その場合にはヤン・トシースカではなく、ジャン・トリスカにされているかもしれない。

 トシースカの出演した日本でも知られていそうな映画としては、スビェラーク親子の最高傑作である「オベツナー・シュコラ(小学校)」(1991年)、アメリカに亡命する前のこれはスビェラーク父とスモリャクが脚本を担当した「ナ・サモテ・ウ・レサ(森のそばの一軒家で)」(1976年)があるぐらいだろうか。
 「オベツナー・シュコラ」では、担任の女性の先生を心がやむまでに追いつめた崩壊しきった学級を立て直すために送り込まれてきた先生の役を演じている。初めて登場するところで黒板に、自分の名前を書いて、「イメヌイ・セ・イゴル・フニーズド(私の名前はイゴル・フニーズドだ)」と言ってバンと黒板に腕をたたきつけるシーンは、数多のチェコ映画の中でも一二を争う名場面である。

 映画は第二次世界大戦直後の共産主義体制が確立しつつある時代を背景にしている。だからスビェラーク父演じる主人公の父親は、「チェコスロバキアは地理的にも東西の懸け橋になれる」なんてことを言うのだが、トシースカ演じるこのフニーズド先生は、戦争中のパルチザン上がりで軍隊的なスパルタ方式を持ち込み学級を掌握することに成功する。言うことを聞かないクソガキどもをどうにかするには、多少の体罰も必要だというのは世の東西を問わないのだ。
 ただこのフニーズド先生、厳しいだけではなく、授業中にバイオリンを弾いたり戦時中の武勇談を語ったりして子供たちの心を掴んでいく。その武勇談がちょっとすごすぎてパルチザン上がりと言うのは経歴査証じゃないかなんて疑惑も浮かび上がるし、とんでもない女好きで女性関係で問題を越して一度は解任されてしまうのである。子供たちの要望で復職するのだけど、遠足に出た先で不発弾に怯えて何もできないと言う醜態をさらしてしまう。
 ヤン・トシースカはこんな複雑な人物を見事に演じ挙げ、登場人物たちの中でも圧倒的な印象を残す。チェコテレビのニュースによれば、小さな役でも主役を越えるような存在感を発揮するのがトシースカの演技だったのだという。

 もう一つの代表作「ナ・サモテ・ウ・レサ」では、主役のスビェラーク父の友人を演じる。念願の田舎の一軒家を手に入れられそうなのに、妻の反対にあって悩んでいるスビェラーク演じるプラハ人が、トシースカ演じる友人と二人で田舎の一軒家に泊まって、平然と飲みのたかるベッドに横になる友人に思わず、「何でお前が俺の嫁じゃないのかなあ」なんて言ってしまうのが一番の見せ場と言うことになる。

 この映画が撮影された後、ハベル大統領とも友人だったトシースカは、1977年にアメリカに亡命してしまう。ハベル大統領の二人目の夫人が偉そうにトシースカについてコメントしていたけれども、共産主義政権に異を唱えた「ハルタ77」に対抗して、共産党が準備した「アンチ・ハルタ」に署名したと言われるこの女性が、「ハルタ77」の時代にハベル大統領と親交のあった人物に対して賢しらにコメントするのをチェコの人はどう思っているのだろうか。
 亡命したトシースカは、アメリカでも俳優の仕事をすることになるのだが、しばらく時間がかかったようである。1980年代に入ってから同じく亡命者のミロシュ・フォルマンの映画に登場するようになったらしい。その後、ビロード革命後にチェコに帰国したわけだが、原則としてアメリカに住んで俳優の仕事をし、チェコには仕事があるときだけ戻ってくるという生活を送っていた。チェコでは劇場俳優として活躍し、特にシェークスピア劇のリア王と言えばトシースカというぐらいになっていた。

 これから新しい映画の撮影に入るところだったというのに亡くなってしまったのは残念なことである。転落する前には、カレル橋の欄干に腰掛けていたというトシースカは、ブルタバ川の川面に何を見ていたのだろうか。
2017年9月27日23時。



 これにも出演しているらしい。殺し屋の役だったかな。9月27日追記。

ラリー・フリント [Blu-ray]






posted by olomou?an at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2017年09月27日

牛の話(九月廿四日)



 日本語では一つの言葉でまとめて表すのに、チェコ語では、全く違ういくつかの言葉が必要になることがある。例えば、ワニや蜂は、チェコ語に対応する言葉がなく、アリゲーターやクロコダイル、ミツバチやスズメバチなど個別の種類を表す言葉を使わなければならないのである。他に例を挙げろと言われても困るのだけど、特に蜂に関しては、日本語ではわかっていても、あえてミツバチと言わないことが多いので最初は苦労させられた。
 普通の動物でもオスとメスと子供をそれぞれ別の言葉をで表すのだが、猫のように「コツォウル」「コチカ」「コチェ」など共通する要素があればまだしも、同じ動物のことを指しているとは思えないものも多い。鶏を表す「コホウト」「スレピツェ」「クジェ」なんて、肉にしてしまえば全部「クジェ」の肉だというものだと思っていたら、「コホウト」「スレピツェ」を使う料理があったりするから困りものである。
 そんな困りものの中でも、困るのが牛(馬も困るけど話の都合上取り上げない)である。牛肉という場合には「ホビェジー」と言っておけばいいから、いや子牛の「テレツィー」もあるけど、そんなに大変ではない。生きている牛の場合に、「ビーク」「クラーバ」「ブール」「テレ」「スコット」「ヤロベツ」などあって、「テレ」が子牛という以外、はっきりとは区別は覚えていない。「クラーバ」は女性の悪口に使うから、牝牛かな。

