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2015年10月26日

9月中旬 退院

入院したのが7月末。退院が9月中旬合計50日間の入院生活だった。
病院で最後の食事となる朝食を食べた。普通食の食事はなんと美味しいことか。
身辺の整理は全て終えた。後は旦那が迎えに来るのを待つだけだ。
支払いも終え、前日からお世話になった内科、外科の担当医師、看護師達に丁寧にお礼を言って回った。
「お世話になりました」という言葉がぴったりだ。患者が元気な姿で退院していくのが、医師、看護師には一番嬉しいものかもしれない。みんなで食べてもらおうと買った菓子折りを看護師に渡したが、受け取ってもらえなかった。これほど良くしてもらったのにお菓子一つ渡せない。お礼の言葉しかなかった。

久しぶりに化粧をし、コンタクトを付けて入院時に着てきた洋服を着た。
入院中はすっぴんのメガネ姿でなりふり構っていなかった。白髪も毛根から2cmほど出ているが、それ以外は入院時と変わらない。8kg体重が落ちて少しスリムになったぐらいだ。
本当に治った、元の生活に戻れるという実感が沸いた。

旦那が迎えに来てくれた。同室の胃癌の女性はまだカウンセリング中であった。直接お別れの挨拶をしたかったが、帰ってこないので置き手紙をして一歩先に退院した。
外に出ると、まだ日差しが強く暑い。車に乗り込み外の様子を見ると、世界が輝いて見えた。何気ない風景だが、こんなに美しく明るかったのかとびっくりするほどだ。涙が出そうになった。

旦那と帰りに大型のショッピングモールに立ち寄った。お昼時なので、簡単にフードコートで食べることにした。私は念願のマクドナルドのハンバーガーを食べた。他にもメニューはあったが、がっつりとハンバーガーにかぶりつきたかったのだ。美味しい、お肉がものすごく美味しかった。
当分は油分の強い食べ物やお酒は控えてくださいと内科の医師に言われていたが、退院した日だけは我慢できなかった。幸いにして膵臓は元気に働いてくれたようだ。

買い物をして旦那と家に戻った。台所に入ると、様子が変わっている。旦那が調味料の置き場を整理し、綺麗にしてくれていた。また、ベランダの植木達にも水をやり、手入れをしてくれていたようだ。
家がこんなに愛しい場所だとは。久しぶりの調理も楽しい。夜は旦那と食事をしながらテレビを見て笑った。
誰にも気兼ねなく、好きなことができる場所。長い入院生活後の自宅は、格別の居心地の良さだった。

会社に戻る前に美容院に行き、毛染めした。完全に元気になった気がした。仕事へは退院後3日目から復帰した。私は元気そのものだった。普通に残業時間に仕事をしていたら、周りが早く帰るようにと心配して声をかけてくれた。9月末の期末の忙しい時期にも間に合った。それでも数ヶ月間は頭の働きが悪かったように思う。しかし周りの配慮もあり、私は無事仕事にも復帰することができた。
週に一度お見舞いに来てくれた女性の先輩にお礼を言いにいくと、とても喜んでくれた。

私は今でも1〜2年に1回は血液検査とCTを撮っている。インスリノーマは大半は再発しないらしいが、念のためである。膵臓は以前のとおり、元気に油っぽい食事もお酒も受け入れ、問題なく働いてくれている。

この闘病記録はもっと簡単にまとめるつもりであったが、書いているうちに細かく書きたくなった。
もしも低血糖やインスリノーマの疑いや原因不明で悩んでいる方がいたら、少しは役に立つかもしれない。
書いていくうちに辛かった日々も、沢山の人達に助けられたことも思い出した。

自分の命は沢山の人達に助けられて今あること、健康はとても有難いものであること、日々生きれることは、当たり前ではないこと、病気になったからこそ身に浸みてわかったことだ。
これからもお世話になった方への感謝を忘れず、健康に気をつけて毎日を前向きに歩んでいきたいと思う。

