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2019年10月11日
またまたコメントの話(十月九日)
以前コメントをいただいた「TripPartner」というところから、再びコメント、というか依頼をいただいた。前回はコメントをもとに記事を書いたので、今回も繰り返そうと思う。記事でははっきり断るような文面ではなかったから、再度の依頼が来たのだろうか。絶対いやだという拒否の気持ちはないのだけど、だからといって積極的に引き受ける気にもなれない。それであんな中途半端なことを書いてしまったのだろう。
今回は「スカウトチーム」という名前でコメントが入っていて、スカウトされちゃったよと思ってしまった。これがこのブログをはじめる前の話だったら、気楽に引き受けていたかもしれないけど、露出がないから依頼自体がなかった可能性のほうが高い。ブログを始めて以来、書くことの楽しさだけでなく、大変さ重さにも自覚的になっているので、気楽に引き受けるとは言いにくいのだ。
気が進まない理由を考えると、まず、時間が取れるかどうかわからないというのがある。一応本業というものがあって、その合間つかって毎日文章を書いているわけだ。ブログの記事を書く合間に本業をやっているとか、日本語を使う仕事をしているから、外国で日本語の運用能力を維持するという意味では記事を書くのもまた本業の一部だとか、考えてもいいわけだけど、一本の記事を書くのに継続した時間は使えず、空いた時間に細切れに書き進めるという事実はかわらない。
それは、ここにあげてある記事のできの悪さ、文章の結構がおかしかったり、ひどいときには文頭と文末がちゃんと呼応していなかったりすることがあるのを思い出してもらえれば、すぐわかるはずだ。間違いに気づいても、面倒くさくて、じゃなくて、時間がなくて放置したまま忘れてしまうことが多い。今は個人的な理由で、自分のために、いわば自己満足で書いているから、こんな状態が許されるけど、依頼を受けて、ましてや謝礼をもらってとなるとそんなわけにも行くまい。
一時間なり、二時間なりまとまった時間を取って集中して一文を物していくだけの時間があるのか。いやそれ以前に、それだけの時間考えながら書き続けるだけの集中力はあるのだろうか。自分のことながら信用できない。そして最悪なのが、時間を取って集中して書いたとしても、出来上がった文章の質が保証できないということだ。読めない文章を書いているつもりはないけど、敬愛する作家が森雅裕である。誰にでもわかる読みやすい文章よりも、読者を選びそうな癖のある文章を書いてしまう。意図せずともおのずからそうなってしまうのだ。
二つ目の理由は、何を求められているのかわからないということだ。以前も書いたけど、件の「TripPartner」の記事は、こちらが書き散らしているものとは毛色が違いすぎる。メインになっている記事は、「〜なもの○選」という書き手のお勧めのものをいくつか並べて紹介するタイプのもので、いやあ、無理だわ。書きたい書きたくない以前に、この手の記事は自分には書けそうもない。
たくさん使用されている写真に関しても、求められたとしても無理としか言いようがないし、仮にこちらが引き受けて記事を書いたとしても、依頼してきたサイトのメリットにはなりそうもない。そんなんで報酬をもらうのも申し訳ない。具体的にこういう記事がという依頼であればもう少し検討の使用もあるのだけど。
その辺の具体的な話はコメントではなく、個別のメールでということなのかもしれないけど、一度直接連絡してしまうと、断りにくくなるというのも二の足を踏んでいる理由である。コメントからは具体的な依頼の内容が想像できないしなあ。「相互協力」「相互送客」なんて言葉もあるから、別に記事を書かなくてもいいのかもしれない。ただこれも何するのかよくわからんという点では変わりがない。
最後に「既に返信頂いた方・ライター登録頂いた方がおりましたらご放念ください」なんてのがあったことを考えると、同じ文面であちこちのブログに機械的に声をかけているようにも見える。それなら気軽に断ってもよさそうだ。ということで、この件は現時点では引き受けかねるというのを結論にしておく。
ところで、「おりましたら」とあるところから、書いた人は西日本の人ではないかと想像するのだけどどうだろうか。
2019年10月9日25時。
2019年10月10日
変なコメントの新戦略?(十月八日)
最近筆が進まないのは、高血圧の薬のせいかもしれないなんてことを考えてしまった。それが正しいのかどうかはともかくとして、ネタもあまりないので、最近届いた変なコメントの話から。いろいろ禁止の設定をしたおかげで、最近来なくなっていたブランド品のコピーを売るお店の宣伝のためのコメントだけど、久しぶりに来た。この前来たのは二件同日に来ていて、面倒だったので中身の確認もしないまま、禁止の設定の追加もしないまま消してしまったのだけど、一週間ほど前に来たのは、目を通してみたら、これまで以上に変だった。
これまでのは、機械翻訳でもしたのか、日本語がボロボロで意味不明のところは多かったものの、取り上げた販売サイトを褒める意志だけは読み取ることができた。このブログでは効果はなかっただろうけど、褒めて注目してもらおうというのはわからなくもない。それが今回は、宣伝するサイトに文句をつけるようなコメントが来ていた。
ロレックスレプリカ,時計コピーレプリカ
件名はこれまでと大差なく変だとは思わなかったのだが、最初の文が、唐突な印象を与える。
カギの状態まで検品されていなかったのが残念です。
後につながる部分を見ると、順番を入れ替えた結果変な並びになってしまったようにも見える。そう考えると、このコメントも、日本語ができない人の仕事ということになりそうだ。そして、二行目には、宣伝の文が挿入される。
【送料無料】ミュウミュウ トートバッグをセール価格で販売中♪ミュウミュウ トートバッグ ブラック レザー 新品 ギャザー MIUMIU
日本語がおかしいせいで意味不明なところはないけど、「ミュウミュウ」というのと、この文脈での「ギャザー」がわからない。まあ、わかる人にはわかるから問題ないのかな。これがわかるような人が、この文章を読んでいるとは思えない。
続いてまたクレーム。
青錆がありました
大きめトートで、しっかりしたお品でお手頃価格だと思いましたが、チャームの中のカギに青錆がびっしりでしたので、閉められないと思います。
発送は早くてよかったのに残念です。