 そうなのである。チェコ語では牛を表す言葉が、悪口として使われることが多いのである。「テレ」もちょっと頭の回転が悪いというか、もたもたしているような人に対する悪口(それほど悪意が強いというものでもなさそうだけど)になるが、何と言っても一番よく使われるのは、「ブール」である。もう悪口だとも、本来の形が「ブール」だとも意識されていないのではないかと思われるぐらい、特に若い世代によって濫用されている。
 二人称単数の人称代名詞と組み合わせた「ティ・ボレ」は、本来恐らく「馬鹿野郎」的な使い方をされていたはずだが、今では驚いたときに口からこぼれる言葉になってしまっている。失敗したりまずい状況に追い込まれたりしたら、キリスト教的な「イェジシュ・マリア」を使うけど、どちらかというといい意味で驚かされたときに「ティ・ボレ」を使っているように見える。自分では「イェジシュ・マリア」は使うけれども、「ティ・ボレ」は使えないので断言はできないのだけど。

 以前、まだチェコ鉄道が使っている電車の車両がおんぼろばかりでペンドリーノなんて影も形もなかったころに、ウィーンに出かけたことがある。ブジェツラフでチェコ鉄道のボロボロの薄汚れた車両が使われた急行を降り、オーストリア鉄道の普通列車に乗り換えようとしてみたら、もうチェコ側とは雲泥の差の新しい車両が使われた二階建ての電車だった。当時チェコにも二階建ての車両自体はあった。あったけれどもいつ車両の外側を掃除したのだろうと言いたくなるぐらい汚れに汚れていて、二階の部分に座っても窓から外の景色が見えるような代物ではなかった。
 そんなオーストリアの電車に驚いて、日本のものと比べたら驚くほどでもなかったのだが、チェコの鉄道に慣れ始めていためにはヨーロッパにもこんな電車があるのだと驚きだったので、うちのにこんなきれいな電車をチェコ語でなんていえばいいのか尋ねたところ、帰ってきた答えが「ティ・ボレ・ブラク」であった。うーん、それでいいのか。驚きの電車、驚くべき電車なんて意味なんだろうけど、今の若者言葉で言うと「やべえ」電車なんてことになるのかな。やっぱ自分じゃ使えんな。

 そして、「ティ」がなくなった「ボレ」だけでも使われるのだけど、こちらはもうほとんど会話の際の間投詞化していて意味などそこにはない。若い人や、年配の人でも工場で働いてるおっちゃんとかあんまり品がよくない言葉を使う人たちが自分たち同士で話すときに濫用していて、聞こえてきた話が全く理解できないことがある。だって、ひどいときには単語一つ使うごとに「ボレ」が入るんだよ、「ボレ」しか聴き取れなくなってしまう。

 驚いたのは、というか、この普段は使われているけれども、それについて話題になることはあまりない「ボレ」が、一躍時の言葉になったのは、十年近く前だっただろうか。サッカーの一部リーグのネット中継がきっかけだった。当時はチェコテレビとサッカー協会の共同プロジェクトで、テレビで中継される試合も含めて、全試合ネット上で無料で視聴できるようになっていた。
 確かテレビで放送されたスラビアの試合だったと思うのだが、チェコテレビのアナウンサーは、正確さではアイスホッケーのザールバに負けるけれども、表現の豊かさでは余人の追随を許さないヤロミール・ボサーク師匠で、解説者がおじいさんという感じのターボルスキーだった。この二人がハーフタイムの休憩時間に話している様子が音声だけネット中継で流れたのだ。

 その二人の会話の中に、特にボサーク師匠の発言に「ボレ」がひんぱんに登場して、チェコ中を驚かせたのである。正確には覚えていないけれども、「グド・ボレ・ナヒスタル・ボレ・タコボウ・スムロウブ・ボレ? カレル・ボレ・ヤロリーム・ボレ」とか何とか。文の意味はわからなくてよろしい。大事なのは「ボレ・ボレ」言っていることである。
 普段は中継の初めに「ズドラビーム・バーム・フシェム・ファニンカーム・ア・ファノウシュクーム・フォドバレ(サッカーファンの皆さんに挨拶申し上げます)」なんて言葉を使っているボサーク師匠が「ボレ」を使っているのだから自分も使うべきかと一瞬考えてしまったぐらいである。頭の中で、ボサーク師匠の「ボレ」を使った文を自分が行っているのを想像して、あまりの似合わなさに使えなかったのは、今にして思えば幸いだった。