〜闘病記録はこれで終わりです。最後までご覧いただき、ありがとうございました〜
タグ: 退院

2015年10月25日

2009年9月 ある日突然に

入院中は暇なので別の部屋の人の名前を見て歩いていたら、心当たりのある名前が2人見つかった。
なんと同じ会社の他部署の知り合いが、同じ階に2人入院してきていたのだ。一人は個室、もう一人は4人部屋だった。個室の人は3日間の入院。小さな腸のポリープの切除。もう一人は胃癌だった。
2人の男性は挨拶に行ったらびっくりしていた。男性達は会社で見るより頼りなく不安気な様子だった。

他人だが個室にいる患者の中に、大きな声を出す年配の男性の患者がいた。院内の廊下に響き渡るほどの声を出す。大声が出るなんて元気だ。どうも構ってほしいようだ。日中はたまに車椅子姿でナースセンターにいることがあった。ナースセンターにいるとおとなしく静かで機嫌が良い勝手なジジイだ。病気になると、案外男性のほうが弱さを見せるものなのかもしれない。

私はドレーン引っ掛けによる膵臓の炎症で点滴だけの絶食生活が1週間続き、手術後3週間が経過した。
外科医は変わらず毎日様子を見に来てくれた。何度かドレーンを少しずつ短くするミニ手術のようなものをして様子を見た。膵液漏は減る様子がない。しかし目には見えないが間違いなく膵臓は治ってきているのだ。。

同室の患者は次々に退院していき、4人部屋に残ったのは胃癌の女性と私の2人になった。胃癌の女性は手術後も自分で起き上がらろうとせず寝たきり状態を続けた。手術後は一日も早く自分で立ち上がりリハビリに励み体力を付けなければいけない。もう十分に自分で立ち上がれるのに、この女性は寝たきりでいつも看護師や付き添いの男性を顎で使ったのだ。お蔭で床ずれができ、退院が伸びた。

先に退院していった年配の女性が、退院間際に胃癌の女性に「もっと自分で何でもしないと、治る病気も治らないよ」と注意した。その年配の女性は私に「これでちょっとマシになるかもね」とにこっと笑って退院された。
そんな胃癌の女性も退院が決まった。4人部屋に私一人になる。この後ろ向きな女性よりも早く退院したかったが、私の膵液漏れはまだ続いていた。残念だ。
胃癌の女性は退院が決まったのに、さして嬉しそうな様子はなかった。私は嬉しそうでもない女性におめでとうと祝う気持ちになれず、凹みながらさっさと寝た。

翌朝起きると、いつも膵液が200〜300ccほど貯まっているバッグに、膵液が殆ど無い。看護師さんが膵液を早く回収したのだろうか?と一瞬考えたが、そんなことはないだろう。
ひょっとして膵液漏が止まった?!嬉しくて声を出しそうになった。血圧と熱を測りにきた看護師さんに膵液のバックを見せ、「膵液が全然貯まってないんです!」と報告した。看護師さんも「ほんとだ!もしかすると止まったのかもね」と喜んでくれた。外科医にも膵液が貯まってないことを確認してもらった。外科医は明日の様子を見ましょう。明日が楽しみですね。とにっこりと笑ってくださった。

その日は一週間に一度の院長先生の回診日だった。先週の回診時、院長先生は私に「止まらない膵液漏は無いからね」と励ましてくださった。今回の回診で膵液が殆ど貯まってないことを報告すると、院長先生は「もうすぐ退院できるかもね」とにっこり笑ってくださった。「退院」。一番聞きたかった言葉だ。
その日は一日経っても膵液は殆ど出てこなかった。

徐々に膵液の量が少なくなると想像していたが、こんなに急に少なくなるものなのだ。とうとう膵臓の傷口が塞がったのだ。見舞いに来た旦那にすぐ報告し膵液のバッグを見せたが、旦那は疑心暗鬼な様子だった。明日になったらまた膵液が増えているのではないかと思ったようだ。
私は退院したら何を食べよう?会社では9月末に期末のまとめ資料の作成が必要だ。間に合うかな?急に退院が現実味を帯び、退院後にしたいことをあれこれ考えて夢心地になった。
明日も膵液漏が止まっていますように・・。祈るような気持ちで就寝した。