この部分だと、最初の「青錆がありました」が浮いている感じである。「閉められないと思います」を読んで、最初は試してないのかと思ったけど、この手の「思います」は、日本人は濫用する傾向にあるから、特に気にしなくてもいいか。改善するなら、最初の文も合わせて、こんな感じかな。
青錆がありました。カギの状態まで検品されていなかったのが残念です。
大きめトートで、しっかりしたお品でお手頃価格だと思いましたが、チャームの中のカギに青錆がびっしりでしたので、閉められないと思います。
発送は早くてよかったのに残念です。
このぐらいであれば、日本人が日本語でコメントしたとしても、書いてしまいそうなちょっと変な日本語で済む。ただ、この後にアドレスがあるのだけど、販売店のHPではなく、商品のページになっているようである。こんなのを読んで実際に商品を見てみたいという人はいるのかね。個人的には、青錆のびっしりついた写真があるなら見てみたいとは思った。怖いもの見たさというやつである。
今までのがあちこちに氾濫した結果、新たな宣伝の方法を模索しているのかもしれないけど、どうなのかなあ。うちのブログにまでやってくるということは、新しいとは言っても、よそではすでに使い古された手法なのだろう。以前は、ヤフーのスポーツナビがやっていたブログのサービスで、時々面白そうな題名の記事を読んで、お気に入りのブログを定期的に読みに行くこともあったのだけど、サービス停止になって以降は、ブログ自体を読む機会が減ったし、コメントまで読むこともまれになった。
だから、ブログの管理者もすぐに消すだろうし、どんな、この手の似非コメントが横行しているのかはわからない。関係のないブログに間違えたふりをしてお礼のコメントを入れるのはみたことがあるような気がするけど、文句付けるのはあったかなあ。効果が全くないわけではないからこんなことをするのだろうなあ。人を使っているのか、自動のプログラムを組んでいるのか。最新の記事にこの手のコメントがついたことはないから、後者かなあ。
さて、次はどんな言葉の組み合わせを禁止しようか。「ロレックスレプリカ」と「コピーレプリカ」で試してみよう。この二つなら普通のコメントには使われないだろうしさ。
2019年10月8日23時30分
なんてことを書いたら、また変な広告っぽいコメントが来ていtた。ほめてあるみたいだったけど、その誉め方が微妙で……。
「ロレックスレプリカ」で検索したら、こんなのが出てきた。ロレックスではなさそう。「N級品」ってのもどこかで見たなあ。
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こっちは値段から言って本物っぽい。
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2019年10月09日
冬来たり(十月七日)
九月の二日以降は、気温は上がったり下がったりを繰り返しながら、だんだん涼しさを増していた。体がまだ夏に慣れた状態だったから、着るものの選択に苦労させられた。職場についてしまえば問題ないのだが、そこまでで寒さを覚えたり、逆に暑くて汗をかいてしまったりと苦労させられた。そんな天気にも慣れはじめて、秋の到来を喜んでいた先週、朝晩の気温が10度を切るようになり、冬も近いと思っていたら、今日、昨日かもしれないけど、起きたらもう冬だった。
長かった冬の終わりに慌てて購入して、履く機会のなかった冬物のズボンを引っ張り出す機会が来たのはいいのだけど、これでまた秋物の上着を買う機会を失してしまった。そろそろ買おうと思っていたら冬が来るんだもんなあ。来年の春に着ることを考えて今のうちに買うかなあ。秋物の上着を着るしかないという時期が短いのも、ずるずると買えないでいる理由になりそうだ。
気温が急に下がったせいか、職場でも風邪をひいている人が多く、こちらにだけはうつさないでくれとひどいことを考えてしまった。冬の初めに風邪は引きたくない。ただでさえ、気温の急激な変化のせいで、体調がいいとは言えない上に、血圧の薬を飲まされていて、自分でも健康なのかどうかわからなくなってしまっている。これまで以上に眠くなるのは、一体何が悪いのか。年齢を重ねると睡眠時間は減るって聞いてたんだけどなあ。
冬の寒い中、スキーなどのスポーツをすることもなく、職場への行き帰り以外は暖房の聞いた室内でぬくぬくとだらける生活をしているだけでは、寒さに強い体は作れないということだろう。でも一応南国の九州生まれの人間にはウィンタースポーツなんて無理なのだ。こんな点でも我が人生、いたずらに馬齢を重ねるだけである。ただ、「マスター・キートン」でキートンの父親が言っていたように、無駄な時間を過ごすと言うのも幸せではあるのだ。ただ、無駄な時間しかすごしていないのが問題なだけであってさ。
今年は、雨も多く空が曇っていて、風が強いと、寒さをより強く感じてしまう。十月末には冬時間が始まる関係で、日没の時間が早くなる。そうなると、気分は落ち込む一方である。チェコ一年の絶望的な気分にはならないにしても、気がめいることが増えていく。今から憂鬱である。来年から夏時間が廃止になるというのが楽しみでならない。心配はイギリスのEU離脱と同等に、延期の繰り返しにならないかということぐらいである。
冬が来るたびに思うのは、夏の熱気をどこかに保存しておいて、冬の暖房に使うことはできないかということである。逆に冬の寒さを夏まで保存するでもいいけど、可能になれば、暖房や冷房にかかるコストが、いわゆる環境コストも含めて大きく減ると思う。文系の人間には可能なのかどうかすらわからないけど、誰か研究している人はいないのかな。冬の寒さを夏に利用するものとしては、昔から氷室なんてものがあって、冬の間に保存しておいた雪や氷を夏になって消費するというものだった。それを現代的な方法で再現することは不可能ではないと思うのだけど。
これから冬が来年の三月まで続くと予想される。「冬来れども春近からじ」という気分である。
2019年10月7日24時。
2019年10月08日
ラグビーでチェコ語を勉強する3(十月六日)
承前
昨日の話が短くなってしまったのは、ラグビーに時間を取られているからだけど、今日も状況はそんなに変わらない。サッカーだとよほどのいい試合でない限り、見た試合の余韻に浸るなんてことはないが、ラグビーの場合にはほぼ全試合余韻に浸ってしまうので、試合と試合の間の時間が短すぎてもどかしくなることがある。余韻に浸っている間に、次の試合が始まってしまうのである。見なきゃいいとは言う勿れ。ラグビーとハンドボールは、放送されていて時間があれば見てしまうものだ。
