コンサートに乱入した女性客が捕らえられている場面
Cubadebate、2024年7月16日、Daylén Vega Muguercia記者
この事件は、この「今をときめく歌手」が国内複数地域で開催中のツアーの一環として今週末おこなわれた芸術イベントで発生した。
「マルカ・マンゴ、マルカ・マンダリーナ」の歌手がステージにいたとき、若い女性がおそらく抱擁する意図で彼に突進したため、その場から退出させようとするセキュリティ・スタッフに捕らえられた。ここまでは、すべて正常で、正当な行動のように思えた。しかしすぐに、すでに無力化されていたその小柄な女の子に対して、頑丈な体格のセキュリティスタッフの一人が極端な暴力を加えた。
その動画では、一部出演者の驚きを前に、スタッフが彼女の髪をわしづかみにし、怒りをこめてステージの高さから放り投げる一方、まるでその暴力は気にならないかのように、その若い女性は尊重に値する人ではないかのように、娯楽が虐待を正当化するかのように、彼女をその場から引きずりだしショーを続けろと逆上して叫ぶその他の男女の様子が、鮮明に確認できる。
わたしは、この行動それ自体、常軌を逸した暴力、同胞に対する無関心、共感の欠如に憤慨している。女性たちの連帯の欠如は、自分以外の女性への懲罰を求める女性たちの叫びにより明らかである。彼女たちの叫びを聞きながらわたしは、アナ・ベタンコートのことを考えていた。不遜で愛国的なこの女性は、同じカマグエイの地で、女性の権利のために声をあげ、キューバやラテンアメリカにおける女性解放擁護のシンボルとなった。
一方の件は義務であり、もう一方の件は侵害である。性暴力はいつ当たり前になったのか? 「セキュリティ」という文字が書かれたチョッキは、不正義を犯すための白紙委任状を与えられるのか? アーバンミュージックの歌の内容は、暴力に対する無関心に責任があるのか?
われわれの社会は、思考訓練をも服従させるエンターテイメント産業や凶暴な文化的侵略とも戦っている国家の発展や教育的・生産的日常性に影響する重大な人口流出のさなかに、価値の喪失に浸食されている。それでもわれわれは今回のような出来事を見過ごしたり、視線をそらすことはできない。
たとえアーバンミュージックの歌詞が暴力の原因ではないにしても、その作品の多くのテーマが女性虐待を賛美し、女性をモノ扱いし、女性を軽視し、女性を性的要素に矮小化していることは誰にとっても明らかであり、これがさまざまな他の社会統計学や文化的・教育的要素と結合して、この音楽ジャンルの主要聴衆である若者たちに価値を伝達する強大な影響力となっている。
家族や教育システムから伝えられた価値を若者たちが問題視するようになるのをわれわれは目の当たりにするほどである。有害な関係を称賛する歌詞を合唱し、暴力的表現を賛美する。ニカラグア自治大学が最近おこなった研究は、トラップミュージックを聴く学生に害を与える心理社会的影響を論じているが、彼らは自己の表現方法において同じ様式の不適切な行動の変化を示しており、不適当な言葉遣いをし、この音楽ジャンルの歌手たちが流行や反価値観や文化喪失を押しつけている、と説明している。
この文章はこのジャンルへの攻撃でも、この「アーティスト」への攻撃でもなく、しかし社会への注意喚起であり、責任ある当局への、警備スタッフへの、プロダクションチームへの、同県の文化担当者への、そしてすべての、この島に住むわれわれ一人ひとりへの注意喚起である。暴力を正当化するものは何もない。他人に対して、しかも明らかに不利な立場にある人に対して乱暴な暴力を行使する権利は誰にもない。
われわれは消費者として、親として、社会全体として、われわれの子どもたちが聴くもの、どこでそれを聴くか、ということについて責任がある。なぜならわれわれは残念ながら、いかにして歌詞から暴力行為に移っていくか、という証人であり続けているからである。
Esto fue lo que sucedió en el concierto de Bebeshito en Camagüey
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De letras a acciones violentas
http://www.cubadebate.cu/opinion/2024/07/16/de-letras-a-acciones-violentas/