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2020年01月21日

久しぶりのレギオジェット(正月十八日)



 本日は毎年一月恒例のプラハ行きである。年によっては、オロモウツでのイベントを優先してサボることもあるのだが、今年はこちらの事情でサボるわけには行かない。プラハの某所で10時というのが指定されているが、例によって遅れていく。ちょうどいい時間につく電車がないわけではないけれども、こちらが求めるものではないのである。

 オロモウツからプラハに行くとなると、よほど運賃が高騰していない限りレギオジェットのビジネスを選んでしまう。以前と比べると多少高くなったとはいえ、チェコ鉄道も微妙に値上げしていることを考えると、50コルナから150コルナほどの追加で、この快適ならむしろ安いとすら思ってしまう。さすがに片道500コルナを越える額は出したくないのでレオの一番高い席には手を出せていないのだけど。
 予定は前々から決まっていたのだが、オロモウツを出発する便を決めかねていてチケット穂購入したのは一週間ほど前のこと。オロモウツを朝6時50分に出るのと、7時50分に出るのを比べると6時台のやつのほうが100コルナ安かった。悩んだ末にと言うほどでもないけど、結局七時前に出る電車に乗るのは無理、というよりはいやだと言う理由で、8時前のを選んだ。100コルナで時間を1時間買ったと思えばいい。朝の時間は貴重なのである。帰りは特にプラハに長居する理由もないので、午後の電車で運賃が一番安かった4時前のものを選んだ。

 切符を購入した時点では、どちらの便も空席が多く、特に一番値段の高いビジネスはガラガラだったのだが、昨日確認してみたら、朝の便はほぼ満席でビジネスがちょっと残っているだけだった。値段の安い一本前もほぼ満席で、ビジネスが500コルナの次の便は空席が多かったし、安いほうから座席が埋まっていくと考えていいのだろう。個人的には短距離ならともかく、狭い座席に押し込められて二時間ちょっと我慢するのは避けたいと思ってしまう。
 帰りは中途半端な時間帯のおかげか前日でも空席が多かったけど、これはせっかく遠くからプラハに行く以上、できるだけ長くプラハに滞在したいと考える人が多いということだろう。わざわざプラハまで買出しに出たのか、大量の荷物を持って帰りの電車に乗り込んでくるチェコ人もかなりいるのである。買い物が苦手な人間としては、プラハみたいに店が多すぎると目移りしすぎて結局何も買わずに買ってきてしまいそうな気がする。優柔不断な性格がいけないのだけど。

 レギオジェットのサイトを見て気付いたのだが、今回のダイヤ改正でブルノ−オストラバ間の急行だけでなく、北ボヘミアのウースティー・ナド・ラベムを中心とするウースティー地方のローカル線の運行の担当も始めている。新たに運行を担当する会社があれこれ問題を起こしているというニュースにレギオジェットはほとんど登場していなかったから、運行担当の企業の交代がうまく言った珍しい例となっているようだ。
 このローカル線がプラハまで延びていれば、オロモウツからウースティーまでレギオだけで行けるのだが、残念ながらレギオの電車はウースティー地方内で止まってしまうらしい。鉄道会社の枠を超えてまとめて切符が変えるようになると便利なんだけど……。ウースティー地方なんて敢えて行くようなところでもないか。それでも、今回のダイヤ改正で起こった運賃やチケットを巡る混乱した状態は早急に改善されるべきだろう。

 これまで、ダイヤ改正で新たに引き受けた路線の運行でアリバが問題を起こし続けていることは何度も書いてきたが、レオエキスプレスもパルドビツェ地方のウースティー・ナド・オルリツィーから北に延びる路線の運航を開始していて、当初は遅れが頻発するなど問題が多かったようである。それで、アリバの起こした問題と比べるとそれほど大きくないように思えるのだが、地方側から罰金もしくは契約解除もありうると警告されているらしい。
 これで、乗客のことを考えるすばらしい地方庁だなんてことを考えてはいけない。これには裏があって、今年行われる地方議会の選挙に向けてのパフォーマンスという意味合いのほうが大きいのである。つまり、新たな運行会社に対して何もしないでいると、入札で担当企業を決めたのも現在の地方政権なので、野党側に責任を追及されて支持を減らす可能性があるのである。政治家が手柄は奪い合うくせに責任は他者に押し付けるというのは、チェコも日本も変わりない。どこの国でも鉄道=利権である。

 例によって変な方向に着地してしまった。寝ぼけた頭で文章を書くとこうなるのである。この日の話はもう少し続く。
2020年1月18日23時。

2020年01月20日

実資のいない永延二年四月(正月十七日)



 永延二年の四月は、『小右記』の記事が残っていないので、飛ばすことも考えたのだが、せっかく東大の 史料編纂所のサイト で『大日本史料』が無料で読めるようになっているのである。ここは簡単にどんな記録が残っているのか紹介するしかない。『小右記』の記事は残っていなくても、『小記目録』に立項されている事項もあるかもしれないし。そうなると「実資のいない」というのは、看板に偽りありになるけど、他に語呂のいい題名も思いつかないので、そのままにする。以下特に出典の記載がない場合には『日本紀略』である。

 四月一日は、天皇が南殿に出御して孟夏の旬と呼ばれる儀式が行なわれるのだが、この年は天皇の出御がなく平座と呼ばれた形式で行われている。本来この旬の儀式は、毎月の上旬、中旬、下旬の最初の日、つまり一日、十一日、廿一日に行なわれていたが、摂関期に入ると四月朔日の孟夏の旬と、十月朔日の孟冬の旬の二回しか行われなくなる。しかも天皇が出御することも減り、大抵は平座で行なわれている。

 二日には、理由は不明だが臨時の賞除目が行なわれており、『日本紀略』に記事があるだけでなく、『小記目録』にも項目が立てられていると書いて、『大日本史料』では『小右記目録』という書名になっていることに気づいた。どうしよう。