 さて、チェコ語を勉強していて、若い男の子同士の会話が聴いても理解できないと思っている人は、「ボレ」を抜いてつなげてみると理解できるようになるかもしれない。それはともかく、チェコ語の会話に最もひんぱんに登場する動物は、牛、牛の中でも「ブール」の5格である「ボレ」だということは、統計など取らなくても確実だと断言できる。本来の意味は失われているけど。
 「ティ・ボレ」も、ただの「ボレ」も、チェコ人動詞の会話を理解するためには、知っていた方がいい言葉ではあるけれども、自分では使わないほうがいい言葉でもある。受けを取る必要がある時に使う手もなくはないけど、リスクの方が大きいかなあ。それならまだ、「クリストバ・ノホ」と言った方がいいような気がする。相手によっては「ティ・ボレ」と返されそうだけど。
 自転車操業はまだまだ続きそうである。
2017年9月26日23時。






2017年09月26日

師のオロモウツ滞在記4(九月廿三日)

その他の外国語 エトセトラ (ちくま文庫) [ 黒田 龍之助 ]




 「通訳・悲喜こもごも」と題された講演の原稿を読んで、改めて感じたのは、自分が本当の意味でプロの通訳としては仕事ができていなかったのだということだ。「通訳なんてまるで存在しないかのようになる」通訳は、始めて通訳の仕事をしたときから一度もできたことがない。だからと言って自分がこれまでやってきた仕事が無駄だとは思わないけど……。

 講演が終わった後、ロシア人の女学生と話すシーンもなかなかに感動的である。どういう事情かは知らないがロシアからチェコに移ってきてオロモウツで日本語を勉強している女の子が、黒田師の講演に感動してお礼を言いに来るのである。最初はちょっと日本語で話して、ロシア語に切り替えられるのだが、どうしてそんなに簡単にそんなことができるのだろう。
 ちょっと前まで、チェコ語で講演をし、恐らくは質疑応答もあったはずである。そして、ちょっと日本語を挟んでロシア語に切り替えるとなると、チェコ語と日本語とロシア語で混乱してしまいそうな気がする。こっちは、チェコ語と英語の切り替えもできずに、英語でしゃべろうと思ってもチェコ語が出てきてしまって、英語はそんなに難しくない内容を読むのにしか仕えなくなっていると言うのに。英語なんてできなくてもいいと広言しているから自業自得ではあるんだけどさ。

 それで、ふと考えたことがある。師はしばしば、チェコ語ができればスロバキア語は問題なく理解できると書かれる。だけどそれって本当にチェコ語ができればという一つの条件で成立するのだろうか。チェコ語だけはそれなりにできるけれども、スロバキア語はやっぱり難しいというのが、長年チェコでスロバキア語に接して来ての実感である。
 以前も書いたように発音が柔らかすぎて、チェコ語の硬さになれた耳には言葉として聞き取りにくいというのもあるのだが、意外と基本的な語彙の中に似ても似つかぬものがあることがあるのだ。ある程度はわかるようになっているけれども、なかなか覚えられないものもあって、「ナオザイ(=本当にだったかな)」には長らく悩まされたし、つい最近も「イバ(=だけ)」と言う言葉がわからないなんてことがあった。「だけ」は「レン」じゃなかったのかよ。こういう一見簡単な言葉がわからないと全体もわからなくなる。

 そうすると、チェコ語だけができることが条件なのではなく、他のスラブの言葉ができるというものスロバキア語の理解をしやすくさせている面はありはすまいか。ロシア語はもちろんウクライナ語、ベラルーシ語という東スラブの言葉ができて、チェコ語、ポーランド語という西スラブの言葉、それにスロベニア語も勉強していて、他のスラブ語に関する知識もあるというのが師なのである。そういうことにでもしておかないとスロバキア語は難しいと泣きを入れてしまう自分が情けなくなる。
 だからと言って、スロバキア語を理解するために他のスラブの言葉を勉強したいとは思えない。いや、スロバキア語も含めて今更他の国の言葉を勉強するのは無理である。今後もスロバキア語はわかるようなわからないような中途半端な言葉であり続けるだろう。ポーランド語は、似ているという人もいるけどほとんどわからんし、むしろ耳で聞くだけなら南スラブの言葉の方がわかりやすそうな気がするほどである。いや気のせいでしかないんだけどさ。

 本題に戻ると、「十一年目の実践編」で一番心に残るのは、実は帰国してからの話である。オロモウツ滞在中のお話も十分以上に面白く心を打つのだけど、外国に住む人間としては、帰国後に登場するエディくんの気持ちが痛いほどにわかってしまうのだ。エディくんはアメリカの大学の学生だが、実はスロバキアの出身で、民族的にはハンガリー系である。来日して二週間ほどのところで、師とその教え子のハンガリー語ができる人と話せて喜びのあまり泥酔してしまうのである。
 そんなエディくんに言っておきたい。チェコ語ができる日本人の全員が全員、そんなにスロバキア語が理解できるわけではないし、ハンガリー語ができる知り合いがいるわけでもないんだよ。数少ないチェコ語ができる日本人の中でも、数がそれほど多くないスロバキア語が問題なく理解できる人に出会えたのは本当に僥倖だったんだよ。その幸せをわかっているのかい。
 まあ、師と直接会って一緒にお酒を飲んで泥酔までしてしまった外国人に対するやっかみがないとは言わない。いやはや本当にうらやましい話である。