さて、チェコ語のラグビー用語の続きである。ラグビーのボールは、普通のスポーツと同じように「mí?(ミーチ)」と言ってもいいようなのだが、この前、試合を見ていたら、解説者が、ミーチを使ったことを、ラグビー関係者に詫びていた。それはラグビー界ではミーチではなく、「šiška(シシュカ)」という表現を使っているかららしい。シシュカは本来は長めの松ぼっくりのことをさすのだが、そこから形の似たものをさすようになり、ラグビーのボールも楕円形で似ているから、種々化と呼ばれるようになったようだ。ボールをミーチと呼ばないのも、チェコのラグビー界の誇りなのかもしれない。ミーチじゃなくてバローンと呼ぶスポーツもあったような気がするし。
ボールを蹴るフリーキックやペナルティーキックなどのキックは、「kop(コプ)」という。蹴るという意味の動詞「kopat」と関係があるのだが、フリーキックは「volný kop(ボルニー・コプ)」と直訳っぽくてつまらないのに対して、ペナルティは「trestný kop(トレストニー・コプ)」で罰という意味の名詞「trest」から作られた形容詞が使われている。サッカーのPKが「pokutový kop(ポクトビー・コプ)」というのと違うのが面白い。
ボールを蹴る選手は「kopá?(コパーチ)」で、ラグビーやサッカーの選手たちが履いているスパイクは「kopa?ky」という。日本語では同じ言葉になる陸上用の、特に走るためのスパイクは、「tretry(トレトリ)」になるから注意が必要である。もう一つ「kop」に関連する言葉としては、「kopátko(コパートコ)」がある。今回聞いて最初は何のことかわからなかったのだが、ペナルティーキックの際に蹴りやすいようにボールの下に置く物のことだった。妙に音の響きがかわいくてラグビーにそぐわない気もするんだけど。
ラグビーでペナルティがつく言葉には、「ペナルティー・トライ」があるが、チェコ語では、最近のルール改正で問題が生じている。以前どこかに書いたが、トライは5点獲得できることから、数字としての5を意味する「p?tka(ピェトカ)」という。ペナルティーがつく場合も同様で「trestná p?tka(トレストナー・ピェトカ)」である。問題は、7点もらえるようになったペナルティートライが5を表わす言葉で示されていいのだろうかということで、これをきっかけにトライの呼び方が変わることを期待している。
ペナルティーキックやトライの後のコンバージョンで狙うもの(ゴールでいいんだっけ?)は、形から「há?ko(ハーチコ)」、つまりアルファベットのHとよぶ。ゴールに成功するのを、蹴ったボールが二本の棒の間を通り抜けることから、「prokopat(プロコパット)」という。ラグビーは接頭辞の「pro」の勉強に向いていて、バックスの選手が相手のディフェンスラインの隙間を抜けて走るのを「proniknout(プロニクノウト)」、ディフェンスにぶつかりながら間を抜けて突進するのを「prorazit(プロラジット)」という。ハンドボールではプロラジットは反則なんだけどね。
トライを決めるのは、「polo?it(ポロジット)」「pokládat(ポクラーダット)」という動詞を使うのだけど、これは本来置くという意味である。接頭辞を変えて「s」、つまり「skládat」にするとなぜかタックルするという意味になる。正確にはタックルして相手を倒すという方がいいかな。接頭辞の「s」には、いくつかのものを集めるという意味と、上から下へという意味の二つの意味があるのだけど、ここは立っているものを倒して下の地面に置くと考えておく。折り畳み傘にもこの動詞を使うから、おなかの当たりにタックルして相手を二つに折りたたむと解釈しても面白い。
タックルそのものは、「skládka」となる。本来はいろいろな物を集めて置いておく倉庫とか、荷卸しを意味する言葉なのだけど、ラグビーではタックルである。反則のハイタックルが「vysoká skládka」になるのは、チェコ語を勉強している人ならすぐわかるはずである。
よく出てくる接頭辞には「p?e」もあって、ラックの中で相手側に倒れこんでボールを押さえるのを「p?epadnout(プシェパドノウト)」、モールで相手を力で圧倒して押していくのを「p?etla?it(プシェトラチット)」、バックスのパス回しで何人か飛ばすのを「p?ehodit(プシェホディット)」なんて言う。「p?e」は何かを越えることを意味しているのである。
ラグビーに限らずスポーツの中継を見るのは、外国語の勉強に、特に語彙を増やしたり、言葉に対する感覚を磨くのにものすごく役に立つ。それなのに、外国語の上達にテレビを役に立てようなんて言う人が紹介しているのを見たことがない。状況がわかっていないと意味不明になりがちなニュースやドラマを見るよりもはるかにいいと思うんだけどなあ。特に自分のよく知っているスポーツを見ながら日本語での表現と比較していくと得るものは大きい。
我ながら無理やり感のある終わり方だけど、この件はこれでおしまい。そのうちハンドボール用語とかサッカー用語もやってみようかな。
2019年10月6日24時。
2019年10月07日
ラグビーでチェコ語を勉強する2(十月五日)
承前
フォワードとバックスの間を取り持つハーフのことは「spojka(スポイカ)」という。これは二つのものを綱区という意味の動詞「spojit」と関連する名詞で、文法用語として接続詞という意味で使われることもある。他のスポーツでは、ハンドボールでセンターの選手をこの言葉で呼ぶが、ラグビーとは違って二つの部分をつなぐというわかりやすさはない。
9番の選手はスクラム=ムリーン側のスポイカということで「mlýnová spojka(ムリーノバー・スポイカ)」と呼ぶ。長いので一語にして「mlýnovka(ムリーノフカ)」ということもある。語尾の「-ovka」は、チェコ語ではよく使われるもので、シュコダ社の自動社を「škodovka(シュコドフカ)」と言ったり、炭酸水=ソーダを「sodovka(ソドフカ)」なんて言ったりする。こういうのがわかってくると、トヨタの車を「tojotovka」、ホンダの車を「hondovka」なんて言って、チェコの人に笑ってもらうこともできるようになる。冗談のつもりで言ったら、普通に使われていて笑ってもらえないという落ちもあるかもしれないけど。