 七日は、六位以下の官人の位階昇進手続きの一つである擬階奏が行なわれている。この儀式では昇進が決まった官人の名簿が奏上されたのである。その後、十五日には昇進者達に位記という書類が授けられて手続きが完了するのだが、この年のものは記録に残っていないようである。

 八日は、お釈迦様の誕生日で、本来であれば宮中でも潅仏会が行なわれるのだが、天皇の物忌のために中止。

 十日は、四月最初の申の日で、平野祭が行われている。平野神社は平安遷都に際して桓武天皇が生母に関係する神社を大和国から遷し祀ったものといわれる。例祭は四月だけでなく、十一月にも最初の申の日に行なわれていた。

 十一日は、酉の日で梅宮祭である。梅宮社はもともとは橘氏の氏神であったので、祭使には橘氏の五位のものが選ばれるのが慣例だった。例祭は四月と十一月の最初の酉の日に行われていた。

 十四日は四月の二番目の子の日で、吉田神社の例祭が行われた。吉田神社はもともと藤原北家の一流である山蔭が創建した神社。『国史大辞典』には「四月中申日と十一月中酉日」に吉田祭が行われたとの記述があるが、この永延二年と同様、「四月の中の子の日」に行われたとするのは『日本国語大辞典』である。
 またこの日は祭に際して発遣される祭使の奢侈を禁ずる太政官符が出されている。四月は祭の多い月で、祭使に選ばれた貴族たちが身なりの贅を競ったなんてことがあったのだろうか。太政官符の出典は、11世紀初頭に成立した法制書である『政事要略』。

 廿日には、賀茂祭直前の午の日ということで、賀茂斎院選子内親王が禊を行っている。『百練抄』によれば、その様子を摂政藤原兼家、左大臣源雅信などの公卿が賀茂川まで出かけて見物したようである。選子内親王は村上天皇の皇女で兄円融天皇の代に11歳で、賀茂斎院となって以来60年近くその役に奉仕し続けた。歌人としても知られる。

 廿一日は、賀茂祭に当たって天皇の身辺の警備を固める警固が行われている。普通は祭の前日に行なわれたようである。

 祭の前日の廿二日には、摂政藤原兼家が賀茂社に参詣。廿一日に普段より一日早く警固がなされたのはこれによるか。

 賀茂祭が行われたのは四月の二番目の酉の日である廿三日である。翌廿四日には、賀茂祭の前廿一日に行なわれた警固を解く解陣が行われる。

 廿六日には、摂政兼家の六十歳を賀するために年齢にあわせて六十箇所の神社に対して奉幣の使者が発遣されている。

 廿八日は、大神宮と呼ばれた伊勢神宮の宮司の補任。補任されたのは神事をつかさどる家柄の大中臣氏の宣茂。大中臣氏は、藤原不比等の子孫が藤原氏に改姓した後、中臣氏に与えられた氏名だが、このころ藤原氏との間に親類意識はあったのだろうか。この事項の出典は『類聚符宣抄』。これは十一世紀末から十二世紀初めにかけて成立したとされる法令集である。

 さて、この永延二年は五月が二度あった年で、閏五月には『小右記』の記事が残っているが、本来の五月の分は残っていない。『大日本史料』に立てられた項目も少ないので四月にまとめてしまう。

 十日には、『百錬抄』によれば大和国の橘山が変動を起している。山のふもとの部分が動いたが草木は動かず、山頂に倉があってその中に仏像が置かれていて、それがまた「不動」というのだけど、仏像が不動尊の仏像だったと思いたくもなる。文脈から言うとここも動かなかったと取るべきか。ただ山の麓が動いたってのがよくわからない。

 廿日は、国家鎮護を祈願するために『仁王経』を講ずる仁王会の前の大祓が行われた。仁王会が実際に行われたのは、廿四日である。このときの仁王会は臨時仁王会とされるが、これは毎年春と秋の二季に行われた恒例のものである。天皇一代一度行なわれる本来仁王会に対比して臨時と称されたようである。本来は臨時に行なわれたものが恒例化したとも考えられ、石清水臨時祭などと同様の例となる。

 廿七日は『小記目録』に「東宮御悩」のことが立てられ、後の三条天皇である皇太子が薬を服したことが書かれている。どのような病気だったのかは残念ながらわからない。即位後の三条天皇は病気で政務をとれないことが多いのを問題にされていたが、その意味でも気になるところである。
2020年1月17日23時、



2020年01月19日

覚えることは悪なのか(正月十六日)



 日本の失敗に終わった大学入試改革をめぐる記事をあれこれ読んでいるのだが、気になるのは、改革を支持するというか、今の日本の教育制度を否定しようとする人たちが、勉強の中身を、覚えることと考えることに二分して、あたかも覚えることが悪いことであるかのように議論を展開していることである。そして、考えることを重視した教育をしなければならないというのだが、覚えた知識のない状態で、何を考えろというのだろうか。

 どんな学問、勉強にだって、最低限覚えこまなければならない、考えてもどうしようもない知識は存在するはずだ。仮にチェコ語を勉強するなら、最低限単語、名詞、形容詞の格変化、動詞の人称変化あたりは、四の五の言わずに覚えるしかない。これらのことすら覚えもしないままに、チェコ語について考えろとか言われても、それは無理な話である。
 考えるのは、覚えた後に、覚えたことを材料に、一般的に言われていることが正しいのかどうか考えたり、格変化の簡単な覚え方はないのか考えたりするという形になる。もちろんこんなことを考えるためには、格変化を一つや二つ覚えるだけでは不可能で、全体を見通せるだけの知識が必要となるのは言うまでもない。

 覚えこんだことをもとに全体を見通せる自分なりの理論を考え、その理論を個々の場面に当てはめて言葉を使うというのが、言語の学習において一般化できる考えるという営為であろう。気取った言葉を使えば、得られた言語の知識をもとに帰納的に自分なりの理論、もしくはルールを構築し、ルールを演繹することによって実際の使用に適用するのである。そのためには、基礎となる知識は多いに越したことはなく、また帰納と演繹を繰り返し、その正誤を確認することによって、さらなる知識を積み上げていくことができる。英語の学習で失敗したのは、最初の知識を積み上げる部分を怠ったからである。中途半端な知識で、いかに楽をするかを考える方向に走った結果、立て直せないところまで落ちてしまった。