翌朝起きると、やはり膵液は殆ど出ていなかった。本当に止まったのだ。
外科医はもう退院できますよと言ってくださった。いつできるのか聞いたら、明日以降なら良いという。ドレーンも今日外してくれるというのだ。ドレーンを外した翌日に退院できるとは予想していなかった。
私は明日の午前中退院することに決めた。とにかく早く退院したかったのだ。胃癌の女性も明日退院が決まっていたので、同時に退院することになる。

ドレーン(管)を外すのは、あっけないほど簡単だった。ドレーンを外した後は大きな絆創膏1枚だけだ。
あまりに簡単なので「こんなので大丈夫なんですか?」と聞いたら、注意事項はお風呂に入る時は絆創膏の上にビニールの水防止テープを上から貼ってシャワーし、暫くは湯船に浸からないことと、重い荷物を持たないことぐらいだった。中から液が漏れたら絆創膏を貼りかえるだけで良い、自然に皮膚は閉じるのだという。
一ヶ月近く空いていたドレーンの穴がそんな簡単に塞がるとは。膵臓と臍の右横5cmほどを繋いでいたドレーンの道は自然に無くなるのだそうだ。人間の体はよくできている。

ドレーンから約1ヶ月ぶりに解放された。もう私の体は何の管とも繋がっていなかった。もう何処に行くにも手ぶらで歩けるのだ。ドレーンがあると寝ていても管が気になるし横になって寝れず腰が常に痛かったが、今日からはベッドで右を向いても左を向いても良いのだ。

医師にあと一日ですが、普通食を食べては駄目かと尋ねたら良いという。退院日の朝食は普通食に変えてもらった。やっと普通の食べ物が食べれる!夢のようだった。会社の上司や関係者に明日退院するとメールを打った。ベッドの周りの自分の荷物をまとめ整理した。明日の午前中に私は退院する。私はこの日の夕方、我慢できず病院の喫茶室で一人で久しぶりにミルクコーヒーを飲んだ。胃に浸みるような美味しさだった。
明日の病院の昼食はもう要らない。旦那と外で食べて家に帰るのだ!

2015年10月24日

声が出ないほどの痛み

手術後、点滴も取れた。体力も回復し、あとは膵液漏が無くなれば退院も見えてくる。
このお臍の右横のドレーンから膵液が出るのが止まるのを気長に待つだけだった。

ある日の夜、膵液入りのバッグを手に持ちトイレに行こうと思った時、事件は起こった。
ベッドの端にドレーンを引っ掛けたのだ。ドレーンが引っ掛かり、病室にぐっと押し戻される感じ。
あっ!と心の中で声が出た。しまった!ドレーンを引っ掛けた!
が、ドレーンは外れることはなかった。良かった・・

しかし、暫くすると鋭い痛みが襲ってきた。ドレーンを引っ掛けたことで内臓に膵液が漏れたのか?
背中から腹部にかけて激痛が走り、くの字型に体を折り曲げたまま声が出てこないほど痛い。
ベッドのボタンで看護師を呼び、看護師はすぐに当直の医師を呼んでくれた。
当直の医師は外科の担当医と連絡を取り、処置の方法を聞いて対処してくれた。
局部麻酔を打ち、引っ掛けた場所を処置する。処置としては無事なんとか終わったようだ。
処置後すぐに消灯の時間になった。幸いにして同室の患者はカーテンを閉めて何かしているとぐらいにしか勘づかなかったようだ。

これは100%私のミスだ。痛い目をしても自分のせいだ。当直の医師や看護師に余計な仕事を増やしてしまった。痛み止めも飲んだが痛みは治らない。冷や汗が出てくる。私は他の同室の患者に心配させたくないので、唸るのも我慢した。

看護師が心配して私の横に付いていてくれた。あまりに痛く睡眠薬も飲んだが、とても寝れない。
ナースセンターにベッドを運びましょうかとも言ってくれる。手数をかけて申し訳ないので断り、自分のベッドで耐えることにした。それからも看護師は入れ替わり様子をベッドまで見に来てくれた。