 以上、長々と書いてきたけれども、増補された文庫版の『その他の外国語 エトセトラ』の魅力が伝わったかどうかはこころもとない。こんな中途半端な文章を読むくらいなら、直接本を読んだほうがいいなどと、ここまで読んでくれた方がいたら失礼な言葉でこの件にはけりをつけることにする。
2017年9月25日23時。






2017年09月25日

レーバー・カップ(九月廿二日)



 今日から日曜日までの三日にわたって、プラハでテニスのレーバー・カップの第一回が開催される。このテニスの四大大会のオープン化の時代に活躍し、アマチュアとしてもプロとしても所謂年鑑グランドスラムを達成したオーストラリアのテニス選手ロッド・レーバーの名前を冠した大会は、現役選手にしてテニス界の生きる伝説となった(チェコテレビでそう言っていた)ロジャー・フェデラーが中心となって開催にこぎつけたというから、選手たちが中心のイベントのようだ。

 大会のフォーマットは、ヨーロッパチームと、ヨーロッパ以外の世界チームに分かれて行うチーム戦である。出場選手はそれぞれ六人、各選手の出場する試合数の上限、下限も決められているようである。試合は三セットマッチで、第三セットは10ポイント先取のスーパータイブレイク方式で行なわれる。
 三日間毎日シングルス三試合とダブルス一試合を行うのだが、金曜日と土曜日は、まず午後の部でシングルス二試合を行い、休憩を挟んで夜の部でシングルスとダブルスを一試合ずつ行なう。日曜日は順番が変わってまずダブルスを一試合行なってから、シングルス三試合である。最終戦が終わった時点で同点の場合には、さらに一セットだけのダブルスを行なって勝敗を決めることになっている。

 面白いのは、勝者に与えられるポイントが一律ではないことで、金曜日は1、土曜日は2、日曜日は3ポイントとなっている。試合数の合計が12、ポイントの合計が24で、勝つためには13ポイント以上獲得しなければならないのだが、金曜日、土曜日どちらかのチームが全勝しても12ポイントにしかならず、最短でも日曜日の第一試合のダブルスまでは、見ることができる。そこまで一方的になるとも思えないけど。
 両チームにはデビスカップに倣って試合に出ないキャプテン(日本だと監督と言われるかも)が置かれ、ヨーロッパチームはビヨン・ボルグ、世界チームはジョン・マッケンローという大物が務めている。どの選手をどの試合に出すかを決めるのがキャプテンの仕事である。ベンチにいて選手にアドバイスもするのかな。

 出場選手は、ヨーロッパチームが、ランキング一位のラファエル・ナダル、二位の発案者でもあるロジャー・フェデラー、四位のアレキサンダー・ズベレフ、五位のマリン・チリッチ、七位のドミニク・ティエムに、十九位の地元チェコのトマーシュ・ベルディフの六人。ベルディフのランキングが一番下というあたりとんでもないメンバー構成である。プラハ開催が決まった時点ではベルディフも十位以内にいたからなあ。
 世界チームのほうはちょっと落ちて、十六位のサム・クエリー、十七位のジョン・イスナー、二十位のニック・キリオス、二十一位のジャック・ソック、五十一位のデニス・シャポバロフ、七十二位のフランシス・ティアフォーの六人。ティアフォーはアルゼンチンのデルポトロが辞退したのを受けての代役である。世界と言いつつアメリカが四人、オーストラリア、カナダが一人ずつという構成になっている。

 これだけのメンバーが、特にヨーロッパチームのメンバーが一堂に会して試合をするなんてのはチェコではこれまでなかったことだし、これから先もありえないことだろう。それだけにどうしてプラハが第一回の開催地に選ばれたのかが気になる。ヒントはこの大会に関してプロツアーを管轄するATPもデビスカップを主催するITFもあまりいい顔をしていないらしいところにありそうだ。選手たちには圧力はかけられなかったようだが、審判にこの大会にかかわらないようにという通達が出されたらしい。
 そうすると、この大会を開催すると、ATP、ITFとの関係の悪化の恐れがある。それで、ATPのもとで大きな大会を開催している国のテニス協会が手を挙げにくくなっていたところに手を挙げたのがチェコだったのではないだろうか。プラハでの開催が決まったのは、確か一年以上前のことで、ベルディフはランキングの十位以内に安定していた。地元選手が選ばれて出場できそうだという点でもチェコが一番よかったのだろう。ベルディフが今の位置にいるのだけが誤算だったに違いない。今後ランキングが多少下でも開催地の選手を出場させるのかというのは、この大会の運営に当たってひとつの問題になりそうだ。

 一部では単なるエキシビションとして、軽視されているようだが、この大会エキシビションの軽さ、気楽さはかけらもない。どちらのチームも、どの選手も本気で勝ちに来ていて、初日から見ごたえのある試合が続いた。と言っても見たのは、深夜まで及んだダブルスだけだけど、そこまで試合が終わらなかったと言う事実が、白熱した試合が続いたことを物語っている。
 世界一のテニスファンでもあるらしいフェデラーが、ナダルと組んでダブルスの試合に出るために企画したとも言われるこの大会、初日をちらっと見ただけでも大成功で、シーズンオフをつぶしてアジアで行なわれているチーム対抗の大会なんかよりはるかに将来性がありそうだ。世界のテニスを牛耳る組織に負けることなく、成長していってほしいものである。
2017年9月24日23時。