 言ってみれば、覚えることと考えることとは学習のための両輪のようなもので、どちらか一方だけをしていればいいというものではない。ただし、初学のころには考える基礎となる知識を身につける必要があるから覚えることに重点が置かれるのは当然のことで、学習が進むにつれて考える必要が増えていくというのが理想的な学習のあり方であろう。覚えることを悪者にしている人たちの論を読むと、この基礎的な知識を覚えることさえも軽視しているようで、うすら寒い思いがする。

 さらに言えば、考えることを教えるというのは正しいのだろうかという疑問がわく。個人的な経験では、知識を積み上げていくうちに自然に始めていたのが考えるという行為で、誰かに教えられるようなものではなかった。危惧するのは考える授業ということで、考え方を教える授業になりはしないかということだ。
 考えるということは、自分なりの意見、考えを導き出すために行うことなのに、教科書に書かれた考え方に基づいて、教科書と同じような意見にたどり着くというのでは、教科書に印刷された意見を覚えるのと大差ない。これでは単に覚える範囲が広がっただけである。これが行き過ぎると、我々の高校時代の数学の授業のように、問題のタイプごとに、考えることなく自動的に公式、つまりは考え方を当てはめるようなことになりかねない。本来であれば考えて公式を選ぶ部分が効率化されるから、テストで点数は取りやすくなったのだろうが、なぜその公式を選んだのかと聞かれてもちゃんと答えられない人も多かった。

 大学入試改革を訴える人たちは、アクティブラーニングとかいう成功したという話はほとんど聞かない学習法の推進者でもあるのだろう。アクティブラーニングで重視されているらしい調べるという活動は、学習を考えることと覚えることに二分した場合には、どう考えても覚えるにつながる活動である。知職を求めて増やすために調べるのだから、そこに考える余地などは存在しない。調べた上で考えるというのならわかるけれども、覚えるよりも考える勉強だと言っている人たちが調べさせることを求めるというのは、全く理解できない。十分な知識のない子供は何を調べればいいかも自分ではわからないから、先生が調べること決めるなんてこともありそうだし、調べ方まで先生が指示しそうだなあ。そうなるとどこがアクティブなんだかである。
 勉強において考えることが大切だというのは、今に始まった意見ではなく、昔からずっと言われてきたことである。その上で、現在の日本人の学生が考えることができないというのが事実だとすれば、それは高校の授業で覚えさせるだけで考えさせないからではなく、小学校のころから、考えるために最低限必要な知識もないままに、考えることを強要され、意見の持ちようのないことにまで意見を求められてきた結果であるようにも思われる。そんなことに意見を求めるなと反論できるような子供はあまりいないだろうし。

 そもそも、考えるなんてことを高校の授業で何とかしようというのがおこの沙汰なのである。こういう学習における基本的なことは、小学校卒業までに身につけられなかったら、中学高校で身につけるのは困難極まりない。子供のころから考えるための知識を増やしてきた人は、おのずから自分でさらなる知識を求めて調べることも、身につけた知識をもとにあれこれ考えることもできるようになるもので、高校生にもなって考えることを教えられなければならない学生を大学に行かせようというのが間違っている。実効性のない高校や大学の教育の改善とやらに割く予算があるなら、やはり初等教育につぎ込んだほうがはるかに甲斐がある。
2019年1月17日9時。












posted by olomou?an at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言

2020年01月18日

クツィアク事件裁判開始(正月十五日)



 二年前にスロバキアだけでなく、世界的な大ニュースとなったスロバキアのジャーナリスト暗殺事件だが、予想に反して早々と犯人、実行犯だけではなく、殺人を依頼した人物と仲介した人物まで逮捕され、裁判が始まった。問題はその犯人が、黒幕によって準備された雇われた犯人ではないかということだけれども、そこまでは現時点ではわからない。
 この事件で最初に逮捕されたのは、依頼者と実行犯の仲介役を勤めたとされる人物である。この人物は、警察と司法取引を行い全面的に捜査に協力することを条件に、刑を軽減されることになっており、他の被告達より先に裁判が行なわれた。その裁判では、十年の予定が十五年だったか、警察(検察かも)との間で話がついていた刑期よりも長い懲役刑の判決が下されたが、司法取引による裁判だったため、被告に上告する権利はないらしい。

 この仲介者の証言によって逮捕されたのが、実行犯の二人と依頼側の二人である。実行犯二人は臣籍関係にあるようで、一人は元軍人、もう一人は元警察官という何というかありがちだけど、本来ならばあってはいけない組合せ。以来側は、クツィアク氏が追っていたイタリアマフィアとつながりのあるスロバキアの実業家とその秘書みたいな女性。この女性もイタリア語の通訳として仕事をしておりマフィアとのつながりもあるという。
 裁判では実行犯のうちの一人だけが、犯行を認めており、証言に際して、遺族に対する謝罪から始めて、反抗の様子を細かく語っていた。ただし、うちのの話によると、事件後発表された現場の様子と犯人の証言に食い違いがあるらしい。それに遺族のうちの誰かだったか、ジャーナリストだったか覚えていないが、警察の求める筋書き通りの証言をしているようだという感想を述べているのもニュースで流された。