2時間経っても痛みはおさまらない。看護師が寝れるまで手を握り、横についていてくれるという。
私は痛さから少しでも気を紛らわす為に話をした。声も途切れ途切れに必死で話しかけた。看護師に、なぜ看護師になったんですか?などと質問した。「なんでかな・・なんとなくなったのよ」と笑いながら看護師は答えた。こんな大変な仕事になんとなくなれるものなのか?と思いつつも、そうですかと返した。もっと話をしたかったが、痛みで質問や声が出てこなかった。

看護師に手を握ってもらっているだけで安心できた。消灯後の暗い病室で激痛の時に看護師に横についていてもらえることが、どれほど心強いものか。看護師は交代で手を握り、横についてくれた。
追加の睡眠剤をもらい、少し痛みが薄れた気がした。「なんとか寝れそうです。ありがとうございました。」と小さな声でお礼を言った。看護師は痛くなったらすぐに呼んでくださいねと言い残し、病室を出て行った。看護師の有難さをあれほど感じた日はない。

翌朝、激しい激痛は落ち着いたが、チクチクとした痛みは継続した。ドレーンが動き、膵臓が炎症を起こしたようだ。アミラーゼの値が異常に上がり、担当医から「痛かったでしょう?」と聞かれた。
滅茶苦茶痛かったと答えた。手術後も麻酔で全く痛みに遭遇しなかったのに、皮肉なものだ。
膵臓を痛めると壮絶な痛みを伴うものなのだ・・。これからは気をつけなければと深く反省した。
それから一週間は絶食の点滴生活になった。

2015年10月23日

長引く入院中に知ったこと

インスリノーマの手術後二週間経っても膵液漏は止まらなかった。
同室の人達は手術後一〜二週間で元気に退院していき、患者が入れ替わった。
私は置いてけぼり状態だった。この膵液漏、いつまで続くのだろうか・・。

外科の担当医は毎日私の様子を見に来てくださった。時には手術後すぐに駆けつけたのではないかと思う恰好の時もあった。膵液漏は続いていたが、ドレーン(管)を少しずつ短くする(抜く)ミニ手術のようなものを数回受けた。担当医は外科医らしく、手術や治療に明け暮れておられる方だった。
いつもは白衣や作業着の担当医が、ネクタイ姿で部屋に来られた時があった。「お出かけですか?」と聞いたら、これから学会に行くと言われた。
先生が部屋から出ていった後、同室の年配の女性が「今日は先生、ええカッコやったね」と私に声をかけ、一緒に笑った。同室の女性達はみんな、私の担当医は毎日様子を見に来てくれて羨ましいと言った。
同室の人は乳癌、子宮癌、胃癌の患者で全員違う担当医だが、確かに毎日様子を見に来てくださるのは私の担当医だけだった。みんなが言うように膵液漏れが続いていても、先生が様子を見に来てくださるだけで心丈夫で救われた。

手術後すぐにお見舞いに来てくれた友達や会社の上司がいる。私は熱と気怠さで起き上がれず寝たきりだ。手術後に着替えた浴衣姿でいかにも「病人」だった。やつれた姿を見られるのは身内以外は嫌だった。特に男性に見られるのは辛い。私も病人とはいえ女性だ。

旦那は毎日見舞いに来てくれた。ナンプレの本を持ってきて、一緒に解いて遊んでくれた。
義父は一週間に一度、往復3時間の道のりを杖を付きながら見舞いに来てくれた。花瓶に花も持参してくれた。今でもリビングには義父から貰った花瓶があり、花を飾ったりしている。実の両親も体調が悪い中、見舞いに来てくれた。親戚の叔父さん、叔母さんも。身内、親戚とは有り難いものだ。

手術後二週間以上経ち体力が回復してくると、お見舞いに来てくださる方がとても嬉しかった。
会社の先輩女性は週に一度、会社の帰りに漫画の本を持って来てくれた。長編の漫画で、?@〜?D巻の5冊を置いて帰り、次に来る時は続きの?E〜?I巻を持参し、読み終えた?@〜?D巻を持って帰ってくれる。
会社では周りからは厳しい、怖いと恐れられた先輩であったが、私にはいつも優しい先輩だった。
会社で仕事を教えてもらい、病院では見舞いで励ましてくださった。こんな先輩は、なかなかいないのではないだろうか。見舞いの度に、会社での色んな出来事も話してくださり、先輩が訪ねて来てくださるのが待ち遠しかった。
会社の上司や同僚らも沢山来てくれた。ちょうど同僚(女性)らが見舞いに来ている時に病室に看護師の若い爽やかな男の人がいたことがある。看護師が部屋を出て行った後、話題でもちきりになった。カッコいい看護師に面倒を見てもらえて羨ましいと言うのだ。私がそういえば内科、外科の主治医も男前だと話すと、ますます盛り上がった。異性として見れるというのは、心身共に元気な時なのだろうなと後に感じた。