 初日と二日目はともにヨーロッパの三勝一敗、ポイントでは9対3でヨーロッパチームがリードして最終日を迎えた。最終日はダブルスで世界チームが勝ち、続くシングルスは一勝一敗で、ポイントが12対9。最終戦でフェデラーが勝てばヨーロッパの勝ち、キリオスが勝てばダブルスによる決定戦ということになった。第一セットはキリオスが取り、第二セットは追い詰められながらもタイブレイクを制したフェデラーが取って、試合はスーパータイブレイクに入る。最初はキリオスがリードして、このまま行くかと思われたのだが、フェデラーが底力を発揮して逆転勝ち。劇的な幕切れだった。エキシビションという言葉がかすむような全力での試合の連続に、この大会は大成功だったといって言い。来年の第二回大会はアメリカのシカゴで行われることが決まっている。9月24日追記。





2017年09月24日

マサリク大統領あれこれ(九月廿一日)



 今から80年前、1937年9月21日に、チェコスロバキア第一共和国の初代大統領トマーシュ・ガリク・マサリクの葬儀が行われた。亡くなったのは一週間前の9月14日のことで、場所は大統領の別邸となっていたプラハから西に30キロほど離れたラーニの城館である。ラーニの城館はもともとハプスブルク家出身の神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ二世によって建設されたものらしい。
 マサリク大統領の墓も同地の墓地にあり、共産主義の時代には、墓参が禁止されていたわけではないが、秘密警察によって厳重に監視され誰が墓参したのかがチェックされていたのだと言う。チェコテレビのニュースによれば、マサリク大統領が残した最後の言葉が封印して残されており、それは今から8年後、没後88年目になららないと開けられないのだとか。

 マサリク大統領は、モラビアのスロバキアとの国境の近くホドニーンの町にスロバキア人の父とチェコ人の母の間に生まれ、両親がドイツ系の農場主のもとで働いていたこともあって、マサリク自身もドイツ語で教育を受けたらしい。その後ウィーンの大学を卒業してプラハの大学の教授になるのだが、政治運動に身を投じることになる。
 オーストリア議会議員の選挙にモラビアのバラシュシュコ地方から立候補したのだが、そのときに発送された支援を訴える葉書を見たことがある。コメンスキー研究者のH先生の曾祖父さんがマサリク大統領と懇意で、残されていた手紙を見せてくれたのである。チェコ語の筆記体が達筆すぎて外国人には内容までは読み取れなかったのだけど。
 その後、国を出てチェコ、チェコとスロバキアを合わせての独立運動の中心人物となっていくわけだが、マサリク大統領が日本を訪れたことがあるのを知っている人はどれだけいるだろうか。日本滞在時には、日本ではそれほど話題にならなかったようだが、マサリク大統領と出会ってその行動に感動して伝記を執筆して出版したという人がいた。今手元にはないのだけど、昔神田の古本市で手に入れて読んだことがある。

 第一次世界大戦直後に起こったシベリア出兵の口実とされたのがチェコスロバキア軍団だった。チェコスロバキア軍団は、オーストリア・ハンガリー帝国軍に従軍していたチェコ人、スロバキア人の捕虜の中から同じスラブのロシアとともに戦う義勇兵を募って編成した部隊である。ドイツ軍、オーストリア軍との戦いで戦果を挙げ、部隊の規模も大きくなっていくわけだが、ロシア革命が起こってはしごをはずされてしまう。
 チェコスロバキア軍団は、ソビエト政府との交渉の結果、シベリアを経由してウラジオストックに向かいそこから船でヨーロッパへと戻ることになっていた。しかし、移動が予定通りに行かなかったこともあって、対立が生じ暴動からソ連軍との戦闘が発生してしまう。そのチェコスロバキア軍団を救出するという名目で、日本、、アメリカなどがシベリアに軍を送ってソ連と戦ったのがシベリア出兵で、ロシア革命の影響が広がることを防ぐことを目的としていたと言われる。

 マサリク大統領は、このチェコスロバキア軍団の名目上の指導者となっていたので、軍団がヨーロッパに戻るのに日本を経由することができるように交渉するために日本を訪れたらしい。シベリア出兵が始まる前で、チェコスロバキアの独立も達成されていなかったし、日本側はそれほど重要な人物だとは考えていなかったようだ。
 それでも、チェコスロバキア軍団の一部は日本を経由してヨーロッパに戻っている。そのうちの一人が、ドラマ「チェコニツケー・フモレスキ」の主人公アラジムで、ウラジオストックから日本に向かうときに日本の役人に繰り返し聞かされた日本語の文を覚えていて、それがある事件の解決のきっかけになるというエピソードがあったりする。その日本語の文について、チェコ語から日本語にするのを手伝ったのは、ちょっと自慢である。嬉しさをわかってくれる人はあんまりいないだろうけど。