 残りの三人は、自らの関与を否定して、裁判で争うようだけれども、警察が世論の圧力を受けて蘇の威信をかけて捜査した結果逮捕された人たちなので、無罪になることはないだろう。状況から見て殺人を依頼した側が、今回の被告二人であるのは間違いなさそうだけれども、さらにその裏側に黒幕がいる可能性はある。実行犯のほうも裁判を受けるために準備された犯人であるようにも見える。すでに刑の確定した仲介役を含めて5人の裁判で、この事件に完全にけりをつけてしまっていいものなのか。あれこれ憶測はされているようだが、何とも言い切れないところがある。
 気になるのは、懲役の刑期の長さで、仲介役でさえ10年以上の刑期を科されていることを考えると、依頼者、実行犯はさらに刑期が長くなることが予想される。犠牲者がジャーナリストで世界中の注目を集めているからという理由で、重い判決が下るなんてこともありそうだ。スロバキアの刑法については全く知らないし、殺人という事件でどのぐらいの刑期が適当なのかなんて判断の仕様もないのだけど、判決が下った後は、ニュースでいろいろな専門家が、それぞれの意見を開帳するだろうから、またそのときに考えよう。金で殺人を請け負う殺し屋の関わった事件だから、判決が重くなるという可能性もあるわけだし。

 ところで、今回月曜日に始まった裁判には、スロバキア、チェコからだけでなく、世界中からマスコミが取材につめかけ、取材のために登録した記者の数は100名を超えたという。ニュースでは、そのうちのどれだけが、二日目以降も取材を続けるのかは不明だと皮肉なコメントが出ていた。残念ながら取材班を送り込んだ国の中に日本の名前は上がっていなかったし、日本ではこの件についてはほとんど注目されていないのだろう。事件が起きたときには日本でもそれなりに報道されたと記憶するのだが、続報はなされたのだろうか。
 クツィアク氏の事件については、当時、簡単だけれども、「 スロバキア政府とイタリア・マフィアの親密な関係 」という記事を書いたので、どんな事件だったのかについてはそちらを参照してほしい。
2020年1月16日19時。











タグ: 裁判 事件

2020年01月17日

ハンドボールヨーロッパ選手権2020男子(正月十四日)



 去年の12月には、熊本で女子の世界選手権が行なわれたのだが、1月は、男子の、今年はヨーロッパ選手権が行われる。残念ながらチェコテレビはヨーロッパ選手権の放映権を持っていないので、テレビで見ることはできないのだが、チェコ代表が出ている以上は可能な限り試合の経過を追いかけるのは当然というものである。
 ハンドボールというスポーツは大会のたびに、フォーマットが微妙に変わってみるものを混乱させるのだが、ヨーロッパ選手権は今大会から大きく変わった。一つは出場国が24に拡大されたことで、ヨーロッパの国の数を考えるとほぼ半数の国が出場できるということになりそうだ。もう一つは、3カ国の共同開催で、これまでの共同開催が二カ国でそれも隣接する国で行われてきたのに対して、今回はノルウェーとスウェーデンというスカンジナビアの二国に、オーストリアという組み合わせになっている。

 日本では全く話題になっていないだろうから、出場国をグループごとに紹介しておくと以下の通り。まだ試合の残っているE組以外はグループステージの終了後の順位で並べてある。

 A:クロアチア、ベラルーシ、モンテネグロ、セルビア
 B:オーストリア、チェコ、北マケドニア、ウクライナ
 C:スペイン、ドイツ、オランダ、ラトビア
 D:ノルウェー、ポルトガル、フランス、ボスニア・ヘルツェゴビナ
 E:アイスランド、ハンガリー、デンマーク、ロシア
 F:スロベニア、スウェーデン、スイス、ポーランド

 このうち、グループAとBがオーストリア、CとDがノルウェー、EとFがスウェーデンで試合が行なわれる。ぱっと見て思うのは、開催国に配慮した結果、開催国のいない組の勝ちぬけが大変そうだというもの。グループEなんてどこが勝ち抜けるんだろう。大会前には予想もつかなかった。現時点でアイスランドの勝ち抜けとロシアの敗退が決まっている。
 他のグループで意外な結果になったのは、ポルトガルが勝ち抜けてフランスの敗退が決まったグループDだろうか。旧ユーゴスラビアからの独立国が、コソボ以外の6つ全て出場していて、勝ち抜けたのが、バルカンハンドボールの汚染度の低いスロベニアとクロアチアの2つだけというのも意外な結果である。

 では、我らがチェコ代表の入ったグループBはというと、大会前は英雄ラザロフのいる北マケドニアが一番強いのではないかと予想していた。オーストリアとチェコは、以前から親善試合で対戦すると地元のチームが勝つことが多かったので、今回もオーストリアは開催国だし、チェコは勝てそうもないと考えて、ウクライナと強敵北マケドニアに勝つのが勝ちぬけの条件で実現は難しいのではないかと見ていた。

 それが、フタをあけてみたら、北マケドニアが意外と強くなかった。初戦でグループ最弱と目されていたウクライナに勝ちはしたものの1点差。チェコはオーストリア相手に前半を1点リードで終えたものの、後半に入って逆転され終盤に突き放されて29−32と3点差で負けてしまった。後半の30分で19点も失点しているということは、キーパーも含めたディフェンスに問題があったのだろう。出場したキーパーのムルクバがこんなにシュートを止められなかった試合は始めてだと嘆いていた。
 二試合目の北マケドニアとの試合では、逆に前半2点差で負けていたのを、後半に入って逆転し、27−25と2点差で勝って得失点差を−1にした。後半に入って左利きのカシュパーレクのシュートが決まるようになったのが大きかったようだ。北マケドニアのラザロフは11得点と活躍したけれども、他の選手のシュートが決まらず、もしくはチェコのキーパーのガリアがゴールにフタをしたおかげで勝ちきることができた。

 ウクライナとオーストリアの試合は予想通りオーストリアが圧勝。この時点で全チームに勝ちぬけの可能性が残されていた。チェコがウクライナに勝つことを前提にすると、オーストリアが北マケドニアに勝った場合には、点差にかかわらずチェコの勝ちぬけが決定、負けた場合には、2点差から4点差の場合には得失点差で敗退が決定するという状況だった。オーストリアの試合の方が先に行なわれるため、試合前に敗退が決定する可能性もあったのである。
 幸い、オーストリアは後半の途中までは接戦を演じていたけれども、最後に突き放して4点差で勝ってくれた。これであとはチェコが勝つだけである。負けた場合も点差によっては勝ちぬけの可能性があるらしいが、きっちり勝ってほしいところである。この試合も前半1点差で負けていたのを、後半ひっくり返して23−19で勝った。あっさり勝ち抜け決定である。勝った試合はキーパーも含めたディフェンスが堅かったようだ。

