今日鍼に行ったら大先生が治療を対応してくださいました。右膝を治療していただいている時「この痛みなら痩せなくても治りますよ」と優しく仰いました。この言葉の裏には多くの意味が含まれており、大先生の一言には優しさと励ましが詰まっていて、とても嬉しいものでした。
しかしそれと同時に、7月から8kg減量していても、まったく気づかれないということの再確認にもなって、ちょっと残念でした。ただ帰りがけに別の先生が「あら、少し痩せました?」と言ってくれました。「ええ、少しだけですが」と答えましたが、今日初めて今回の減量を気づいてくれた人に出会えました。
今日のお昼もコンビニのサラダとミニ冷やし中華、それにヨーグルトでした。工業製品です。これから人生の食生活を振り返ってみようと思います。今日は乳児の頃について書いてみます。
母は、私が生まれてもなかなか母乳が出ず苦労したそうです。そのため私はほぼ粉ミルクで育てられました。哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そして赤ん坊に口元に持っていきます。飲み終えてゲップをさせても横にした途端、赤ん坊は噴水のようにミルクを吹き出すのだそうです。
着ている肌着もお布団も全部取り替えて、それをまだ洗濯機のない時代に手洗いをしなくてはなりません。でも、ミルクを吐き出してしまった赤ん坊は、お腹がすいているので泣き止みません。そこで、また哺乳瓶を熱湯消毒し、粉ミルクを溶き、人肌に冷まし、そしてまた赤ん坊の口元に持っていこうと思うのですが、また吐き出してしまったらどうしようと思うと、若い母の心臓は高鳴ります。
このようなことを繰り返していくうちに、母が極度の緊張状態で哺乳瓶を持って赤ん坊に近づく度に、その緊張が赤ん坊にも伝わるのかミルクを飲む前から泣き出し、母の鼓動は益々高まっていくという悪循環になっていたそうです。子どもの頃から「本当によその子の何倍も手のかかる子だった」と言われ続けてきました。
時は流れて2004年、浜名湖の花博に母と一緒に出掛けたときのことです。乗り物の列に並んでいたら、近くの乳母車に乗った小さな赤ちゃんが泣き始めました。すると母は私が初めて聞くエピソードを話し始めました。
私の生まれた1960年前後は戦後約15年で、古い因習や迷信から、合理的で科学的な思考に人々の価値観がシフトし始めた頃でした。母によれば、当時育児のお手本といえばアメリカの育児の翻訳本だったそうです。これまでの戦前の育児のやり方とは違い、衛生的で近代的なアメリカ式育児法を母は早速取り入れました。
そのひとつがミルクの与え方でした。赤ちゃんが泣いたらおっぱいをあげるという従来のやり方ではなく、きちんと時間を測って、きちんきちんと時間通りにミルクを与えるという方法です。母の目にはそれが輝くばかりの育児法と映りました。
ところが、ただでさえミルクの噴水芸を得意とする赤ん坊の私は、育児本通りにお腹をすかせるわけではありませんでした。お腹がすいて泣き出しても、時間が来ないとミルクは与えて貰えません。赤ん坊は声を張り上げて泣き続けます。それでも翻訳育児本には一定の間隔を開けることがなにより大切だと書かれています。母は、赤ん坊のことを思えばこそ、心を鬼にして泣かし続けました。
赤ん坊は顔を真っ赤にして空腹を訴えますが、その内声を上げて泣く元気もなくなり、泣き声のトーンが変わっていきます。泣くというよりはヒーヒーというかすれた声だけになっていったそうです。そばにいた祖母(母の母)が声を荒げて「可哀想に。もういい加減ミルクをやりなさい」と叱っても、母は最新鋭の育児法を遵守し続けました。
力の限りを尽くした赤ん坊がくたびれ果てて眠ってしまった頃、ミルクの時間はやってきました。母は寝入りばなの赤ん坊の唇をこじ開け、哺乳瓶の吸い口を捻じ込みました。赤ん坊はむせ返り、またミルクを吐き出し、そして洗濯物が増えていきました。
母は「あの時は本当に可哀想なことをした」と目にうっすらと涙を浮かべました。まだ二十代の若い母の試行錯誤の育児はこのようにして始まりました。
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2017年09月19日
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