 それにしても、マサリク大統領がもう少し長生きしていたら、1938年のミュンヘン協定はどうなっていただろうか。ドイツ系の住民の中からも尊敬を勝ち得ていた大統領が健在だったら、ドイツもあそこまで強引な手は取れず、友好国だったフランスも簡単にはチェコスロバキアを見捨てたりはしなかったのではないかなどと考えてしまう。考えてみてもせん無きことではあるのだけど。
 ハベル大統領と並んで、チェコ人にとって最高の大統領であったマサリク大統領の衣鉢を継ぐような大統領が、来年の大統領選挙で選ばれることを願ってやまないのだが、候補者を見渡す限り、難しそうである。

 いつも以上にぐだぐだになってしまった。
2017年9月23日24時。






2017年09月23日

師のオロモウツ滞在記3(九月廿日)






 その後、スロバキア語の夕食、ポーランド語の昼食、チェコ語の酒宴を経て、チェコ語での講演が行われる。その日本語訳も収録されているのがうれしい。チェコ語で講演するのに、日本語で書いたものをチェコ語に訳すのではなく、最初からチェコ語で書いたというのは、さらっと書いてあるけれども、実はすごいことなんじゃなかろうか。
 このブログの文章ぐらいだったら、最初からチェコ語で書くのもそんなに大変ではないけど、いや一部与謝野晶子について書いた文書とか、小右記について書いた文章とか、内容的に難しく、思う付いたままに垂れ流すのではなく、全体の見通しを考えながらかなければならなかった文章については、最初からチェコ語で書く自信はない。
 パラツキー大学での通訳についても講演も、全体を通して最初からチェコ語で書くのは大変だったろうなあと思わせる内容である。それだけでなく、面白い。大事な話の間に、くすぐりが出てきて、この辺チェコ人笑うだろうなあという場所が何か所もある。話す場合でも、文章を書く場合でも、こういう緩急をつけるというのは大事なのだ。

 講演では通訳をする際に気を付けなければならないことが、実例を交えながら説明されるのだが、学生時代にこんな話を母語で聞くことができたというのは幸せなことである。そのことに気づくのは、大学を卒業して日本語を使った仕事を始めてからになるかもしれないけど。個人的にもチェコ語を勉強して始めての通訳の仕事をする前に聞いて、いや読んでおきたかったと思う。
 注意すべき点の一つに、動物の名前、植物の名前は、訳しただけだと相手を満足させられないこともあるから、「〜の一種」とか「日本の〜」という表現を使ったほうがいいというのがある。これについては、以前、チェコに住む日本人と、チェコの?ápと日本のコウノトリは本当に同じものなのかという話で盛り上がったこともあるので、その通りだと思っていた。同じ動物、植物だけど日本のとは見た目が微妙に違うとか、同じように見えるけど実はちょっと違う種類だとかいう例はいくらでもあるし、全く同じものだと言われても確信が持てないから、例えば「さくらんぼ」ではなく、「さくらんぼの一種」と言われた方が安心するという面があるのだ。

 それが、先日、この考えとは合わない体験をしてしまった。九月の初めに頼まれてツアーでオロモウツに来た人たちのガイドをした。このツアーは、普通の観光ツアーではなくて、山登りやトレッキングを目的としてチェコ、スロバキア、ポーランドをめぐるという特殊なツアーだったらしく、チェコの最高峰スニェシュカに登り、スロバキアとポーランドの国境にそびえるタトラ山地に向かう途中で、オロモウツに一泊したようだ。せっかくだからオロモウツの観光もということで、こちらにお鉢が回ってきたのである。
 ご本人達の言葉では、シルバー軍団だと言うのだけど、ただのシルバーではなく、元気なシルバー軍団で、アルプスなんかのヨーロッパの有名どころは大半歩いたので、穴場のチェコにやってきたという人が多かった。こういう方々を相手に、街中だけを回っても喜んでもらえないのではないかと考えて、八月の初めに知人を案内したコースから始めることにした。つまり最初に向かったのはオロモウツ城を、オロモウツの城壁を見上げることができる城下公園だった。
 黒や茶色のリスが走り回っているのはよかった。日本のリスとまったく同じものなのかはわからないけれども、いかにもリスだったしみなさんリスだということで納得していた。今思えば、ここで日本のリスと同じなのかなとならなかった時点でこの人たちが普通の観光客ではないことに気づくべきだったのかもしれない。

 その後、公園に生えている木の名前を聞かれたのだが、日本語でもチェコ語でもなんと言うかわからなかった。準備不足などというなかれ、事前に公園に出かけて生えている木の種類を確認する必要があるとは思いもしなかったし実際必要なかったのだ。
「あれ、これ姫リンゴだわ」
 質問された方が自分で葉っぱや生っている実を見て、何の木なのか気づいてしまわれた。日本だと盆栽にして小さく育てることが多いという話まで教えてもらってしまった。

 マロニエの実を拾った方は、
「これって栃のみなんだよね。ヨーロッパの奴は日本のとはちょっと違ってマロニエっていうことが多いけど」
 なんてことを教えてくれた。マロニエは知ってたけど、栃の実が近縁種だとは知らんかったぜ。やっぱり日本語でも言葉でしか、知識としてしか知らないものを、見ただけでそれが何かわかるというのは至難の業なのだよなあ。