10番のほうは、「útoková spojka(ウートコバー・スポイカ)」、略して「útokovka(ウートコフカ)」である。これは、チェコ語でラグビーのバックスのことを「úto?ník(ウートチニーク)」と呼ぶことからできた言葉なのだが、普通のスポーツではウートチニークはフォワードの選手を指す。昔初めてラグビーを見たときに、フォワードとバックスが逆じゃないかと思ったのを思い出した。
チェコ語だと、ポジションとしての攻撃の選手はウートチニークだが、現在守備をしているは動詞の三人称複数の形から作る形容詞をつかう。つまり「úto?ící(ウートチーツィー)」となる。守備の場合も、ポジションとしては「obránce(オブラーンツェ)」で、守っている人は「bránící(ブラ−ニーツィー)」となる。だから、「bránící úto?ník=守備中のフォワード」とか「úto?ící obránce(攻撃中のディフェンス)」なんて表現も出てくる。ただ、ラグビーの場合には、ポジションに関係なく守備をしている選手をオブラーンツェと呼んだり、ブラ−ニーツィーと呼んだりしているような気がする。言い間違い、聞き間違いの可能性もあるけど、今後確認が必要だな。
バックスの選手たちの呼び方は、11番と14番が「k?ídlo(クシードロ)」。これは翼と言う意味の言葉なので、ウイングをそのまま訳しただけだろう。12番と13番は「t?í?tvrtka(トシーチトブルトカ)」で、四分の三を意味する「t?i ?tvrt?」を名詞化したもの。日本で昔使われていた呼称のスリー・クオーター・バックを訳したものだろうか。今ではセンターと言うことが多いのかな。
バックスの中では15番だけが、チェコ語的で「zadák(ザダーク)」。背中を意味する「záda」、お尻を意味する「zadek」と関係がありそうだけど、背中の後ろにいる人という意味だろうか。「vzadu」なんて場所を示す副詞の存在を考えたら、「zad」だけで後ろを意味していたのかもしれない。
ベンチに座っている控え選手は、他のスポーツと同じで「náhradník(ナーフラドニーク)」のはずなのだが、チェコのラグビー協会のページでは、選手の怪我で一時的にプレーする交替選手のことをこの言葉で呼ぶようなことが書かれていた。普通の交替選手のことは、動詞からできた「st?ídající(ストシーダイーツィー)」と呼ぶんだったかな。逆だったかもしれない。とまれ、他のスポーツでは、ベンチに座っているナーフラドニークの中からストシーダイーツィーが選ばれて出場するのが普通である。
ところで、10番の選手ってスタンドオフじゃなかったっけ? 選手紹介でフライ・ハーフと書かれているのを見るたびに、あれっと思ってしまう。12番、13番は、昔から呼称が一致しなかったと言うか、ゆれがあってどう呼ぶのがいいのかよくわからなかったけど、10番はスタンドオフ以外の呼び方はないものだと思っていた。
もうちょっと続く。
2019年10月5日25時。
タグ: ラグビー
2019年10月06日
ラグビーでチェコ語を勉強する1(十月四日)
ワールドカップのおかげで、ラグビーを見る機会が増えて、チェコ語のラグビーに関する語彙も増えてきたので、まとめをしておこうと思う。スポーツニュースによれば、チェコ語のラグビー用語の多くは、19世紀末だったか、20世紀初頭だったか、チェコにラグビーが入ってきたときに、ラグビーに熱狂し導入に尽力したある作家が決めたものだという。作家の決めたものなので、日本語のラグビー用語と違って、英語の言葉をそのまま音写したものは少なく、聞いただけではわからないものも多い。
一番最初に覚えるべきラグビー用語は、スクラムのことをいう「mlýn(ムリーン)」であろう。これは本来、水車や風車を努力としていて製粉所のことを表す言葉である。製粉のために使う碾臼を指すと考えてもいい。臼のように二つの部分がぶつかり合ってお互いをすり減らすという発想だったのだろうか。
そしてスクラムの中心となる一列目の真ん中、背番号2の選手は、「mlyná?(ムリナーシュ)」である。ムリーンと関係があるのはわかると思うが、ムリーンの所有者を表す言葉で、製粉業者と訳すこともある。製粉業者の両腋の1番と3番の選手は、「pilí?(ピリーシュ)」、つまり柱、もしくは橋脚である。水車小屋を支える柱のようなものという発想だろうか。
4番と5番の選手には、特徴的な名前はない。二人まとめてセカンドローといわれるように、チェコ語でも二列目という意味の「druhá ?ada(ドルハー・ジャダ)」と呼ばれる。ただ、二人まとめてではなく個々の選手を呼ぶときには「druho?adník(ドルホジャドニーク)」と呼ばれることが多いようだ。
6番と7番は、「rvá?ek(ルバーチェク)」。スポーツの世界で「rvá?(ルバーチ)」というと喧嘩っ早い選手で乱闘に好んで参加する喧嘩やを意味するし、「rva?ka(ルバチカ)」は、喧嘩や乱闘を意味するから、一番血の気の多い選手が務めるポジションということだろうか、と考えたのだけど、大元にもどって、動詞の「rvát」から考えたほうがいいかもしれない。引き裂くとか毟り取るなんて意味があるから、相手のスクラムを引き裂き、ボールを毟り取る役割とっておこう。
8番は、「vázat」という動詞から作られた「vaza?(バザチ)」で、動詞の意味を考えると、スクラムを組み選手たちを結びつける役ということになりそうだ。動詞の「vázat」はタックルのときにも使われ、タックルした後は、相手が怪我をしないように両腕で「vázat」しなければならない。スクラムを組むときの掛け声、「
ここまでのいわゆるフォワードの選手は、「rojník(ロイニーク)」と呼ばれることもある。これは、モールやラックなどの密集を「roj」と呼ぶからである。この言葉は、辞書には群、集団という意味が出ているが、群は群でも、蜂の群を指すのに使うことが多い。鳥の群を指す「hejno(ヘイノ)」でも、家畜の群を表す「stádo(スタード)」でもなく、「roj」が選ばれたのは、フォワードの選手たちがボールに群がるさまが蜂を思わせたからなのだろうか。さすが作家の選んだ言葉だと言いたくなる。 ちなみに、人の群、つまり群衆は「dav(ダフ)」という。