学生時代からの友達も代わる代わる訪ねて来てくれた。薬剤師をしている学生時代からの友達が、お見舞いに美味しいふりかけを持ってきてくれた。暫くの間、ふりかけのお蔭で味気ない食事がすごく美味しく食べれた。その友達は私の病気を知った時、混乱で取り乱すほど心配したと涙ぐんで言った。そんなに友達が私のことを心配してくれているとは思っていなかったので、正直驚いた。この病気で私が急死しても、泣くのは親達と旦那ぐらいだろうなどと想像していたのだ。私一人ぐらい死んでも、大したことはないだろうと。

私は自分の想像以上に、周りの人から大切に思われていた。深刻な病気になったお蔭でわかった。
私はとても人に恵まれていると身に染みて感じ、感謝した。
旦那とは恋愛結婚をした。恥ずかしい話だが、病気になったことで「この人と結婚して良かった」と心から感じた。結婚後毎日幸せな日を暮らしていたのに、旦那の存在が当たり前すぎてその有難みに気づかなかった。私の病気を一番心配し、迷惑をかけ、発作から守ってくれたのは旦那だ。毎日発作の時に旦那が世話をしてくれていなかったら、今頃私はいなかったかもしれない。

色んな人が見舞いに来てくれたお蔭で、励まされながら入院生活が続いた。
そんな時、トラブルが起こった。
タグ: 合併症 膵液漏

2015年10月22日

手術後の合併症(膵液漏)

手術後数日間は喉に管を入れられていた為に声がかすれ、発熱や気怠さが抜けず起き上がってトイレも辛かったが、日が経つにつれ順調に回復に向かった。術後も背中から麻酔が入っていたので内臓の痛みは全く無かった。開腹による外傷的な痛みのみだ。外傷的な痛みは日にち薬だ。痛さのうちには入らなかった。

手術後一週間経つと点滴が外された。点滴と繋がれていた腕が解放された。血糖値の測定も無くなった。毎日朝昼晩の3回、指先に針で穴を開け血液を出して測定しなくても良いのだ。もちろん飴も舐めずにすむ。
手術前は命を繋ぐ飴だったが、現金なもので病気が治ると嫌いになった。一生分の飴を舐めた気がしたのだ。また飴を舐めると、手術前の辛かった日々を思い出すのだ。



体力の回復すると私は個室から4人部屋に移った。同じ部屋のメンバーは私以外は全員癌だった。
ナースセンターから一番離れた端の部屋。いわゆる一番軽い症状のメンバーだ。
部屋の方は私より目上の明るい女性ばかりで、夜以外は仕切りのカーテンを全員が開けっ放しでお喋りをしたり励ましあった。

膵液漏は人によって一週間で止まる人もいれば、一ヶ月以上続く人もいる。医師によれば、膵臓の場合、手術後傷口が完全に閉じるのに時間がかかるのだそうだ。術前説明で合併症として膵液漏は聞いていたが、すぐに治ると甘くみていた。

膵液漏が発生している間、食事は膵臓に極力負担の少ないメニューになる。私の手術後の食事は、消化の良い油分無し、味も薄めの素っ気ないほぼ毎日同じメニューだった。油で炒めたり揚げた料理は無い。味の薄い白身の煮魚、豆腐、野菜。全部煮たものだ。果物がほんの少しあったのが救いだ。手術後体重は8kg落ちた。

同じ部屋に胃癌の手術をした女性がいた。胃癌の女性の食事メニューは手術後一週間、二週間と経つと、どんどん美味しそうなメニューに変わっていったが、私のメニューは胃癌の女性よりも素っ気ないものが続くのだった。
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