 次のステージがどうなっているのかはまだ確認していないが、とりあえず最悪でも12位以内に入ることが決まった。前回のヨーロッパ選手権はベテランのズドラーハラが得点王になる大活躍で、過去最高の6位に入っている。今回はその再現は難しそうだが、なんとか一桁の順位に入ってくれないものだろうか。久しぶりに登場したヨーロッパレベルで通用するポストのペトロフスキーが怪我で欠場しているのが痛いよなあ。
 次は12チームだし、二次グループかな。その結果がでたときか、チェコ代表がセンザツェを起こしたときにまたハンドボールを取り上げることにしよう。
2020年1月15日14時。










2020年01月16日

変えられない過去(正月十三日)



 バビシュ首相のEU助成金詐取疑惑がどうなるか見通しの立たないチェコの政界に、ゼマン大統領がまた一石を投じて波紋を起した。もうすぐ任期が切れるオンブズマンの後任として推薦した人物の共産党員時代の過去が暴かれ、こんな人物は人権を守る最後の砦であるオンブズマンにふさわしくないと批判を浴びているのである。批判されているのは、ゼマン大統領ではなく推薦されたヘレナ・バールコバー氏なので、ゼマン大統領が悪いとは言えないのだけど、ゼマン大統領が推薦していなかったら、この人の過去が暴かれることもなかったはずである。

 このバールコバー氏は、2013年の下院の総選挙の際に、無所属ながらバビシュ党のANOから出馬し当選した。その後、ソボトカ内閣が成立するのだが、ANOのノミネートで法務大臣に就任する。しかし、1年ほどで、期待されたほどの成果を挙げていないという理由で解任され、ペリカーン氏が後任となった。今から思い返せば、ANOとバビシュ氏がペリカーン氏を口説き落とすまでのつなぎとして選ばれたのがこのバールコバー氏だったのではないかとも思える。
 法務大臣を解任された後のバールコバー氏は、ANOに入党し、2017年の総選挙でもANOから当選して二期目の下院議員を務めている。最近は、確か政府の人権委員会のようなものでも要職を務めているようで、それが同じ人権擁護の役職であるオンブズマンへの推薦につながったものと考えられる。ゼマン大統領とバビシュ首相はつながっているので、推薦にはバビシュ首相の意向も入っていたはずだ。

 このオンブズマンへの推薦が明らかになったことで、バールコバー氏の過去の業績が問題とされるようになった。ビロード革命以前に共産党員だったことについては本人もすでに明らかにしており、他の多くの共産党員の過去を持つ人々と同様にキャリアのために入党したのだと言い訳していた。実際大学に入るためだけに共産党への入党を求められたという話もあるし、共産党員歴を持つ人を完全に排除してしまったら、社会が立ち行かないというところもあるのである。
 だから、この件に関してはそれほど大きな問題にはなっていないのだが、バールコバー氏が、いわゆる正常化の時代に、法学の専門誌に発表した論文が発見されて、その内容が問題となっている。正常化の時代に制定され、ハベル大統領などの反体制派の人々を監視し、場合によっては収監するために悪用された法律についての論文なのだが、その名前だけは「保護法」となっている法律の意義を擁護していることが問題にされている。本人の言い訳は、この法律が悪用されていたことは知らなかったというもの。

 もう一つ、強く批判されているのは、論文の共著者が、1948年に共産党がクーデターで政権を獲得した後に、政敵を敗処するために起したでっち上げの政治裁判にかかわった人物だったことだ。特に、当時国会議員を務めていた法律家のミラダ・ホラーコバー氏を偽りの自供に追い込み、死刑の判決が下された裁判の中心人物だったことで批判されている。この件についても、バールコバー氏は、共著者が政治裁判にかかわっていたことは知らなかったと言い訳している。
 問題は、当時は若手だったとはいえ、大学の法学部を出た法律の専門家が、この手のことを知らなかったというのがありえるのかということと、仮に知らなかったというのが本当だったとしたら、それは法律の専門家としての能力の不足を意味しているのではないかということだ。結局、バールコバー氏は、自らの共産党員としての過去を理由にして、推薦を辞退することを発表した。批判された論文に関しては誤りだったと認めることも、撤回することもしないようである。

 このバールコバー氏、コウノトリの巣事件などバビシュ首相の疑惑に関して、法律の専門家としてコメントを求められた場合も、バビシュ首相に都合のいい形での法律の解釈をして、法律上何の問題もないと答えることが多い。結局、政治体制がどうあっても、体制に都合のいい法律の解釈をする、体制に寄生するタイプの法律家なのだろう。この人が、政府に対して反対することも求められるオンブズマンにならなかったことは、幸いだったといえるだろう。
 実は、このバールコバー氏が政治の世界に登場したときには、2000年代初頭に活躍して政治の世界から姿を消していたハナ・マルバノバー氏をスタッフとして採用していたこともあって、ちょっと期待していたのだけど、完全な期待はずれに終わった。マルバノバー氏にとっても期待はずれだったのか、すでに協力関係は解消されているようである。
2020年1月14日24時。











タグ: ANO 法務大臣

2020年01月15日

再帰代名詞の格変化(正月十二日)



 年末以来、手抜きの一環で、これまで書いてきたチェコ語の文法の説明をテーマごとにまとめて、リンクを付けた記事を投稿しているのだが、その過程で、説明するべきなのに説明していない事項がまだいくつも残っていることに気づいた。そのうちの一つが、「se」「si」という短形で使うことが多い、いわゆる再帰代名詞である。
 これは、動詞の主語と代名詞の指すものが一致する場合に使うもので、必要なときには「自分」と訳すが、訳す必要のない場合も多いものである。動詞の中には、「zeptat se(質問する)」のように、この再帰代名詞の4格短形の「se」がないと使えないものもあるし、「p?ekvapit(驚かす)」のように「se」を付けることで他動詞が自動詞化するものもある。3格短形の「si」を付けると意味が変わるものとしては、「p?j?it(貸す)」が、「p?j?it si(借りる)」になるというものがある。