この「roj」に含まれる、モールとラックに関しては、チェコ語でも英語の言葉をそのまま使っている。ただ、モールがチェコ語読みをして、「マウル」といわれるのに対して、ラックは「ラック」のままである。ラグビーの試合中に解説を聞いているときには、気にならなかったのだが、ハーフタイムにラグビーのルール解説コーナーのテーマがモールだったときに、はっきりと「マウル」と言っているのを聞いてぎょっとした。ラックも「ルック」と言っているんじゃないかと注意して聞いてみたけど、こちらはなぜかチェコ語読みはしていなかった。
ラインアウトは、「vhazování(フハゾバーニー)」で、サッカーのスローインと同じ。アウトになったボールをグラウンドに投げ入れるということで、投げ込むという意味の動詞「vhazovat」から作られた名詞である。ラグビーのラインアウトの特徴である両チームの選手が一列に並んで対峙するという部分はこの言葉からは読み取れない。
スクラムの際にスタンドオフが、ボールを入れるのも「vhazování」だと思うけれども、こちらは4名詞よりも動詞を使うことのほうが多い。今回のワールドカップで気になるのは、このスクラムとラインアウトのときに、真っ直ぐ、タッチラインに垂直に入れてなくても販促にならないシーンが多いことで、ラインアウトはまだたまに反則を取っているけど、スクラムになるとあからさまに自チーム側に向けてボールを入れても反則になっていないところを見ると、ルールが変わっただろうか。昔はこれものすごく細かく取っていたと思うんだけどなあ。
2019年10月4日24時。
タグ: ラグビー
2019年10月05日
カレル・ゴットの話(十月三日)
昨日のニュースで、政府が、遺族の同意が得られれば、ゴットのために国葬を行なうことを決めたといっていたが、今日になって奥さんが、政府の申し出を受けて国葬を行なうことに賛成するというコメントを出していた。ハベル大統領以来の国葬ということになる。ビロード革命以後だと、陸上のザートペクも国葬だったのかな。
ゴットの人柄については、よく知らないが、ある意味共産党体制の象徴だったゴットのことを、共産党政権にいじめられた同業者、歌手や俳優たちも悪く語ることがないのが、何かを物語っているに違いない。マルタ・クビショバーもイジナ・ボフダロバーも、ゴットを失った悲しみをインタビューで述べていた。
ゴットに次ぐチェコ音楽界の伝説的存在で、同時期にデビューしたペトル・ヤンダは、ゴットの思い出を聞かれて、人気が出てからも全く変わらなかったといい、成功した理由を勤勉さだと言いきった。ヤンダは、「カレルは、求めに応じてドイツ語や英語などいろいろな言葉で歌を歌った。俺にはできない」と言い、ゴットが様々な言葉で歌うために、言葉の勉強をしていたはずだと付け加えた。
英語で歌うことになったのは、ラスベガスのショーに採用されたからだろうし、ドイツ語で歌うことになった事情については、カレル・シープのトーク番組でゴット自身が語っていた。それによると、ブラチスラバで行われた音楽フェスティバルに西ドイツのレコード会社ポリドールの社長が、掘り出し物を探しにやってきて、ゴットの歌を聞いたことがすべての始まりだったという。
旧共産圏のチェコスロバキアの歌手がドイツでも人気だったというと、同じ共産圏の東ドイツで人気だったのだろうと思ってしまうが、そうではなくて、西ドイツで歌手としてデビューをしてドイツ語で歌を歌っていたのである。その社長は、ゴットにこの歌をドイツ語で歌うことを要求し、最初はシングルを一枚出すという契約だったらしい。
ゴットは語らなかったが、その前には、ポリドールと共産党政権の間で、交渉がもたれていたはずであり、ポリドールが目を付けたゴットをドイツに貸し出すにあたって、何らかの代償を得ていたのは疑いを得ない。ようは、西側の外貨稼ぎのために輸出された商品の一つがゴットだった。その商品は、実は非常に高品質で、ドイツでもゴットのレコードが何枚も発売されることになる。
ゴットはドイツ語で歌い始めたころのことを回想して、「自分ではドイツ語の勉強をしなかった。でもポリドールの人たちに、ドイツ語でしゃべることを強要されて頑張っているうちにできるようになったんだよ」なんてとぼけたことを言っていた。それに、「文法の本を見ると寝ちゃうんだ、俺。わかるだろ」とか言ってシープを笑わせていたけど、ドイツのテレビでしばしばトーク番組に出演して問題なく話ができていたらしいことを考えると、実はちゃんと勉強していたのではないかも思う。もしくは、本当の意味で語学の天才だったのかもしれない。ラジオ聞いたりテレビ見たり、新聞雑誌を読んだりしているうちにできるようになったと言っていたし。いずれにしても人知れず努力をしていたはずである。
シープはさらに、チェコ人がドイツ語を話す時にやりがちな発音上の間違い、もしくはチェコ訛のドイツ語の発音について、問題にならなかったのかと質問していた。それに対して、ゴットは自分でも発音がチェコ語風になっているのは気づいていて、ただそれがドイツ人にどう聞こえているのかがわからなかったから、レコード会社の人に、「俺、訛ってると思うんだけど、いいのか」と質問したら、その訛が異国風でいいんだという答えが返ってきたと言っていた。まあ、同じドイツ語でも地方によって大きな違いがあるというから、その方言の一つとしてみなされたのかもしれない。
ゴットのドイツでの人気を不朽のものにしたのは、今でもしばしば再放送されるらしい子供向けのアニメ「みつばちマーヤの冒険」だった。ドイツ語版では主題歌をゴットの盟友ともいうべき作曲家のカレル・スボボダが作曲し、ゴットが歌ったのである。つい最近、ドイツ人の若い女性歌手に交代するまで、「みつばちマーヤの冒険」が放映されるときには、ゴットの主題歌が流れていて、若い世代にドイツ人がゴットの存在を知るきっかけになっていたようだ。ドイツやオーストリア、スイスのドイツ語圏でコンサートをするときにはこの歌は欠かせなかったんじゃないかな。
日本のアニメーションがヨーロッパ、とくにドイツ語圏で放送されるときには、作中の音楽を差し替えたり、主題歌を新たに製作したりすることがあるのだが、その際にスボボダが作曲家を務めていることがままある。「ニルスの不思議な旅」もそうだったし。
チェコの大スター、カレル・ゴットがドイツで日本のアニメの主題歌を歌ったおかげもあって人気歌手なったというのは、日本人にとってはなかなか興味深い事実だと思うのだけど、ドイツで「みつばちマーヤの冒険」が放送されたことを知っている人はいても、その主題歌を歌ったのが、ドイツ人ではなく、チェコ人だったということを知っている人はどのぐらいいるだろうか。