 今回案内した方々は普段から山を歩いて自然に触れているから、その結果として自然に自然に対する観察眼もが鋭くなっているのだろう。そうなると、通訳やガイドには出る幕がない。
 だから、動植物の名前を訳すときには、「〜の一種」とか「日本の〜」という表現を使ったほうがいいというアドバイスには、ただし例外もあると付け加えさせてもらう。その例外は、ガイドされる人たちの方がガイドよりもはるかに動植物について詳しい場合である。その場合にはもう白旗をあげて任せてしまうしかない。かなり希少な例外にはなると思うけどね。

 本についてはほとんど書かないままこんなところまできてしまったので、この件、もう少し続く。このブログにまともな本の内容の紹介や、書評めいた文章を期待してはいけないのである。
2017年9月22日23時。



2017年09月22日

師のオロモウツ滞在記2(九月十九日)

その他の外国語 エトセトラ (ちくま文庫) [ 黒田 龍之助 ]






 昨日に続いて、『その他の外国語 エトセトラ』(今気づいたけど、文庫版では書名も増補されていた)、いやその増補された第四章についてである。
 オロモウツのパラツキー大学で講演をすることになった経緯、日本での準備を経て、オロモウツについて最初に登場するのは、日本語が上手なスロバキア人のベロニカさんである。仕事がらオロモウツの日本語ができるチェコ人、スロバキア人の知り合いは多いのだけど、どのベロニカだろう。宇都宮大学に留学したという話だからあれかななどと読み進めていると、さすが、と膝をたたきたくなるような記述が出てきた。

 会話志向の外国語学習者は珍しくないが、多くの学生がスラングを覚えたがる。くだけた口調で同世代とペラペラやってみたいという願望が非常に強い。だがはっきりいって、そんなものは何の役にも立たない。(str. 340)


 力強く断言してくれているのが心強い。友達同士でぺらぺら意味もないことを喋り散らせればそれで満足というのなら、勝手にしろだけれども、将来学んだ言葉を仕事に使いたいと考えているのなら、くだけた表現、スラングを身につける意味はない。でも、日本語を勉強しているのなら、日本に行って変な日本語を使う変な外人と言う立場でテレビタレントになるという形でなら生かせるかもしれないか。
 くだけた言葉遣いもできるというのなら、状況に応じて使い分けられるというのを前提にしたうえで、意味がなくはない。しかし、くだけた言葉遣いしかできないのであれば、仕事で使うのには役に立たない。せいぜい同レベルの言葉遣いしかできない連中と内容のない会話をくだくだ繰り返すだけに終わるだろう。そんな話をするためなら、苦労して外国語を勉強する意味はない。

 想像してみてほしい。仕事で、仕事じゃなくてもいいや、あまりよく知らない外国人にいきなり「あんたさあ」とか、「いいじゃんそれ」とか言われたら、どんな印象を持つだろうか。外国人ではなく日本人であったとしても、こいつとは近づきたくないと思うに違いない。スラングやくだけた表現は、知ってはいても普段は使わないと言う姿勢が求められるのである。
 チェコ語にだって、知っているけど使わない表現はいくらでもある。「ty vole」や「do prdele」なんかの意味は、よく知っているし、チェコ人が使うのを聞くこともよくある。でも自分では絶対に使わない。それは、自分のチェコ語を下品なものにしたくないからだし、通訳として仕事をする人がそんな言葉を使ったら信用されないのではないかと考えるからでもある。

 それに、現地の人が使うスラングは、現地の人が使うからこそかっこよく響くのであって、関係のない人間が使ったら滑稽に響くだけである。関西出身じゃない人間が関西方言でしゃべるのに通じる痛さがあるといえばわかってもらえるだろうか。聞くに堪えないのである。プラハ人みたいに「dobrej」なんて言うのは、自分の口から出たと想像するだけでもおぞましい。
 だから、ブルノのハンテツという方言から広まって使う人の増えた「シャリナ(=トラム)」も、オロモウツの人間としては使えない。ただ、トラムの定期券だけは、ほかにいい言葉がないので「シャリンカルタ」と言ってしまうことが多かったのだけど、最近職場まで歩くことで定期券を買わなくなったので使う必要がなくなった。歩くのは健康にいいだけでなく、精神衛生上もいいのである。

 下品な表現はともかく、多少のくだけた言葉を意図的に使う場面がないわけではない。それは、仕事とは関係のない雑談をしていて笑ってもらう必要があるときである。通訳なんかの仕事をする際に、一緒に仕事をする人たちとは、ある程度打ち解けた関係が作れた方が効率がよくなることが多いので、休憩時間なんかに日本人ともチェコ人ともあれこれ雑談をするのだけど、そんなときに多少くだけた表現を使って話すと、外国人がこんなことまで言うというので笑ってもらえるのである。
 その場合に方言を使うこともある。「Já sú z Olomouca(=私はオロモウツの出身です)」なんて言うと喜んでもらえることが多い。他にも驚いたときに使う「Je?íš Maria」の代わりに、「Kristova noho」、「Samoz?ejm?」の代わりに「Ba?e」なんて言うと結構笑ってもらえる。外国人がスラング、くだけた表現を使うってのは冗談にしかならないのである。