 格変化は、二人称単数の人称代名詞「ty」とほぼ同じなので、覚えるのはさほど難しくない。

 1 ナシ
 2 sebe
 3 sob? / si
 4 sebe / se
 5 ナシ
 6 sob?
 7 sebou

 違うのは、1格と5格にあたる形がないことと、2格に短形が存在しないことだけである。

 難しいのは、実際に話したり書いたりするときに正しく使用することである。いや、使わなければならないことに気づくのも最初は結構大変である。例えば、主語が私である文中に、「私に」や「私を」が出てきた場合には、人称代名詞「já」の格変化形ではなく、再帰代名詞を使わなければならないのだが、これが問題なくできるようになるまでかなりの時間がかかった。できるようになってからも、特に文が長くなってくるとしばしば「já」の格変化形を使ってしまって間違いを指摘されることがある。

 間違いの例を挙げると、
  Mluvím o mn?.
  Mluvíš o tob?.
というのは、どちらも間違いで、主語と後に出てくる人称代名詞が一致しているので、「o sob?(自分について)」という形を使わなければならない。
 三人称の場合は例外で、「Mluví o sob?」と「Mluví o n?m」はどちらも使えるが、前者が「あの人は自分について話している」という意味になるのに対して、後者は「あの人は(別の)あの人について話している」という意味になって、意味が変わってしまうのである。

 この再帰代名詞を、普段から問題なく使えるようになると、チェコ語も一人前だと言いたくなるほど厄介で、わかっていても間違えることの多いものである。特に文が長くなってくると、動詞の主語が何だったか意識が薄れてついつい普通の人称代名詞を使ってしまう。一人称単数の「já」が主語のときはできるようになっても、二人称、三人称、それに複数はなかなかできるようにならない。

 日曜日の記事なので、短めで終わろう。次は再帰代名詞の覚えておいた方がいい具体的な使い方と、解釈の仕方をつらつら書いてみようか。来週末の記事になるかな。とりあえず、毎週一回チェコ語関係について書くというのを継続しようと思う。
2020年1月13日23時。










タグ: 代名詞 格変化

2020年01月14日

ややこしい切符(正月十一日)



 水曜日、プシェロフに行く際に、久しぶりに駅の窓口で切符を買った。最近はチェコ鉄道を使う場合でも事前にネット上のEショップで購入することが多いのだが、今回は行く日を決めたのが直前だったのと、近場のプシェロフだったのとで、ダイヤ改正で変わった可能性のある運賃だけ確認して駅に向かった。駅で支払った金額はネットで確認したとおり43コルナ。改正前が41だったから、2コルナの値上げである。これで終わっていれば、特に悩むこともなかったのだけど、今回のダイヤ改正は更なる変更をもたらしたのだった。

 プシェロフの内務省の事務所で必要な手続きが終わって駅に戻ってきたのは、11時20分ごろ。窓口でオロモウツまでの切符を買おうとすると、12時5分だけどいいのかと聞かれた。それは事前にわかっていたし、他にオロモウツまで移動する手段もなかったので、全然問題ないと答えたら、こちらが求めていたのとは違う切符が出てきた。窓口の人の話では、必ず12時5分の電車に乗らなければならないけれども、オロモウツについてからトラムやバスにも乗れるという。
 切符を受け取って細かく見てみたら、朝の切符にはあったチェコ鉄道ロゴが入っておらず、オロモウツ地方の多くの公共交通機関で共通して使えるらしい切符のロゴが入っていた。これまでは、オロモウツ市内ならオロモウツ市交通局の切符で他の会社のバスにも乗れるぐらいの認識しかなかったのだが、鉄道にも適用されるようになったようだ。これがニュースで言っていた今回のダイヤ改正の目玉の一つ、ローカル線に関して地方が運賃設定をするようになったという奴だろうか。
 購入した切符の値段は40コルナ。利用できるのはオロモウツ市内と周辺に、プシェロフ市内と周辺限定で、利用時間は12時から13時45分までの1時間45分限定。この区間と時間内は、プログラムに加入している会社のものなら、電車でもバスでもトラムでも利用できるようだ。この時間内でプシェロフからオロモウツに向かう電車は一本しかないから12時5分のに乗れと言われたのだろうと解釈した。

 この手の地方単位の運賃、切符の共有化というのは、ブルノを中心とする南モラビア地方が以前から熱心に進めていたはずである。チェコ鉄道の路線番号とは別に、R9などと共有システム用の路線番号をつけて鉄道の駅でも表示されるようになっていた。年末に知り合いが南モラビア地方の東部にある実家からブルノに移動するのに、チェコ鉄道の切符を買うよりも、南モラビア共通チケットのほうが50コルナも安くなるとか言っていた。ただ、以前は普通にチェコ鉄道の切符を買っていたから、南モラビアでも今回のダイヤ改正に際して大きく変わったのかもしれない。

 ところで、この地方の切符、利用客にとって便利かというと微妙である。プシェロフの駅に、ブルノとオストラバを結ぶレギオジェットの急行の時刻表がはってあって、オロモウツ地方、南モラビア、オストラバ地方の地方共通チケットでも乗れると書かれていたが、レギオジェットは鉄道もバスも全席指定なので、指定券を追加で手に入れなければならないはずである。仮に無料で指定券が取れるとしても、二度手間になるから最初からレギオジェットの切符を買ったほうがマシである。
 いくつかの種類の切符があるのは悪いことではないのだろうが、どの切符を買えばいかわからない、自分の買った切符で乗れるのかどうか、確信が持てないというのは、なかなかのストレスである。チェコなので、必要な情報が簡単に手に入ったり、その情報が利用者にとってわかりやすく書かれていたりする可能性はほぼ皆無である。今回も窓口のおばちゃんに、12時5分のチェコ鉄道の各駅停車に乗れといわれたから迷わず乗ったけど、この切符で、レオエキスプレスやチェコ鉄道の特急に乗ってオロモウツまで帰ってこられたのかどうかはわからない。何度も今回のような形で使っていればわかるようになるのかもしれないけど……。