今日のテレビでは、ゴットの葬儀が国葬で行われることを、キリスト教関係と思しき人が批判していたけれども、うーん、キリスト教に批判する資格はあるのかねえ。今では政党キリスト教民主同盟の尽力もあってか、なかったことにされているけど、共産党政権時代の教会、教会関係者の多くは、教会の存続と、活動の継続を認められる代わりに、秘密警察の協力者と化していたらしい。ミサを行えば、参列した人の名簿を秘密警察に提供し、ひどいときには懺悔の内容を漏らしていたともいう。
個人的には、共産党の支配下で、不満を押し殺して適応しながら生きていた当時のチェコ人の代表がカレル・ゴットで、国葬にすることには、かつての自らの姿をゴットに重ねて葬るという意味が、チェコ国民にとってあるような気がする。チェコ社会におけるゴットの存在は、キリスト教会よりも重く重要である。だからこそ、プラハ大司教は生前からゴットが亡くなったら追悼のミサを主催することを約束していたのだろう。かつての共産党だけではなく、キリスト教もゴットの人気を必要としているのである。
周囲には、ゴットなんてという反応をする人が多いので、ゴットの人気は過去のものになってしまったのかと思っていたのだが、今回、自宅の前などいろいろな場所に追悼のためのろうそくを捧げたり、記帳に訪れたりする人が多く、その中には若い人からお年寄りまでいることを考えると、カレル・ゴットというのは、今でもチェコ民族に愛されているのだと思う。そこにあるだけでありがたい神のごとき存在として。そうゴットの若い頃の自伝的映画の題名のように「星(スター)は天上に向かって落ちる」のである。
2019年10月3日23時。
2019年10月04日
神の死(十月二日)
夕方うちに帰ってテレビをつけたら、チェコテレビ24で、緊急特集番組が放送されていた。60年近くにわたって、チェコの音楽界に君臨していたカレル・ゴットが亡くなったというのである。最近、白血病にかかって苦しんでいることを発表していたのだが、いつものゴシップの一つだろうと考えていた。この人と、その一家ほどチェコのゴシップ誌に話題を提供してきた存在はチェコにはないのである。
今年の7月には80歳の誕生日を迎えて、久しぶりに前妻との間の娘たちとも一緒にお祝いをしたなんてニュースもあったし、チェコテレビのインタビューに元気に答えていたから、まだまだ大丈夫だと思っていた。ハベル大統領、チャースラフスカーについで、チェコ人の幅広いそうに愛され、一つにまとめてきた存在が世を去った。ゼマン大統領の存在でただでさえ分断が進んでいるチェコの社会が今後どうなるのか心配になってくる。
チェコの国の外で最も有名なチェコ人というと、チェコを知っている人ならハベル大統領の名前を挙げるかもしれない。ただハベルの名前が、チェコを知らない人の間にまで浸透しているかというと、日本でも状況は怪しい。20〜30年ほど前までなら、日本で一番知られたチェコ人の名前を挙げるのに迷う必要はなかった。東京オリンピックのチャースラフスカーを覚えている人が多かったのだ。チェコではなくて、チェコスロバキアだと思い込んでいる人もいただろうけど。今なら、長野オリンピックで名を売ったアイスホッケーのヤーグルか、サッカーのネドビェットのほうが知られているかもしれない。
とまれ、ヨーロッパ、ヨーロッパの中でもポーランドやロシアなどのスラブ圏はもちろん、ドイツ、オーストリアなどのドイツ語圏でも、最も知られているチェコ人と言えば、西側で共産主義体制が倒れる前から「黄金の声」「東からやってきたシナトラ」などの異名を付けられていた「神のカーヤ」こと、カレル・ゴット以外には考えられない。昔からスラブ系の言葉だけでなく、ドイツ語や英語でも歌を歌ってきて、国によって歌う言葉を使い分けているらしい。
そんなゴットが生まれたのは、まだ第二次世界大戦中の1939年で、場所は西ボヘミアのプルゼニュだった。工業学校を卒業した後、電気工として生活しながら、音楽活動をはじめ、さまざまな音楽コンテストで活躍し、デビューにつなげたというのが、カレル・ゴットの公式のストーリーなのだが、実際はちょっと違ったようだ。
本人の話では、プラハの音楽学校で声楽のテノールを学んで卒業した過去があるのに、デビューの際に、レコード会社から隠すように言われたのだという。声楽を学んだ人間が、歌手としてデビューするよりも、正式な音楽の勉強をしたことのない労働者が、自らの才能だけを頼りに歌手デビューしたというストーリーのほうがインパクトがあって、ファンを、特に女性のファンを獲得しやすくなるということだったらしい。
その結果、ゴットはチェコスロバキアの音楽シーンに華々しく登場し、大げさに言えば一夜のうちに大スターになったらしい。それが1960年代の前半のことで、以後ゴットは、ゴットの歌は、チェコスロバキア国民の希望の星となる。不自由な体制に支配された生活をゴットの歌を聞いて耐え忍んでいたというと話が出来過ぎだけれども、特に女性を中心に圧倒的な人気を誇り、歌手の人気アンケートでは、それこそ毎年のように一位の座を獲得して、「勝てるとは思っていませんでした」と受賞のインタビューで答えるところまでが定番化していたようだ。
ゴットの人気を最も必要としていたのは、本人ではなく、共産党政権だったらしく、師匠が冗談半分で、ビールの値段が高騰するか、ゴットが亡命するかしたら政権が倒れると言われていたなんて教えてくれた。そして、師匠は、ゴットは実は二回西側に亡命を企てたことがあり、二回ともチェコスロバキア政府の懇願に応えて、帰国したのだと付け加えた。
一度は、西ドイツに出かけたまま、戻ってこなかったときのことで、本人はこのとき「亡命の練習をしてきた」などと弁明していたらしい。もう一回は、キャリアの初期にアメリカのラスベガスで半年ほど仕事をしたときのことではないかと考えているのだが、どうだろう。亡命の練習にしても、ラスベガスの話にしても、これ以上本人の口から真実が語られることは亡くなったことを考えると残念でならない。
1989年のビロード革命に際しては、反体制派だったマルタ・クビショバーとともに、国歌を歌い、反体制の活動家たちと、体制内で不満を持ちながら活動してきた層の協力関係の象徴となった。あのとき、ゴットが反体制側に歩み寄り、クビショバーがゴットを受け入れたことが、ビーロド革命をビロードにしたのだろうと今にして思う。それが政治的な主義主張を越えた芸術家、この場合は歌手の持つ力というものである。政治家だけではあそこまでうまくいかなかったはずだ。