 その点ベロニカさんの日本語は上品で、「皇室や大臣を迎えて通訳をしても、まったく問題ないレベル」だというから素晴らしい。パラツキー大学には、今後も上品な日本語、端正な日本が使えるチェコ人、スロバキア人の学生を育てていってほしいものである。
2017年9月21日23時。



 親本もまだ生きているみたいである。9月21日追記。







2017年09月21日

師のオロモウツ滞在記1(九月十八日)





 日本に行っていた知人がお土産として、黒田龍之助師の著作を二冊持って帰ってきてくれた。ありがたいことである。ついつい旧作に手を伸ばして、斜め読みのつもりが読み込んでしまって仕事に支障が出ているのだけれども、師の本を読むのは仕事に優先するのである。椅子に座ってコンピューターでする仕事というのは、誘惑が多くていけない。

 一冊は『寝る前五分の外国語』で、白水社から2016年に出版されたものである。白水社のPR雑誌「白水社の本棚」に2003年から2010年にかけて連載された語学書の書評をまとめたものだという。語学書の書評ってことは、チェコ語の教科書についてもあるかなとぱらぱらめくってみたら、一冊だけ取り上げられていた。旧版の『エクスプレスチェコ語』(str.134-135)である。とりあえず、そこだけ読んでみた。
 この教科書、日本語の「ある/いる」もしくは「だ」にあたる動詞「být」の現在変化ではなく、未来変化から文法の説明が始まるという入門書にあるまじきものなのだが、「わたしは恐れをなし、ほとんど開くことがなかった」と書いてあるのに、ちょっと安心してしまう。スラブ語に属する言葉をいくつも勉強している黒田師にしてこうだったのだ。英語すら物にならなかった外国語音痴が第一課を見た瞬間に購入したことを後悔し、本棚に放り込んだまま、なかったことにしたのも仕方がないことだったのだ。

 末尾に「『エクスプレス』には日本のチェコ語教育の未来があったのかもしれない」と書かれているけれども、そんな未来は嫌だ。『エクスプレス』シリーズが初心者を対象とした入門書であることを前提とするのなら、やはり文法事項は、つまらないと言われようとオーソドックスな並びであるべきである。『エクスプレス』でチェコ語の基本を身につけた人が、復習するための教材なら未来形から始めるという並びも悪くない。第八課にまとめられているらしい挨拶なんかはすっ飛ばしてもいいくらいだけどさ。
 そもそも、外国語の未来という時制は日本語に対応するものがないのである。かつての英語教育では、未来形を日本語に訳すのに「だろう/でしょう」を付けさせるという無茶なことをやっていた。「だろう」は本来推量の助動詞で未来なんてものとは何の関係もないのにさ。そんなことをするから子供たちの日本語がおかしくなっていくのだ。今ではそんな珍妙なことをさせる先生はいなくなっていると信じたい。

 目次を見る限り、自分で使ったことのある教科書、辞書は一冊もない。学校の授業以外で、自分で教科書を買って勉強したのはチェコ語しかないのである。チェコ語の『エクスプレスチェコ語』(旧版)は本当に買っただけだし、学校で勉強した英語とドイツ語は義務で勉強しただけなので、自分で教科書を探して買ってまで勉強しようなんて気にはならなかった。日本の中学高校で推奨されるようなものを著者の黒田師が取り上げると思えない。
 現時点では、いくつかの教科書への書評をつまみ食い的に読んだだけだけど、読んだだけでその外国語を、いやその教科書を使って勉強した気分にさせてくれる。真面目な読者なら、その教科書を使ってみたいと思うのだろうが、外国語はチェコ語だけで十分だと言ってはばからない人間としては、書評を読んで勉強した気になれれば、それでお腹一杯である。チェコ語を勉強したときのことを、今更他の言葉で繰り返したくはない。

 そして、持ってきてくれたもう一冊が、今年の春に筑摩書房から刊行された『その他の外国語』の文庫版である。現代書館から2005年に刊行された親本は持っている。持っているだけでなく、その中の一節を元にこのブログの記事を書いたこともある。でもこの文庫版は、ただの文庫版ではなくて増補版なのである。
 その増補された部分が第四章の「十一年目の実践編——チェコ共和国講演旅行記」で、「十一年目」ということは、2005年を一年目とすれば、2015年に黒田龍之助師がオロモウツに滞在してパラツキー大学で講演をされたときのことが、さまざまな特に言葉に関するエピソードを交えながら書かれているのである。
 これはもう、全てを放り出して読むしかないということで、本来は巻頭から読み始めるべきところを、第四章だけ先に読んでしまった。個人的には、チェコ語だけでもその海でおぼれかけているわけだし、ここまで多言語な世界に放り込まれるのは勘弁してほしいところなのだが、黒田師が描き出すさまざまな言葉とのふれあいは魅力的である。

 本題であるこの「十一年目の実践編」については、例によって例の如く長くなったので稿を改める。
2017年9月20日15時。










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