 さらに、この切符どこで買えるのかもよくわからない。朝のオロモウツの駅では、普通のチェコ鉄道の切符だったし、プシェロフでこの切符が出てきたのは、客が少なくて窓口の人に余裕があったからに違いない。チェコ鉄道としては、自前の切符を売ったほうが儲かるはずだし。一応念のためにオロモウツ地方の公共交通連合みたいなものの サイト に行って見たのだけど、ここで買えるのは一週間とか一ヶ月のチケットだけのようである。
 せっかく便利で安い乗車券を導入しながら、どこでどれを買えばいいかわからない状態を放置しているのはもったいない話である。これからあと2回プシェロフに行かなければならないので、3時間から4時間有効のチケットがあれば、一枚で済むから楽だと思うのだが、どこでどうやって購入するのかわからない。
2019年12月11日23時。










2020年01月13日

永延二年三月の実資(正月十日)



 永延二年三月の記事は、『小右記』には四日分が残っているに過ぎないが、『大日本史料』に収録されたものもそれほど多くない。『小右記』の記事はすべて摂政兼家の六十歳のお祝いに関係のあることが記されたものなので、兼家の子孫が抜書きしたものが残ったのかもしれない。


 とまれ、三日は『日本紀略』に「御灯」が行われたことが記される。この儀式は三月三日と、九月三日に行なわれたもので、北辰と呼ばれた北極星に灯火を捧げて、国土の安泰を祈った仏教行事である。宮中行事としては平安時代後期には廃れたようだが、後には民間でも行われるようになったという。


 この月の『小右記』最初の記事は十日のもので、まず円融上皇のところで童舞。夜になって帰宅している。最後に伝聞の形で、摂政兼家の長寿お祝いに法性寺が奉仕したことが記されているが、実際に行なわれるのは、十六日なので、この時点では準備を始めたと考えておくのがよさそうだ。


 十三日は、石清水神社の臨時祭が行われたことが、『日本紀略』だけでなく、『小記目録』にも見える。『小記目録』に記載されているということは、本来この日に石清水臨時祭についての記事があったということで、残っていないのが残念である。実資のことだから、祭りの日だけではなく試楽などから記していたに違いない。
 この祭は三月の二番目の午の日に行われたもので、臨時というのは、放生会に対しての謂いで、毎年行われた。もともとは平将門・藤原純友の反乱の平定を祝ったもので10世紀の半ばに始まり、毎年恒例となったのは970年代に入ってからという比較的新しい祭である。


 十六日は『小右記』に法性寺で行われた摂政兼家の六十賀の様子が記される。六十という年齢に合わせて長寿を願う「寿命経」を六十巻書写し、六十人の僧を招いている。実資は出席しておらず伝聞の形で記され、現時点では詳しいことはわからないと付け加えている。
 また、この日は左大将藤原朝光に呼ばれて邸宅である閑院に出向いてあれこれ話している。この日の朝、寝殿の巽、つまり南東の角で小火騒ぎがあったらしい。その後、円融上皇のところに向かうが、十日に続いてまた童舞。一度帰宅して参内し朝まで候宿。


 廿日は円融上皇の御願時である円融寺で五重塔の供養が行われる。『大日本史料』の解釈に寄れば、十日と十六日の、実資も出向いた円融上皇のところでの童舞は、この日の五重塔供養の一貫として行なわれたようである。『御室相承記』に寄れば僧寛朝が供養に奉仕したという。


 廿一日は、本来は二月に行われた春の季の御読経の発願である。『小右記』には摂政兼家が、この日公卿以下の官人たちの怠慢をとがめたことが記される。自分が担当する儀式の日に出てこなかったり、儀式に出仕しても責任者の上卿が参入する前に退出したりするものが多かったようである。こういうことは繰り返し戒めなければならないというのは正論にしても、それを告げた相手が右大臣の為光というのが心配になる。
 その後、女官二人に、昇殿と禁色が許されたことをはさんで、兼家の六十賀に関する引き出物のことが決められているが、差配したのは右大臣為光と兼家の息子である権大納言道隆。為光が摂政兼家に近づいているのが見て取れる。出仕していた実資は、決まったことを書き留める執筆の役を果たしている。四位と五位の人の名前が、それぞれ六人ずつ挙げられているが、そのうち五位の藤原行成と源明理の服装が適当なものではなかったと実資が批判している。


 廿四日は、廿一日に始まった春の季御読経が結願する。『小右記』の記述によるとこの日も公卿の欠席が目立ったようである。天皇の物忌みに一人も来なかったとも読めるのだけど、どうだろうか。
 宮中に於ける摂政兼家の六十賀の儀式は、廿六日に常寧殿で行われるのだが、前日のこの日に、天皇の命令で、年齢にあわせて六十箇所の寺で読経が行われている。使いとして派遣されたのは侍従だが、平安京から近い寺には四位の官人が派遣されている。読経は兼家の娘で一条天皇の生母である皇太后詮子のところでも行われている。
 また、天皇は六十石の米を貧民に施している。場所は大内裏の正門である朱雀門の前。最後の部分がよくわからないのだが、左京と右京の牢獄に収容されている罪人たちにも施しの米を分け与えたと言うことだろうか。配布に当たったのが罪人という可能性もあるか。牢獄が大内裏のすぐ外の朱雀門の近くにあったとは思えないし。
 残念ながら廿六日の六十賀のお祝いの様子は、『小右記』には残っていないのだが、『栄華物語』や『大鏡』にも取り上げられているので、そちらを読めば大体のことはわかる。実資の記録を参考にしたなんて話はないかな。