以後も、共産党体制下で、「アンチ憲章77」に署名したとか、共産党に庇護されていたとか批判されることも多かったけれども、特に反論することもなく、歌を歌い続け、政治的は発言はほとんどしなかった。それは自らのチェコ民族に対する存在の重さを知り、影響を与えないように自制していたようにも見える。
毀誉褒貶あれこれあるけれども、それも含めてカレル・ゴットはチェコ的な、極めてチェコ的な大スター、いや何をするでもなくそこに在ることこそが重要な神にあらせましたのだ。共産主義という宗教を信じられなくなったチェコの人がすがった神的な存在、それがゴットで、だからこそ「神の」という枕詞がつけられたのだと解釈しておく。
この件、もう少し続く。
2019年10月2日24時30分。
2019年10月03日
フラット〈私的チェコ語辞典〉(十月一日)
チェコ語には「フラット」と音写できる、もしくは日本人の耳に聞こえる言葉が三つある。チェコ語の三つの子音「H」「Ch」「F」をハ行の「フ」で書き表し、二つの子音「R」と「L」のつく音をすべてラ行で書き表すことを考えると、理論上の組み合わせからは、もう少し数が増えてもいいのだが、幸いなことに、三つだけである。
一つ目は「hrad」。おそらくチェコ語を勉強する日本人のほとんどが、最初に単数の格変化を勉強した、いや覚えた名詞のはずである。この言葉、男性名詞不活動体硬変化の例として、ほとんどすべての教科書で使われている。最初に出てくる言葉なので、熱心に、必死に覚えるから、この言葉だけは、格変化を完璧に覚えているという人も多いはずだ。もちろん、こちらも他人のことは言えない。
意味は、すでに何度か登場している、ボウゾフ城のようなお城である。プラハ城のような、どこからどこまでが城なのかわからない教会などの建物も含めて複合体になっているものもあるが、たいていは、隊商路を見下ろす山の上、もしくは斜面に築かれていることが多く、住むことよりも戦いに使うことを目的とした建造物で、オロモウツの近くだと、ボウゾフ、シュテルンべルクあたりが有名である。
この手の城は戦いで破壊されて、破壊されたまま城跡として残っていることもある。そういうのは、「z?ícenina」とか、「ruina」と呼ばれることになる。オロモウツから近いところとしては、ベチバ川沿いの丘の上に建ち、現在では鍛冶師たちの聖地にもなっているヘルフシュティーンや、ヤナーチェクの生家のあるフクバルディの村の丘の上に建つお城の跡などがある。シュテルンベルクの北にあるソビネツは、お城と呼ぶべきか城跡と呼ぶべきか微妙である。改修が進んで、お城に近くなっているような気もする。
もう一つの、日本語でお城と呼びたくなるような建築物は、「zámek」である。こちらは戦いではなく、居住のための建物で、平地にあることが多いが、丘の上の街の中にあることもある。クロムニェジーシュの大司教のザーメクのように周囲に庭園があって、現在は公園として開放されているところも多い。
この二つのお城を意味する言葉、覚えるのはそれほど難しくない。ただ、場所と方向を表わす前置詞との組み合わせに注意しなければならない。日本人的な感覚で、チェコ人に説明された「v」と「na」、「do」と「na」の使い分けのルールに基づいて考えると、場所は「v」で、方向は「do」だと思うのだが、どちらも「na」を使う。屋根があって、建物であることが重要なんだから、おかしくないかと主張しても、結論は変わらない。外国語の文法なんてそんなもんだ。
二つ目の「フラット」は、空腹を意味する「hlad」で、お城とは文字が一つ違うだけ。これも男性名詞活動体の硬変化であるのは問題ないのだけど、「R」と「L」の発音の違いを、し分けるのも、聞き分けるのも、「耳の悪い」日本人にはつらい話だ。読み書きに関しては、最初に覚えた名詞の「hrad」のおかげで間違えることはないし、文脈を考えれば、聞き間違えることもあるまい。
例えば、友達に「ネマーシュ・フラット」と聞かれたときに、お城を持っていないかどうか聞かれたと理解するのは、よほどのお金持ちで歴史好きだけだろうし、「イデメ・ナ・フラット」なら、お城としか理解できない。文脈なく単独で出てきたときには、聞き間違える恐れがあるけれども、自分で発音するときに比べたら、大した問題はない。チェコ人には「hlad」と「hrad」が似ているというのが理解できないらしく、こちらの発音が聞こえるとおりに聞き取って、おかしいと不思議そうな顔をする。日本人が「R」と「L」の区別つかないのは知ってるんだから、間違った発音を聞いても、そこは黙って入れ替えて理解しろよと言いたくなるし、実際に言ってしまう。
三つ目のフラットは「chlad」で涼しさとか冷気を表す言葉である。これも聞き分けたり、発音し分けたりする自信は全くないが、幸いなことにこの言葉は、名詞として使うよりは、形容詞形「chladný」、副詞形「chladno」で使うことのほうが多い。名詞が存在するのは知っているけれども、自分で使ったことはないと思う。
もちろん、この言葉も、名詞であれ、派生した形容詞であれ副詞であれ、自分で発音するときに問題が発生するのは前の二つと同じである。日本人にとって、いや他の外国人にとっても「H」と「Ch」の発音は、厄介極まりないのである。
2019年10月1日25時。
2019年10月02日
チェコの君主たち7(九月卅日)
予定以上に間が開いてしまったが、久しぶりにチェコの歴史の復習をしよう。前回の最後のほうに出てきたプシェミスル・オタカル1世が今回の主役である。この人物、自ら獲得したチェコ、正確にはボヘミアの王位を世襲化することに成功するなど、チェコの歴史において、もっとも重要な君主の一人なのだが、名前の書き方がよくわからない。チェコ語版のウィキペディアでは、「P?emysl Otakar I.」となっているが、参考書の子供向けの歴史の本では、「P?emysl I. Otakar」の順番になっている。
恐らくこれは、生まれたときの名前はプシェミスルで、後にオタカルという名前が追加されたという事情を反映しているのだろう。でもどちらが正しいのだろうか。日本語だとプシェミスル1世オタカルという表記はあまりにもなじまないが、オタカルをあだ名みたいなものだと考えると、赤髭王フリードリヒ1世なんてのもあるし、オタカル・プシェミスル1世とするのも可能になりそうである。
それはともかく、プシェミスル1世が最初に君主の地位についたのは、従兄弟のバーツラフを追い落とすことに成功した1192年の初めの事だった。その際、プラハ司教で従兄弟にあたるインドジフ・ブジェティスラフと神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の支援を得たのだが、プシェミスルは反皇帝の陰謀に参加してしまう。反乱は失敗に終わり、皇帝は1193年にプシェミスルを君主の地位から追い落し、プラハ司教のインドジフ・ブジェティスラフを位に就けた。
インドジフ・ブジェティスラフはこれによって、世俗の君主の地位と、チェコの教会の頂点であるプラハ司教の地位とを一身に集めることになった。ただし、この君主の交代は簡単に済んだのではなく、両陣営の間に戦闘が行われたようである。忠誠を誓っていたチェコの世俗諸侯に裏切られたプシェミスルは国外に逃亡することになる。
しかし、早くも1197年には、皇帝ハインリヒ6世の気が変わり、再びプシェミスルをチェコの君主の座につけようとした。しかし、一度プシェミスルを裏切った諸侯は、プシェミスルの復帰を望まず、インドジフ・ブジェティスラフが同年没した後、プシェミスルの弟のブラディスラフ・インドジフを君主に迎えることにした。プシェミスル1世は君主の座を手に入れるために、再び戦わなければならなかったのである。ただし、プシェミスル家には珍しくこの兄弟の対立は、最終的には戦闘ではなく話し合いで解決した。
ブラディスラフ・インドジフが君主の座に就いたのは1197年の6月のことで、インドジフ・ブジェティスラフの譲りを受けてプシェミスルが復位したのが12月のことだという。ブラディスラフ・インドジフの在位は半年と短かったわけだが、その間に重要なことを一つだけなしとげている。それはプラハの司教に忠誠を誓わせたことで、これによってプラハの司教座は神聖ローマ帝国の支配下から脱することになった。
退位したインドジフ・ブジェティスラフは、かつて務めていたモラビア辺境伯の地位を得て、モラビアに向かい、ズノイモを拠点にして没した1222年までモラビアを統治したとされる。ただし当初はブルノとオロモウツに封じられたプシェミスル家の一族が存在したため、その統治領域はズノイモ周辺に限られたとも言う。
君主の座に復帰したプシェミスル・オタカル1世は、1197年のハインリヒ6世の没後、長く続いた神聖ローマ帝国の政治的な不安定さを、自らの地位の向上のために利用した。ホーエンシュタウフェン家のシュバーベンのフィリップとべルフ家のブラウンシュバイクのオットー4世の間で起こったドイツ王位、ひいては神聖ローマ皇帝位をめぐる争いに於いて、まず1198年にフィリップを支援した返礼として、王位を獲得した。そしてその5年後には、オットー4世もその王位を認めることになる。ただしこの時点では、これまでと同様に一代限りの個人に与えられた王位だった。
プシェミスルは、ローマ教皇との関係も重視し、プラハの司教座を大司教座に昇格させる交渉を持った。このときは認められなかったのだが、当時の教皇イノケンティウス3世は、この件を拒否した代償として、プシェミスルが獲得したボヘミア王の地位の世襲化を認めたと言われている。そして、このボヘミア王の地位を確定させたのが、オットー4世の次の神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世が、1212年にプシェミスルに与えたとされる、いわゆる「シチリアの金印勅書」である。
この時期の神聖ローマ帝国とローマ教皇の関係は、錯綜を極めそれだけでも理解不能なのだが、そこにチェコの君主の地位、侯爵位、王位、王位の世襲化なんて話が入ってくるとわけがわからなくなる。とまれ、教皇イノケンティウス3世は、フリップとオットー4世の対立では、まずフィリップを支持し、邪魔になると暗殺してオットー支持に鞍替えし、オットーが言うことを聞かなくなると、フィリップの甥のフリードリヒ2世を担いで神聖ローマ皇帝の地位に就けたようだ。プシェミスルもそれをなぞるような動き方をしており、それがボヘミア王位の世襲化につながったのかもしれない。
キリスト教関係では、プラハの司教のオンドジェイと長年にわたって争うことになった。教会を王権の下につけようとしたプシェミスルの考えは実現せず、プラハ司教を世俗諸侯と同じように扱うことを認めさせられた。ただ、オンドジェイは交渉の過程でプシェミスルを恐れるようになり。イタリアに出た後、二度とチェコに戻ってこなかったらしい。
またチェコの君主の地位の継承に関して、以前、ブジェティスラフ1世が定め、しばしば継承権争いの原因になってきた、プシェミスル家で最年長の男子が後を継ぐというルールを廃止し、君主の長男があとを継ぐという形に変更した。以後継承権を巡る一族内の争いは無くなったと言えれば最高なのだけど、どうだろう。今後に注目である。
さて、プシェミスル・オタカル1世という名前だが、チェコではプシェミスルと呼ばれる。それに対して、日本語も含めて外国語ではオタカルと呼ばれることが多い。これはプシェミスル家の人間がプシェミスルという名前をつけるのはおかしいという考えに基づくのだろうか。ただチェコの場合には、パベル・パベルのように名字と名前が同じというのは、ありえないことではない。
チェコでプシェミスルが優先されるのは、上にも書いたがオタカルが後で与えられた名前だという伝説があるからである。それによると、オットー4世が、それまでの協力に対して感謝の意味も込めて自らの名前、チェコ語ではオタにちなんで与えたのがオタカルという名前だという。これは昔師匠から聞いた話だけど、今ではチェコ語でオタカル1世と言われても誰のことか理解できない自信はある。
プシェミスル1世は1230年になくなるが、この時点で上の二人の息子が亡くなっていたため、三番目の息子のバーツラフが王位につくことになる。子供向けの本には、プシェミスルが権力を獲得し、維持するために使った手段の中には、あまり宜しくないものもあるけれども、重要なのはその結果、チェコの国が世襲の王国となり、神聖ローマ帝国内で強固な地位を作り上げたことだと書かれていた。具体的にどんなひどいことをしたのだろうか。
プシェミスル家の君主?F
24代 プシェミスル・オタカル(P?emysl Otakar)1世
1192〜11
25代 インドジフ・ブジェティスラフ(Jind?ich B?etislav)
1193〜1197年
26代 ブラディスラフ・インドジフ(Vladislav Jind?ich)
1197年
—— プシェミスル・オタカル(P?emysl Otakar)1世
1197〜1230年
日本では鎌倉時代の初め、源氏三代が絶え10年ほどまでが、プシェミスル・オタカル1世の時代である。
2019年9月30日25時。