 廿六日の出来事としては、『大日本史料』に右大臣為光が法性寺で供養の儀式を行い、円融上皇が臨席したことも立項されている。為光は円融上皇よりも花山上皇に近いと思っていただけに意外な出来事である。

2020年1月11日24時











2020年01月12日

最近チェコ鉄道事情(正月九日)



 十二月半ばのダイヤ改正以来、遅延や運行中止を連発して、最大の批判にさらされているのがドイツ鉄道傘下のアリバなのは間違いないが、レオエキスプレスや、レギオジェットなどでも、新たに運行を担当し始めた路線で、アリバほどではないが問題が発生しているようだ。一番の問題は想定していたよりも多くの車両、気動車が必要だったということのようだ。

 そのため1960年代、70年代以前にに使用されてお蔵入りになっていたものを引っ張りして使用しているところもあった。スロバキアの東部にあるフメネーから持ってきた車両が走っているなんてニュースも流れていたが、一番驚いたのは、交通博物館に展示してあったものを借り出したという話で、展示物なので車内の表示なんかもいじることができず、共産主義時代に黒海沿岸の保養地まで走っていたときの表示がそのままになっていた。
 利用者は何かの悪い冗談のように思えると頭を振っていたけれども、古い電車やトラムをレストアして走らせるイベントだと喜んで乗りに来る人たちがたくさんいるのだから、そんなイベントで特別料金を取れらるような車両に普通の料金で乗れると思って喜ぶしかなさそうだ。いっそイベントにしてしまえばよかったのに。

 ダイヤ変更直後に多少の混乱が見られるのは毎年のことなのだが、今年は大々的に私鉄が導入されたせいで、担当する路線の減ったチェコ鉄道も例年以上に混乱を見せている。始発の駅や終点の駅が変わったり、販売される切符の種類や割引が変わったりして、利用客のほうも混乱した状態にあるようだ。チェコ鉄道が往復割引の切符を廃止したことを知って、怒っている利用者もニュースになっていた。

 昨日の朝、プシェロフに行ったのだが、オロモウツ駅構内の掲示板にプシェロフ行きの普通列車は表示されていなかった。よく見るとフセティーン行きの各駅停車があって、途中通過駅にプシェロフが表示されていた。オロモウツからフセティーンまで行く各駅停車なんて、昔はともかく最近は見たこともない。今回のダイヤ改正で新しく登場した接続なのだろう。
 使用されている車両は、近年各駅停車にも新しい車両、もしくは改修済みの車両の導入を進めているチェコ鉄道らしからぬ十年ぐらい前に普通に使われていたものだった。改修されていれば座席が変わっているはずなのだが昔のまま。中には座る部分がひっくり返っていて利用できないところもあった。トイレもあるのに利用できなくなっていた。プシェロフで降りようと思ったら手動で開けるドアが内からも外からも開けられず、あわてて隣の車両に移てから降りる羽目にもなった。

 行きは行き先が意外だったのと、車両がぼろっちかったのが問題だったが、帰りの電車は今までもよく使っていたプシェロフとオロモウツの間だけを走る各駅停車で、車両も最新ではなかったが朝のものよりはずっときれいで快適だった。後のほうにちょっとぼろそうな車両も付いていたけど、それでも行き先が電光表示になっていたから朝のものよりは新しそうだった。

 ただし、問題がなかったわけではない。オロモウツとプシェロフの間を往復する各駅停車は3両から4両編成のことが多いのだが、6両編成になっていた。問題は各車両の行き先表示で、前半の3両は、ドアの窓にコイェティーン経由ネザミスリツェ行きという表示が紙に印刷されてはりつけられており、後半の3両には電光表示でフセティーンという文字が書かれていた。これがヘプとか、チェスキー・クルムロフのようなありえない地名であれば悩むこともないのだが、ネザミスリツェにも、フセティーンにもプシェロフから普通列車が出ているのである。
 前半の3両は、ホームのオロモウツ行きの表示のすぐ脇にあったのと、直前にホームの反対側の線からネザミスリツェ行きが出たばかりだったのとで、乗っている人が多かったが、後半の3両は、チェコ人でも不安に感じたようで、乗り込もうとする人はまったくいなかった。3両目も乗客がほとんどおらず、切り離されたりしたらどうしようなんてことを考えてしまった。普段は別の路線を走っている車両をこの日だけオロモウツ行きに転用したということも考えられなくはないけど、行き先表示の紙をはぐぐらいたいした手間じゃなかろうに。

 プシェロフの駅では、アリバのプラハとニトラを結ぶアリバエキスプレスが、3月まで運休するという表示も見かけた。アリバにとっては最も重要な便だろうに、利用者が減っているのか、人員が足りないのか。一度乗っただけで二度と乗るまいと思ったから、こちらに実害はないけど。アリバだけでなくレオも、木曜日のいくつかの便を運休にするという表示を出していたし、新たに参入した路線の負担が大きく、そのしわ寄せが既存の路線に来ているようにも見えなくない。

 競争を導入して利用客へのサービスを向上させようというのは、プラハ−オストラバ間などの幹線の特急では大成功を収めた。それを地方のローカル線まで拡大し、一部の担当企業を変えた結果、鉄道の運行は、二十年、三十年昔に戻ったかのように不安定になり、近年大きく改善されてきていた利便性も元の木阿弥になってしまった。何よりも鉄道網が分断され、チェコ鉄道に乗れば、どこにでも(たいていのところには)行けるという安心感がなくなったのが痛い。
 鉄道の部分的な私鉄化というのは、EU内のトレンドに乗っかったものだろうけど、太陽光発電と同じで追随しすぎたのが大間違いだったとしか言えない。日本でもヨーロッパではこうだからとかいう理由であれこれ主張する人がいるだろうけど、相手にしないほうがいい。ヨーロッパでうまくいっていないことでも賞賛するような「ヨーロッパ通り」もいそうだしなあ。
2020年1月9日24時。













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